第Ⅰコリント人への手紙 8章 2011年9月4日
8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
Ⅰコリント8章のポイントは「偶像に捧げた肉」ということです。
新改訳では、肉と記されていますが、英語訳では、肉と限らないで、偶像に捧げられたものとなっている。新約の現在のクリスチャンが文字道理 偶像を拝するかは基本的にあまり考える必要はないことである。何故なら、クリスチャンがお地蔵様にお辞儀をするとか、お寺、神社にお参りすることは、無いからです。
しかし聖書は、「たとえ」の書なので この8章がはじからはじまで、偶像のことを書いているのですが、新約の我々がどうして偶像のことを考えなければならないのかと言うと、明らかに旧約の偶像礼拝というものは、新約の我々に語る事柄があるからです。
旧約のバール崇拝、アシュラ崇拝は、明らかに器崇拝に関しての「たとえ」である。 バールは主という意味です。人を主としてしまう。ローマ法王等を主としてしまうこと--- 残念ながら人の言うことと聖書の言うことは往々にして違う。 ローマ法王の言う地獄は無いということは、聖書と全然違うことです。 ローマ法王は、神をバカにしているのか?
たとえば、聖書のなかで描かれているラザロと金持ちの記述では、明らかにラザロは、アブラハムの所にいます。金持ちは、熱くて大変なところにいます。聖書の語っている火による苦しみの場所が存在することと明らかに違うのです。ローマ法王の言うことを信じることは、明らかに器崇拝であり、そのように見たときにこの章が分かるのです。だから、イエス・キリストは「たとえの理解」に関して語られたのです。それで、皆様も「たとえを理解すること」をなしていってください。
結局聖書は、 神の御ことば を守る者は、見えてくる(たとえの意味が見えてくる) 守らないで、人間の判断で、無視すると ろくな事になりません。
チェーンバイブルをお持ちの方もおられると思いますが、注釈の箇所で時々インチキなことも書かれています。すべてではないが、例を挙げますと マルコ4章で{イエスさまが たとえ によらずに話されることはなかった}と書いてありますが、わざわざ注釈をつけて、(これは誇張的表現だと、、、まるでイエスさまが大げさなことを言っているというように解説しています。)このような人間的な誤った解説を鵜呑みにして信じてはいけません。これこそまさに黙示録の言う言葉を付け加えることです。今の時代いろんな落とし穴や、引っかけがあるということに気を付けてください。
しかし、主の言葉に留まり「たとえ」を理解していく人は、ちゃんと聖書を理解していきます。
8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます
(知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます) 高ぶりは禁物です。知識は人を高ぶらせることを覚えておきましょう。高ぶると ろくな事はありません。 律法学者パリサイ人はいやという程 知識がありましたが、高ぶった為にわけの分からない結論に至りました。今のキリスト教の聖書学者もそうであると思います。わけの分からない知識はたくさんあるとおもいますが、最も大事なポイントは何もみていません。今の時代は、明らかに終末の時代であり、教会に対して裁きが来ようとしている時であり、クリスチャンに対し神の裁きが来ようとしていることを何一つ見ようとしていません。殆ど盲目であります。だから、高ぶってはろくなことがありません。
8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
神に知られるということは、聖書で記されている アダムとイブの記述でアダムがイブを知ったという特別な夫婦関係の事柄であり、相手のことを、非常に深く特別なことを知っている存在であるということであり、 我々も同じように、神を愛するということは、愛される奥様のように神に愛される特別な存在になるということです。ですので、主にあって神を愛することを努めていきたいと思います。
私の御言葉を守る者は、わたしを愛する者である。とあるように、たとえ に関する理解もその御言葉を一生懸命守っていくことは、神を愛することになります。そうすると、たくさんの女の人がいますが、奥さんと言われる人は、特別な恵みを受けるように我々も同じように主から特別な恵みを受けるようになるのです。
レムナント教会では、たとえ に関し、ずっと まじめに主の言葉を守ってきました。そしたら、他のクリスチャンの見えない様な事柄とかを理解するようになってきました。それで、明らかに二段階携挙説や艱難前携挙説がインチキであると分かります。また、終末の時に 明らかにクリスチャンに、神の裁きがある。全てのクリスチャンが裁かれるわけではない、賢い花嫁は裁かれないが、愚かな花嫁は主に知らないと言われてしまうという。聖書が当たり前に書かいていることを、当たり前に理解できるようになるのです。
レムナント教会でない他のある教会の牧師さんが、毎月月報を送ってきます。まじめな方でしょうけれども、その方が、麦と毒麦のことを書いています。それによると、毒麦は、キリスト教に関連しているけれども、異端の宗教エホバの証人とか、モルモン教であるということですが、それは、違うと思います。クリスチャンの中には自分勝手な解釈をしている人もいます。
こういうことも含め、神を愛するならば、神に知られるということで、特別な知識とか、多くの人が惑わされてしまう様なことも 神様が、特別に教えてくださいます。そのような意味合いで、私たちが、み言葉を守り神を愛している時に特別な恵みが来ているということです。
また、今回の地震、原発、津波に関しても 多くのクリスチャンは、何が起きているのか分かっていません。聖書の暗号の中で、地震に関する用語が沢山出てきます。聖書の暗号は、未信者の為のしるしです。クリスチャンは別に聖書の暗号がなくても聖書を信じる者ですが、自分のことだけ考えていてはいけないのです。神は、明らかに日本の人々に対しても顧みようとしておられるのです。無意味に地震、津波、原発の災害を起こしているのではないのです。私たちは、聖書の暗号からこのことを語ろうとしています。ですが、このことに関して、殆どのクリスチャンは盲目になっています。しかし、神を愛する時に我々は、そういうことに関して特別なメッセージを見ることができました。これは、恵みであり 我々に知識が無いとしても、神を愛する時に、特別な者とみなされ、他の人が知らない様な特別な恵みとか、導きの中に入っていくのです。
8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
4節の偶像に捧げたものに関する たとえ を理解してください。
偶像の神に捧げられたパンがあるという事柄ですが、
聖餐のパンの記述でパウロの言葉によるならば、本来はイエス・キリストに関する聖餐なのであり、キリストに対する捧げものなのですが、この8章で、パウロは、偶像のことに関してメインに言っています。ですから本来の姿でないキリスト以外の偶像に捧げられる聖餐が行われる危険性があることを語っているのです。もっとも大事に書いています。神様が書かれた聖書には、すべて意味があり、無駄な箇所は一つもありません。
人間的な人とか、表面的にしか聖書を読めない人とかは、偶像と書かれていて、自分には関係ないとして、思考がストップしてしまうのです。しかしこれは、たとえ で書かれています。
これは、先ほど書いたように、器と関係するのです。このことの たとえ を理解してください。
聖餐のパンでも主イエス・キリストに捧げられたパンがあり、イエス・キリストに捧げられた葡萄酒があるのです。
しかし、パウロが言わんとしていることは、偶像の神に捧げられた(器に捧げられたパン、器に捧げられた葡萄酒があるということを言っているのです。)
偶像に捧げられたパンと言うと、さらに たとえ があります。パンとは、み言葉に関して、メッセージに関しての たとえ です。キリストの為というよりも、人の顔色を窺ったり、器の教えでメッセージすること、それが、偶像に捧げられたパンであり、ぶどう酒なのです。
分かりやすい例で言えば、ローマカトリック教会で神父がメッセージする時、もう ローマ法王の顔色を窺ったメッセージしかしないのです。だから地獄は無いと言っているのです。だけど、聖書の方を彼らが向くならば、言葉は神であると言われる神なるキリストなので、本当にキリストを尊重するならば、そんなこと出来ないのです。けれども、彼らは、キリストに背を向け、キリストのことなど殆ど何も考えないで、ローマ法王に気にいられないのなら首になるのかは分からないが、マニュアル通りに語っているのです。ですので、平気で地獄は無いと言っているのです。
また、ローマ法王が、進化論はあまりに科学的なので否定出来ないともってまわった言い方ですが、要するに、創世記に書かれている、神が人を創ったとか、動物を創ったということは、神話であり非科学的な教えであると言っているのです。
そういうことを、採用しているのです。それは何かというと、生半可なわけの分からないクリスチャンは納得するでしょうが、それはローマ法王を見ている、ことであり、ローマ法王こそバールの主たることであります。ですので、これは、明らかに偶像に捧げられたパンであり、メッセージなのです。
多くのクリスチャンは、聖書をまともに読めません。だから、何も危険性とか、他のメッセージを読み取らないのです。
見るには見るが分からず、聞くには聞くが悟らないとは、よく言ったものです。何の為に第一コリント8章を読んでいるのか分からないのです。殆ど意味不明なのです。
しかし我々にあっては、そうであってはいけません。無意味に新約のコリント人への手紙に偶像に捧げたものに関して書いていないのです。どのクリスチャンにも当てはまらないようなことを書いていないのです。当てはまるから、警告が必要だから書かれている、そして、もっとはっきり言いますと、多くのクリスチャンがまさに今、偶像崇拝をして偶像に捧げものをしているから書かれているのです。まさに起きている現実なのです。それを見ないから、のんきで居られるのです。聖書の言葉は、恐ろしいのです。無意味に書かれてなくて、読んではいるのだけれど、その罪を犯しているのです。カトリックだって、第一コリントの手紙の8章を読んではいるのです。ですが そう言いながら、ローマ法王に捧げられたメッセージをして、そのパンを食べて、地獄は無いと喜んでいるのです。しかし、それは、無意味であり、滅びに至る捧げものであります。だから警告されているのです。それを覚えていてください。このことを理解しなければ、何の為に第一コリント8章を読んだのか分からないのです。
残念ながら、カトリックのほとんどの人は、このことを理解しないし、プロテスタントもはっきり言って殆どの人が理解していません。プロテスタントだって偶像に捧げられた捧げもの(メッセージ)をいやという程聞いています。散々聞いている、艱難の前に挙げられるという艱難前軽挙説、かつて、行ったことのあるホーリネス系の教会では、中田重治が言ったとなると、そこで思考が止まっちゃうのです。議論は無い、中田重治が言ったとなると、それは、憲法のようなものです。それって今思うと、偶像に捧げられたパンです。
それは、明らかに聖書とは矛盾しています。聖書は、そんなことは言っていません、聖書は艱難に備えることを言っています。
私たちが、器の方を優先してしまうと、結局、神の言葉がぼやけてしまうのです。それで、偶像に捧げられたものを受けるのではなくて、まさに純粋なパンの過ぎ越しの祝いをしていきたいとおもいます。多くのパンが偶像に捧げられたものとなってしまい、本来御言葉が語っているところから ずれて行ってしまっています。だから、素直に読み、み言葉の通り読むならば、レムナント教会でなされるメッセージは普通のことなのです。
キリストの花嫁は、クリスチャンにも二種類あって、基本的に花嫁はみんなクリスチャンなのですけれども、賢い花嫁はキリストに迎えられるけれども、愚かな花嫁は、油を用意していない 聖霊の油を持っていない人たちは、キリストに迎えられないという非常に単純なことを書いてあるのですけれども、今のキリスト教会は、偶像に捧げられたパンばっかりで育った人が多いので、わけの分からないことになっているのです。まさに そのことを危惧して、聖書は語っているのです。
ですが、残念ながら 明確にこのことは書かれており、コリントの手紙は、どこの教会でも読んでいるはずなんですけれども、理解していないのです。だから、何の危機感も持っていないし、警告も受けていないのです。しかし、我々は、このことを理解しなければなりません。無意味に神は、偶像に捧げられたものに関しての警告を書いているわけではありません。今まさに行われている罪なのです。神は、そのようにみなしているのです。そしてそれは、裁かれるでしょう、聖書に書かれた様に裁きを受けます。
メッセージをするときそれは、神の前に恐ろしい奉仕だと認識しています。
神の前に忠実に行っていきたいと思います。聖書に関しては、案内書の様な(あんちょこ)はどこにもありません。聖霊によって教えられるしかありません。それでも神は、それを裁かれるのです。みなさんが、たとえ を理解するならば、明らかな警告を見ることになります。この第一コリントに記された偶像に捧げられたものとは、今も 有るのです。そして、知らないでその罪を犯している牧師が沢山いるのです。
聖書の言葉と言いながら、実は、器が言った 中田重治が言ったこととか、ビリーグラハムが言ったことを ただオウム返しに言っている ビリーグラハムは、カソリックは何も問題は無いと わけのわからないことを言っています。
それを鵜呑みにして、教えを受けいれてしまっている人は、偶像に捧げられたものを受けているのです。このことを分かるなら第Ⅰコリントを読んだことになります。このことが、この8章で語られているメインの警告メッセージなのです。
8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
ここにも、たとえ が使われています。天とか、地、というのも これらは教会のたとえです。なぜかと言うと、アブラハムの子孫に関して、天の星、地の砂のようになると神は語っています。
アブラハムの子孫 イスラエル民族というのは、旧約のイスラエル民族であり神の民なのですけれども、新約の我々もイスラエル民族であり、星があるのは、天であり、また砂があるのは、地なのです。だから天と地は、教会のたとえ なのです。
教会の中に神々があると言うのは、これも やはり、たとえ なのです。器が神になっちゃうということです
8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
これらの節で言わんとしていることは、 たとえ としてです。 教会の中にいろんな器とかいっぱいいるようだけれども、最も大事、唯一気にしなければならないのは、唯一の神ご自身であるということです。また、唯一の言葉である、キリストであるということです。このあたりは、頭ではみんな分かりそうですけれども、実際問題ずれちゃうのです。何度も言うように、器が こう言ったということが、ずっと強く思いの中に作用するのです。先程も申しましたように、ホーリネスでは、中田重治が、そう言ったと言うと、皆 思考がストップしてしまうのです。どの牧師さんも信徒も。中田重治がそう言ったとなると、議論は中止!という感じになるのです。中田重治はホーリネスでは、神々の様な存在なのです。
8:7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。
ここでも たとえ が書かれています。 偶像に馴染んできた。結局そういうこと(器崇拝)が今まで頻繁にずっとあるのです。
偶像にささげた肉(もの)として食べ。 食べるということは、礼拝に出席することを言っているのです。我々は、み言葉のパン(メッセージのパン)を食べる そういう意味合いで言っているのです。ですので、これは、礼拝に出席している人のことを言っているのです。偶像に捧げたものを食べるとは、そういうことを言っているのです。そしてその中で汚れてしまうと、まさに恐ろしいことを言っているのです。
礼拝に出席しながらおかしな教えにかぶれていってしまう。カトリックの人は、まさにそうです。一生懸命カトリックの礼拝に出席すればするほど、おかしな教えを食べて、汚されてしまうのです。初めは、み言葉通り地獄はあると思ったけれども、さんざん聞かされているうちに 地獄は無いから何やっても大丈夫という誤った楽観的な教えになって、後の日に 地獄は本当にあったんだと気づいてもその時には遅いのです。本当に恐ろしいことです。このように聞く事によって汚されるのです。このように、器によってメッセージが汚されるということがあるのです。すべてとは言わないまでも、ところどころおかしなメッセージを聞いておかしなことを掴んでしまうということがあるのです。
教会も たとえ の意味合いでは、食事をするところなのです。霊のパンを食べ、霊のぶどう酒を飲むところなのです。
そういう観点に立つと、私たちは、教会を選ばなければなりません。
8:8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。
8:11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです
8章10節 知識があるから大丈夫と言って、偶像の宮で食事をするクリスチャンがいた。これは、本人はいいかもしれないが、それを見て、ああいうことをやってもいいんだと言って他のクリスチャンがつまずくということを言っているのです。 これも たとえ なのです。偶像の神に捧げられたようなものを食べさせるような教会に、あの教会はおすすめ教会だということで行くと、あの立派な信仰の器が言ったからと---それに惑わされると言って警告しているのです。
知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。
このことをまさに実践しているよい例が、ビリーグラハムです。彼は、偶像の神に捧げたものを推薦しているのです。ローマカトリックは何も問題はない、と言って問題の多いカトッリクを推薦しているのです。彼はまさに上記の御言葉を実践したのです。ビリーグラハムのインチキによって、すっかり惑わされた福音派の人がいっぱいいます。カトリックは問題ないと思っているひとがたくさんいます。それで彼の推奨するエキメニカルへの呼びかけのインチキが功を奏してカトリックとプロテスタントの垣根が無くなってきています。これは、上記の御言葉の実現なのです。ビリーグラハムがやっているのなら問題ないと惑わされているのです。
また、マザーテレサがいます。彼女は、勘違いの女です。何故なら、彼女が言っているように、人が死ぬ時でもその人は、イエス・キリストを受け入れる必要は無い、ヒンズウ教徒はヒンズウ教徒のままで死んでも神は、受け入れてくださる。という トンデモナイ インチキ------。聖書のイエス・キリストのみに救いがあるということと真っ向から反対するような そのようなインチキを語るマザーテレサを推薦することは、皆のものを引きずりこんでしまうことなのです。
8:11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです
このことばは重いと思います。
ですので、下手にカトリックのこととかを寛容な振りをして推薦する人というのは、まさにこの言葉が実現しているのです。
あなたの知識によって、滅びることになるのです。マザーテレサを推薦したことにより、それではプロテスタントをやめてカトリックに行こうとする人がでるかもしれないじゃないですか?どうしますか? あなたの知識によって滅びることになるのですと書いています。
だから、然りは然り。否は否。としなければならないのです。そうしなければ、永遠の命から外され、滅んでしまう人がでてきちゃいます。偶像に捧げられた肉(もの)それら、違うものは違うと言わなければならないのです。
ですが、往々にして褒めてしまうのです。自分はちょっと違うと思っていても、他の宗派、先生を気にして はっきりと言わないのです。それは、よくありません。
8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
マザーテレサが間違っているのにはっきり言わないのは、罪なのです。今、多くの教会は、カトリックとかおかしな器に対して何も言わない時代ですけれども、しかし、偶像の神に捧げることは、罪だと言っているのです。
このことは、はっきりと指摘しなければなりません。
人からは、悪く言われたりするかも知れなくても、キリストの前に罪を犯したくないと思っています。そして、このことは、聖書的には正しいのです。
8:13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。
ですので、それまで書いてきたような教えを受けるべきではありません。また、そういうわけのわからないカトリックの教えに同調すべきではありません。私たちは、他の人をつまずかせることのないために、然りは然り、否は否、どんなに立派で尊敬される器であっても、違っている事は、違っているということが正に聖書的なのです。其のことによって評判を落とすことがあっても、それは、とるに足りないことです。しかし、神の前にどう思われるのか、そこにポイントがあることを知っておきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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