聖書箇所 創世記36:1

 

36:1 これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。

 

「『エサウ』『エドム』ということばを通して語っていること」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

ごく当たり前のことではありますが、人には必ず「名前」が付いています。たとえば太郎とか花子とか、です。そして聖書には数多くの人が登場しますが、それぞれに「名前」があります。ダビデとかペテロとかヨハネとか、また、イエス・キリストとか、です。また、それぞれに意味があります。たとえばイエス・キリストの「イエス」とは、「救い」という意味があります。そして「キリスト」とは、「油注がれた」(油:聖霊)という意味です。これらの意味合いは、イエスさまの歩みそのものですよね?人を救いへと導き、聖霊の歩みによって生涯を全うした型であります。そんな風に、聖書に出てくる人々のそれぞれの名前には、その人の歩みを反映するケースが多いのです。

 

そして冒頭のみことばにおいて、「エサウ」という名前が出てきます。書いてありますように、「エサウ」は別名「エドム」であります。また、「エドム」とはどんな意味か?と言うと、「赤い」とか「赤土」とか「土」という意味合いがあります。土から作られた最初の人間アダムと同じへブル語のアルファベットが使われています。

そんな風に聞くと、「えっ?エサウって土なの?人ではないの?」と思うかもしれません。じつはこの「土」ということばは、ある種のたとえを指すのです。そのことを理解していくときに、「エサウ」がどんなタイプのクリスチャンなのか?が理解できるのです。「土」について書いてある箇所がありますので、見てみましょう。

 

参照 創世記2:7(口語訳)

2:7 主なる神はのちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

 

ここで、「土」ということばが出てきます。そして「人」は「土」「ちり」で造られたということが言われています。「命の息」とは、「聖霊の息」のことです。「人は生きた者となった」とは、私たちはクリスチャンとして新生したのちに、聖霊によって生きるようになる、ということを言われています。神さまによって「聖霊の息」を吹き込まれて、はじめて私たちは神さまの前に「生きた者」という風に見なされる、ということを言っているのです。そう、「土のちり」で私たちは造られたものであること、そして「命の息」を吹き込まれてはじめて生きた者になるということを理解しましょう。さらに、「土」に関連して「ちり」ということばが出てきますので、このことも見てみたいと思います。

 

参照 伝道の書12:7

12:7 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。

 

ここで「ちり」は元にあった「地」に帰る、ということを言われています。先ほども「ちり」ということばが出てきましたね?再度おさらいしますが、私たちが「土のちり」で造られたということばと、同じ「ちり」です。そしてこの段階では、「命の息」すなわち「聖霊の息」が吹き込まれていないので物理的には生きていても、しかし神さまの前には「死んだ者」に等しいのです。肉体は生きてはいる、が、しかし「霊」は生きていない状態なのです。そして、「命の息」が吹き込まれていない状態で生涯を終える、というときに「地」に帰るとありますように、神さまの元には帰らないのです。そのあとに、「霊はこれを下さった神に帰る」とありますが、このこととは対称的なのです。つまり私たちは「命の息」(聖霊の息)が吹き込まれて、なんぼのものなのです。そして「地」とは、「地上」つまり「世の中」のことを言われているのではないかと思います。つまり、「命の息」が無い、というときに、「世の中」に着くということを語っているのではないか?と思うのです。周りくどい言い方になりましたが、エサウ、つまりエドムとは、世に着いたクリスチャンをあらわす型なのでは?と思います。しかし、もし私たちが聖霊に導かれて生涯を終えるなら、「霊はこれを下さった神に帰る」のことばが成就していくでしょう。つまり天の御国に入る、ということです。しかし、「地」に帰されてしまったらどうでしょう?少なくとも、天には挙げられていませんので、恐らく御国には入らないのでは?と思います。

 

そう、もし、エサウ、すなわちエドムの歩みをしていくときに・・・エドムのように「土」や「ちり」にとどまるような歩み、すなわち「命の息」(聖霊の息)が無いという場合に、「天の御国」が空約束になってしまう可能性があるのです。「命の息」が無い歩みとは、「俗悪な歩み」のことです。具体的には神さまのことよりも、この世のことにグーッと力を入れているタイプのクリスチャンのことだと思います。天の御国に入ることよりも、今のこの世の人生を謳歌することに力点を入れている、そのような歩みであります。けれども黙示録にも書かれていますが、「地に住む者に災いが来る」とあり、この世的な歩みをしているクリスチャンには、いずれ「災い」が来るのです。「災い」ですから、ろくでもないことが起きてくるのでしょう。ですから、もしお心当たりがありましたら、吟味&一考してみることをおすすめいたします。「世」に着いた歩みをしていくときに、入るべき所に入れなくなってしまう可能性が高いからです。

 

ご存知のように、エサウはヤコブの兄であり、なおかつクリスチャンであります。しかし弟ヤコブの前に、「長子の特権」を売り払ってしまいました。「長子の特権」とは、私たちがクリスチャンに新生した際にいただいた「天の御国」を受け継ぐべく特権のことです。もし、聖霊によって歩むならこの特権が死後、そのまま有効となるのですが、しかしながら、私たちがこの世の人と大差の無い歩み、要は聖霊の言われることにほとんど耳を貸さない歩み、いわば俗的な歩みを選んでしまうときに、この特権は神さまの前に無効となるのです。もっと言うなら、俗的な歩みを選ぶ段階で、この特権を自ら放棄することになってしまうのです。

 

繰り返しますが、エドム、すなわち「土」のままの状態でいる場合に・・・そう、「聖霊の息」が無い状態で生涯を終えてしまう場合に、いくらクリスチャンと称していても、「地」に帰されてしまうことになります。これは恐らく天の御国は厳しいと思います。しかし霊(聖霊)によって歩んでいくのなら、神さまの元に帰ることができます。これは天の御国に入るパターンとなりますので、ぜひこのことを目指していきたいと思います。往々にしてすべてのクリスチャンは一括りだと思うかもしれませんが・・・もちろんヤコブのように御国を受け継ぐタイプのクリスチャンもいますが、しかし一方エサウタイプのクリスチャンもいて、あわや天の御国を失敗するクリスチャンもいますので、そのあたりはとらえておきたいと思います。ぜひ、「土」ではなく、「命の息」(聖霊の息)による歩みをして「天の御国」を受け継いでいきたいと思います。よろしければこういうことも心に留めておいていただけると、幸いと思います。

 

最近午前の礼拝のメッセージで、「たましいに戦いを挑む肉の欲を遠ざけていきましょう」ということを学びました。「肉」とは、「世俗的」なことを言われていると思いますが、そういうことにグーッと入ってしまうときに、結果として「たましい」に戦いを挑んでしまう、ということを理解しました。たしかにこの世で生活していると、あらゆる「欲」が絡んできて、しかも野放図にしていくときにそういったことにいとも簡単に入ってしまいますので、くれぐれも気を付けていかなければ・・・と思いました。それこそエサウではありませんが、「俗的」だと神さまから見なされてしまったら、あわや天の御国をすべってしまう可能性がありますので、いつも御霊に導かれた歩みをしていければ・・・と思います。特に終末は、「欲」に引っ張られていく時代だと思いますので、心していきたいと思います。いつも大切なポイントを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。