聖書箇所 創世記39:120

 

39:1 ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。

39:2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

39:3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

39:4 それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。

39:5 主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。

39:6 彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。

39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。

39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。

39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

39:10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。

39:11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。

39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

39:13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、

39:14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。

39:15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」

39:16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。

39:17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。

39:18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」

39:19 主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。

39:20 ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。

 

「この世化した教会に言い寄られても」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

上記の箇所は、ヨセフが兄たちに売られたのちにエジプト人に買い取られて、エジプト人の主人の家にいたときに、主人の妻に寝るように言い寄られて、それを断って逃げたゆえに反対に妻から主人に、「私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。」と訴えられてしまった場面です。その結果、主人から怒りを買い、ヨセフは監獄へ入ることとなったのです。

 

実際にこのことは起きたのでしょう。そしてこの記述を通して、ヨセフはなんて不運な人なのだろう?兄たちには売られ、けれどラッキーにも一時的にはエジプト人に引き取られて色々と成功を挙げたのに、しかし今度はあろうことかやってもいない罪をきせられて監獄へ入るなんて・・・と思うでしょう。おもての面はたしかにそうなのですが、しかしよく語っていますように、また、レムナントキリスト教会でも行っていますように、ここで聖書のたとえの意味合いに関しても言われていると思われますので、そのことをも見ていきたいと思います。

 

39:1 ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。

39:2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

39:3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

39:4 それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。

39:5 主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。

39:6 彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。

 

「ヨセフがエジプトに連れて行かれた」とか「エジプト人が~ヨセフを買い取った」とか「エジプト人の主人の家にいた」とかありますように、「エジプト」ということばが使われています。ちなみにレムナントキリスト教会において、「エジプト」とは、「この世」をあらわすたとえではないかという風に理解しています。そしてまた、「エジプト人の主人の家にいた」とありますが、「家」は「教会」のことを指しますので、つまり、「エジプト人の主人の家」とは、「この世化した教会」とか「この世に着いた教会」のことを言われていると思います。今で言えば、同性愛を迎合していたり、進化論を肯定している教会のことを言われているのでしょう。

 

39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。

39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。

39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

39:10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。

 

そんな中、主人の妻は、「私と寝ておくれ。」とヨセフに迫りました。「寝る」ということばについて「主人の妻」は、「教会」をあらわすたとえではないかと思います。しかしながら、エジプト人の妻なので、「教会」と言っても、エジプト化した教会、すなわちこの世化した教会であります。また、ヨセフはみことばに正しく着くクリスチャンをあらわしているとも思います。そう、エジプト人の主人の妻がヨセフに寝るように迫ったというのは、この世に着いた教会が正しくみことばに着いているクリスチャンと何らか関係を持ち、あわやこの世化させるという意味合いがあるのではないかと思います。さらにそれは世の終わり、終末に再現するのでは?と思うのです。サタンがこの世化した教会を通して、正しいクリスチャンをおかしな教理や霊に引っ張っていこうとする動きはすでに始まりつつあるように思います。

 

たとえばはじめに話しましたように、「進化論は正しい」なんていう教えです。ローマ・カトリック教会が唱えているということですが、聞いたところによるとどうも一部のプロテスタントの教会にもそのようなことが入ってきているそうです。もしかするとそれは本当なのでは?と思います。これも聞いたことなのですが、最近カトリック教会とプロテスタント教会の神父や牧師が交換メッセージを行っているようだからです。しかもダニエル書には北の王の勢力が南の王よりも強い、ということが書かれています。また、エレミヤ書では災いが北からこの地の全住民に降りかかる、ということが言われています。旧約の「北」とか「北イスラエル」は今で言う、カトリックのことです。そして「南」とか「南のユダ」とは、プロテスタントのことを指します。ですからカトリックの神父がプロテスタントの教会でどんなメッセージを語るのか?あるいはプロテスタントの牧師がカトリック教会でどういう話をするのか?については概ね察しがつくと思います。絶対に、とは言えませんが、恐らくカトリックで言われている教理がいずれも優先されているのでは?と思います。

 

話は少し脱線してしまいましたが、そうなんです、終末はこの世化した教会を通して正しいクリスチャン、すなわち天的なクリスチャンを地(この世)に着けようとする働きをサタンが教会を通して行われる時なのであります。そしてそれは次々とみごとに成功しているのです。進化論のことは一例であって他にも挙げ出したらキリが無いのですが、クリスチャンが艱難時代を通らないという教えも同様です。艱難前携挙説、艱難中携挙説、レフトビハインド等の偽りの教理によって、多くのクリスチャンは艱難時代の備えをすっかり怠らせられています。あるいはクリスチャンは皆天国へ行ける、一度救われてしまえば大丈夫、地獄は無いというものもそうです。それによって罪を犯しても悔い改めなくても大丈夫、あの罪も、この罪もOKなんていうことになって、この世の人、つまりノンクリスチャンとほとんど大差がない状態になってしまうのではないでしょうか?しかし聖書ではそのようなことは一切奨励しておりませんので、そういうことを受け入れたり、語ったりする教会は警戒していきたいと思います。そうなんです。ヨセフが主人の妻の誘いをキッパリと断ったように、万が一にも「こういう良い教えがありますよ~。地獄は無いなんて良い教えだと思いませんか?」なんて言われても、「否!」という態度をきちんと示して、受け入れてしまうことのないようにしていきたいと思います。

 

39:11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。

39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

39:13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、

39:14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。

39:15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」

39:16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。

39:17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところにはいって来ました。

39:18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」

39:19 主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。

39:20 ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。

 

主人の妻に毎日言い寄られて断り続けてきたヨセフなのですが、しかしある日彼女に上着をつかまれて、「私と寝ておくれ。」と強く迫られました。けれどもヨセフは自分の上着を残して、彼女から逃げて外に出ました。このところからの語りかけも見たいのですが、その前に「上着」ということばに関しても、少し見てみたいと思います。

 

参照 マルコの福音書13:16

13:16 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。

 

「着物」ということばに目を留めてください。じつはこの「着物」ということばと、先ほどの「上着」は、同じ意味合いで使われています。両者共に英語では“garment”(衣服、着物)とあるからです。また、「衣服」とか「着物」に関して、いくつかの意味合いがあるのですが、この場合はもしかすると、教会にいる兄弟姉妹のことを言われている可能性があります。このことばは、イエスさまが世の終わりに関連して弟子たちに語られたことばなのですが、その前の節には、「屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうと中にはいってはいけません」とあり、このことは反キリストに席巻されて教会から出て、「屋上」(地下教会)での歩みに入ったクリスチャンへの警告として語られています。「家」とは、この場合、反キリストに席巻された既存の教会、公の教会のことを言われています。つまり公の教会でどんなに親しい兄弟姉妹がいたとしても、決してそこに戻ってはならない!ということを言われているのです。万が一にも戻るなら、反キリストを拝むようになってしまうからです。そういう意味合いで、どんなに親しい関係にあろうとも、「あの兄弟がいるから、この姉妹がいるから」などと言って、公の教会、すなわち反キリストに席巻されたこの世化した教会には絶対に戻ってはダメなのです。

 

話は前後しますが以上のことから、そして12「ヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」のみことばにもありますように、ヨセフの取った行動が正しいのです。もし、仲の良かった兄弟姉妹と別れなければならないとしても、しかしエジプト化したこの世の教会からは出て行くことに御心があるのです。その際に、17,18節にありますように不利な証言や偽証を立てられたりするかもしれませんが、はたまた捕らえられて監獄へ入れられてしまう可能性もあるかもしれませんが・・・しかしそれはいずれも一時的なものですので、そのことを気にしたり、心配したりする必要は全くありません。反対にそんなことを気にしてこの世化した教会に残ってしまったらゆくゆく反キリストを拝むこととなり、しかもそれだけではなく、最悪永遠の命を失う可能性がありますので、もし、教会がこの世化した場合にはヨセフの足跡に倣っていきたいと思います。

 

レムナントキリスト教会でも度々言われていることですし、そして繰り返しますが、世の終わりは教会のエジプト化が再現すると思います。ペテロやパウロのような使徒たちから伝承された正しい教えが崩されていき、さいごは教会の礎石であるキリストの教えまでもが取り除かれて、教会が教会らしからぬものに変質する時代がやってくると思われるのです。その時にどうするのか?聖書において、また、イエスさまは、「そこから出て行きなさい!」と言われています。「出て行って、そのあとはどうするの?」と心配される方もおられるでしょう。大丈夫です。教会から出て、それで終わりではなく、この世化した教会から出たのちに「屋上」に行くことをお勧めしています。「屋上」とは、「地下教会」のことです。別名「仮庵の祭り」とも言われています。そこで何をするのか?と言うと、主を礼拝したり、賛美したり、メッセージをしたりと、働きを担っていくのです。そう、この世化した教会から出たのちには地下教会の歩みに入って、反キリストに席巻された教会からひとりでも多くのクリスチャンを助けられるような働きを行っていくのです。レムナントキリスト教会は先駆けておよばずながらそのことを実践しております。他の教会やクリスチャンが真理を見ることができるように、また、終末や再臨に関して正しい方向性を示すことに努めております。

 

人間的な常識では、教会がこの世化するとか、そういう教会から出て行く、なんてことは考えづらいかもしれませんが、今回の箇所や福音書をはじめ、聖書のあちらこちらにおいてこのようなことが書かれていますので、聖書の言われている常識に従っていきたいと思います。よろしければこのようなこともご理解くださると幸いに思います。

 

もしかすると何度か話したかもしれませんが、今から6年半前に既存の教会を出て、地下教会を行っているレムナントキリスト教会へ行くようになりました。このようなことを申し上げたら、信じられない!と思うかもしれませんが、イエスさまから「今の教会を出て、レムナントキリスト教会で歩みや働きをしていきなさい」という語りかけを受けたことがきっかけでした。そのひとつの理由として、そこの教会では艱難前携挙説が推進されていたからです。つまり、その教理にくっついたままだと、艱難時代の備えが出来ない、ということでした。むろん私はその教会のことは好きでしたし、そこにいる牧師さんや献身者や伝道者や教会員の方を敬っていましたし、今でもそう思っております。けれども主からの語りかけでしたので、そして自分自身も「そうかもしれない」と思いましたので、思い切って教会を出ることにしました。当初、そこの教会員の方から「今一度、考え直したほうがいい。戻ったほうがいい」とも言われたのですが、しかし神さまからの語りかけだったので、「色々とご心配くださることはありがたく思います。ですが、申し訳ありません。新しい教会で歩みをしていきます。」とお断りしました。

 

それからしばらくして、私のことで根拠の無い噂話が飛び交っている、ということをかつていた教会の方からお聞きしました。中には、あからさまに迫害する方もおられました。そのことは少し残念に思ったのですが、けれども今回のみことばに登場したヨセフも同じような目に会いましたので、そういうことは仕方が無いかな・・・と思います。いつか分かっていただければ良いかな、とも思っています。しかしまた反面、そのようなことを遥かに優る恵みや祝福をレムナントキリスト教会で受けるようになっております。はじめは教会を出てしまって大丈夫かな?と思ったのですが、でもイエスさまがレムナントキリスト教会というすばらしい場所を備えてくださっていたのです。そのことにいつも感謝して、益々地下教会の歩みに励んでいけたらなぁと、今回の箇所を通して思いました。いつも大事なポイントを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。