第Ⅰコリント人への手紙10章21~33  2011年10月9日

 

10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。

 

我々が、この日本でも、偶像に捧げた食べ物を食べる食べない、仏壇に捧げた モノとかを。-----だけど、仏壇の神は、本当の神ではないし、また、仏なんてお釈迦様は、ただの人間にすぎない!と言う感があるんですけれども。それは、---前の方の節にあるように、

 

19節 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。

 

だから、仏壇の仏は、勿論ただの人間にすぎないのですけれども、その様な形を用いて、そして、クリスチャンを惑わして、要は、仏壇に捧げたものを神棚に捧げたものと思っているのですけれども、それを食べる事によって、悪霊と交わるものとなってしまうと言う事なのです。結果としてそうなっちゃうんです。結果が大事であります。

そんな神いるはず無いとか、いや、居るとか居ないとか、そういう問題じゃなくって、現実に悪霊に捧げられたものであり、そういったものを食べる事によって、悪霊と交わる事になっちゃうんです。だからこの事は、ポイントであると覚えておいて下さい。

 

だから、原則はそうであります。で、我々は、この原則に基いて、、、、、、具体的ないろいろな方法があると思うんですね。-----そうは言っても、自分の父親のお葬式だから、仏式だと言って行かない訳にはいかないとか、色々とあると思いますけれども。

それは、個々で、どう対応するかという事になるかと思います。主の方法で、対応すべきですけれども!しかし、原則は、その様にいろいろ義理人情を絡めて悪霊に交わるものとなっていくと言う、こういうパターンは、どうぞ覚えておいて下さい。

 

だから、偶像の神とかに捧げられた モノ って、そんな意味あいなんです。だからそういう意味で、これは無意味なものでは無いんです。悪霊と交わるものと成るって本当にそうなんです!だから聖書に書いてあるのはそうですね!悪霊と交わるものとなるんだ!と書いてあります。

 

だから、そういう意味合いで、偶像に捧げられたものとか、偶像の棚を拝むとか、と言う時には、こういった問題が係わってくると言う事を。。。。一応この基本を覚えておいて下さい。あとは、バリエーションは、、、、方法はそれぞれ有ると思うんですけれども。この事は、ポイントであります。

 

もう一つは、この偶像礼拝の事柄に関連して、もう一つ言えることは、(器崇拝とは)=聖書に書いてある旧約聖書の偶像崇拝というのは器崇拝の たとえ だ、という事柄も、見ていかなければなりません。そうでないと分からない箇所があるんです。

 

10:23

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません

この箇所は、ズート 偶像礼拝のこととか、キリストの血にあずかるとか、祝福の杯とか、そう言ったパン(御言葉)を食べる事、または、血(キリストの聖霊)にあずかる事。そう言った事に関連して、ずーと書いてあります。

 

だから、前の箇所もそうです。 21節に悪霊の杯を飲むとか、書いてあります。後ろの方でも、市場に売っている肉は、良心のもとに食べるとか、飲むとか、そう言った いわゆる、たとえ としては、礼拝のメッセージ等に関連しての言葉、が語られていると言う事です。

 

だから、このことは、23節のすべてのことが有益とはかぎりません。と言う言葉に関連して、勿論一般的な意味合いも有るんでしょうけれど。メッセージ等(御言葉を食べる事)に関連しての言葉と理解しています。ですからどうぞ、ここを理解して下さい。

 

我々は、何かを語るにしても、または、何かを行うにしても、全てのことは、してもよいのです。

これは、言葉の意味合いを見ていくと、御言葉(律法)にかなっていると言う意味合いですね!だから、そういう意味合いでは、どういう事も、御言葉にかなっている事を、メッセージして----それは、御言葉にかなったことを喋っていて、イエス・キリストは、ナザレで生まれましたとか。語る。

 

しかし、23節:全てのことが有益だとはかぎりません。--全てのメッセージが有益とは限らないのです。

また、23節:全てのことは、してもよい。--してもよい と言うこれも、御言葉にかなったという意味です。だから、御言葉にかなった事を喋ってメッセージするのかもしれないけれども、しかし、全てのことが徳を高めるとはかぎりません。

この徳を高めるという意味合いは、もっと分かり易く言うと、人を建て上げるとは限りませんと言う意味合いです。

で、言わんとしている事は、こんなふうな事だと理解しています。

御言葉に基づいていろんなことを語られていくんでしょうけれども、しかし、すべてのメッセージが、人を建て上げる訳では無いし。益になるわけではない。こういうポイントを覚えていて下さい。只の話を聞いて来たと言う事もあるんですね!そういう事もあるんです!

だから皆さんは、メッセンジャーとして建て上がって語っていく時に、人を建て上げる様な事を言う事ですよ!

ただ30分程喋っていくと、何か、殆ど雑談だったとか、だと マズイ んですよ!

御言葉に確かに基づいて何か喋っていたんだけれども、ただの雑談になって、ちっとも建ち上がっていないだとか。そういう事も有るらしいということです。ので、どうぞ主にあって、御言葉の奉仕をするならば、人を建て上げることが出来る、そう言った奉仕をしていきたいと そういうふうにおもいます。

 

わたしもそれを求めています。 ある人と最近あいました。個人的にいろいろ親交のある人なんです。その人と30分から1時間程、お茶を飲みながら話したんです。その時に主の前に祈りました。--聖書に書いてあるように--すべての言葉が徳を高めるとはかぎりません。=建て上げるとは限りません。で、主にあって、、、、折角会って、時間も割いて話すし、この方も来られているから。少しでも建て上げになるような事を話すようにしないと、と思ったんですね。何だかんだと喋っている内に、お茶も飲み終わって店を出ることになったんです。その時、主に聞いたんです。

これでいいんでしょうか?わたしの方が一方的に話したので。主の前に聞いたんです。これでよかったんでしょうか?と。その時 チラット 何となく思いの中に来ました。あぁ、あの事を語ったほうがいいんじゃないのか。---あの事というのは、最近、箴言の事を教えられているんですね!箴言の中で、真の牧会者は主御自身であり、また、真に我々を叱責したりして導かれるのは、天の父なる神ご自身だ。という事をよく、箴言で示される事が有るのです。で、其の事を、その方に語ったんです。それで、それによって建ち上がったかどうかは、わかりません。でもなんか、霊的に内側の感情の中で、あ、これは言っていて好かったと言う気がしたんです。

それは、店を出た後、店の前で、付録みたいな感じで10分程、この事を喋ったんです。で、どうぞ、御言葉から基づいて喋っているようであっても、すべてが本当の意味で人を建て上げるとは限らない。どうぞ皆さんが、メッセージをする時には、御言葉を向いていても、うっかり喋っているんだけれども益になるとは限らない。ただの話っていうか、知識だけと言うことが有るんです。でも、人を建て上げることが出来るような言葉を、主によって強められ、語ることが出来るように求めていって下さい。だからパウロは書いているんです。

 

10:23すべてのことは、してもよいのです。

これは、今言ったように、原文によったら御言葉にかなっている。-----でも、だからと言って、御言葉にかなっているメッセージでも、全部それによって建て上げるとは限らない。どうぞ主にあって、人を(もし、我々の様な者を用いて下さるのなら)、建て上げるような事を話すようなことが出来るように、祈って求めていっていきたいと思います。

 

10:24

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

10:25

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。

10:26

地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

10:27

もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。

10:28

しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。

10:29

私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。

 

これらは、偶像の神に捧げられたモノだということです。基本的に、あまりそこまでナーバスになる必要は無いと言うことです。25節:市場に売っている肉を一つずつ、これは---この魚はもしかして仏壇に上がったものかどうか?魚屋さんに聞いてみたい!。。。そういう必要は無いということです。基本的にはそうだという事です。どれでも食べられる。

 

だけれども、28節:で、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。

10:29

私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。

10:30

もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。

 

他の人をつまずかせない為に、食べてはいけない。

 

10:31

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

 

食べる。飲むは、度々言う様ですけれども、明らかに たとえ が入っているんです。だから勿論皆さんが、魚を食べる時も、寿司を食べる時も、焼き肉を食べる時も、神の栄光の為に食べる。神の栄光を表わす為に食べるには如何すればいいのか?肘とか付いて食べたら神の栄光は表れないかもしれません。あんまりナーバスになったら、何食べたか分かんなくなってしまいます、けれども、そういうふうに書いてあります。

其れと共に、これは、たとえ の意味合いがあると言うふうに思います。

食べるにも飲むにも、これは何度も言うようですけれども、聖餐のパン。または、聖餐の葡萄酒に通じ、また、食べるは、御言葉のメッセージに通じます。だから、メッセージに関連しては、神の栄光を表わす為にしなさい、ということです。逆に言うと、人の栄光を表わしちゃうメッセージってあるんです。だからわざわざ、こう書いてあるんです。そう言うふうに理解できます。で、往々にしてあるんです。

 

わたしはこんなに立派な大学出たとか、東京大学を出たとか、、、、わたしも言いたい?、、のですけれども、、、?東大出ていませんので!駄目なんです、残念それでは、威張れないですね!!!

年収がこんなにあって!と、わたしも言いたいのですけれどもね!?今年の年収あんまり少なくて、、、言えないですね!

 

でも、書いてあるって言うのは、自分の栄光を表わしてしまうメッセージって、ヤッパリ 有るんです。結構人間て、そうなんです。

口はへりくだって言っているんですけれども、何のことはない、自分がそういう凄い学校を出たとか、自分はハンサムでモテたとか、言っている事が有る。

でも、どうぞ、食べるにも飲むにも、これは明らかに たとえ が入っていると思うんですけれども。神に栄光を表わす為にメッセージしていくという事。そのように皆様が心の内に思いを持っているのなら、神の栄光が(大したことはないメッセージですけれども、)この中で表すことが出来ますようにと、祈りつつなして行かれるなら、神様の栄光を表わすだろうと言う風に思います。そうじゃない時に、結構自分の栄光を表わしちゃったりするんです。そこまで露骨でなくても、結局は、何のことはない、自分のことを褒めているんじゃないか。という事もあるんです。----こんな事を興してして、この様にして、信者が集まって、この様に人気が有るんだとか。--ありうる事です。それは好くありません。

 

でも、主の栄光が表れるような事を語ることが出来るようにしたいと思います。それと、レムナントもそういうふうに、神様の栄光がこの様に表れたなという事が有ります。それは、たとえば、出版の事です。

出版はですね、今年も祈りの課題ですけれども、去年も祈りの課題だった。。。。。ズート 祈っていて、そして。地震、津波、原発のことの出版が現われますようにと祈ったんですけれども、ただ、祈って来たんです我々は、でも不思議なもんです。祈っている内に、神様が明らかに、暗号を通して、今回の地震、津波、原発の事に関して、メッセージが有ると思ったんで、これは我々に与えられたもんだなと、、、伝えていきたいと思ったんです、でも、何にも方法が無いし、我々に本を書いてくれって言う人は勿論居ないので、ただ祈っていったんです。そしたら、突然。 あれは、4月でしたか、5月でしたか、I牧師が突然うちの教会に来られたんです。そして、暗号の事を聞いて、暗号のコピーを持って帰られたんです。我々にとっては、ただのそういう事があったなぁ、と言う事だったんです。それから8月か9月に突然、I牧師から本がでましたと言われて、えぇ何の本が出たんですか?と言ったら、彼のその本の中に載っているわけであります。--(我々が祈っていた、この事は伝えるようにと言っていた聖書の暗号がまさに載っていたんですね!)それで終わらないで、その後、続きがあるんですね!で、何故だか分からないんですけれども、I牧師がエレミヤのことを気に入って(それも珍しいんですけれども)---わたしは、メールの返信で、深い意味を考えずに、我々も是非、神様は今回暗号を通して警告を与えられたんで、この奉仕に関して何とか我々も、主にあって、ズート警告出来るように、出来れば、本を出せるようにと祈っているんですよ!言っといたんですね。それは何か、わたくしが、依頼したように見えたんですかね。こういうメール書いたつもりは無いんですけれども、律儀に H出版社の社長さんに話してくれたんですね!

H社の社長さんは、じゃー、そのエレミヤって聞いたことが無い人だけれど、チョット原稿を書いて送ってくれるように言って下さいって、言ったらしいんですね。話はつきました。と、いきなり電話とメールが来てですね! 何が、、話が付いたんですか?と言ったら。そういう話をしてくれたんです。わたしは、ビックリしました。で、嘘だろうか?ホントだろうかと思ったんですけれども。ホントに社長さんのところに電話したら、社長さんはチャンとエレミヤの名前を憶えていましたので、嘘ではなかったみたいですね!

だから、今のところは、書けば、少なくとも見てくれるわけです。必ず出るかどうか分かりませんけれども。

で、これ何を言っているかと言うと、我々は何もしていないですよ。具体的には。只、祈っていたんですね!!!!でも(神様が栄光を表わしてくださったり。働きをなしてくださる。ということですね!)

 

だから、何をするにも、神の栄光を表わしなさい。食べるにも、飲むにも、神の栄光を表わす為にしなさい。

だから、 (食べるにも)=これはメッセージに関連しています。基本的には、ヤッパリ 神の栄光が表れるという事をなんとか我々は、語れることが出来るなら、及第点です。落第ではないのです、最低ラインは超えているっていうことですね!そうでないと、ただ自分の自慢話に終わっちゃうと、チョットこれは、マズイですね!で、わざわざ神の栄光を!って書いてあるんだから、  人の栄光、自分の栄光をベラベラ喋っている人がいるんでしょうね!そんな風に理解出来るんですよ!

 

10:32

ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。

 

どうぞ、食べること飲むことに関連して、ヤッパリ つまずく ってことは有るんです。

それは、信仰が有るって思っている人が、ここでは、たとえ の意味合いで言っています。

偶像の神に捧げられたものを、あの信仰のある人が食べているってことでつまずきます。だけど、これは たとえ が有るんです。

それは、(今の時代の偶像の神=たとえば、ローマ法王の教えとか、マザーテレサとか)、それを固く信仰に立っているはずのプロテスタントの牧師が、マザーテレサを褒めちゃったりすると、これは、この言葉の成就なんです。   「32節の御言葉に関して」 神の教会にも、つまずきを与えてしまうんです。何故なら、マザーテレサは、チョット調べれば分かる事ですけれども。まともな信仰を持っていないんです。勿論熱心にボランティアされたってことは、人間的には立派ですけれども、しかし教会では、人間的に立派だからって誰も褒める訳にいかないんです。

彼女の信仰は無茶苦茶であります。---マリアも含め聖四位一体であると信じていますし。また、ヒンズウ教徒も臨終前でもキリストを信じる必要は無い、そのまんまで神様は受け入れて下さる。----何教ですか?それ!それはキリスト教じゃ無いですよ!   混合教ですよ!

だから、それを尊敬している牧師なりが、マザーテレサを褒めちゃうと、これは、飲み食いでつまずきを与えているんです。偶像の神に捧げたものを食べるって、まさにそのことを言っているんです。理解しなければいけません!たとえ で語られているんです。 じゃ~あれいいんだと思っちゃうんですね!

で、結構そういうのよく読みますよ。この間読んだパンフレットにマザーテレサのこと書いてあったし、結構プロテスタントの人、マザーテレサのことを良く言っている人いるんです。別にわたくしが意地悪だからマザーテレサをいじめているんじゃないんですよ! そうじゃなくて、そこで妥協しちゃうと、つまずく人が出るわけであります。

わたくしも メールマガジン書いていてですね。読者630人。少ないって言えば少ない、多いと言えば多いですよね。--場合によっては間違えてエレミヤのこと尊敬している人がいるかもしれない。---エレミヤがマザーテレサを褒めちゃうと。。。マザーテレサの信仰はいいんだと言って、カトリックに行っちゃったとかあるかも知れないですね!

 それは、神様から報われます。わたくしは、メールマガジンを出し始めたのは、10年以上前1998年の今から13年前です。 1号目、2号目位だと思います。 そのころメールマガジンってあんまり出ていなかったから、色々その読者から反応が来るんです。1号を出すと、いろんな処から反応が来るんです。で、聖書をいろいろ質問してくる人がいるんです。黙示録を読むって言うメールマガジンを書いたら、聖書のことを、書いているメールマガジンですから、わたくしに、聖書のことを教えてください。とか言って、見も知らない私宛にメールが来て、---(聖書は何を使ったらいいのでしょうか?と聞いたんです。

---わたくしは、新共同訳を使っているんですけれども、どうでしょうか?と、問うて来ているんですね!)

わたくしは、何も考えずに、読者の受けを狙ったのか、あまり厳しい事を言っちゃいけないと思ったのか、どんな聖書でもいいですと、言ってしまったんですね! そしたら、一週間神様から怒られました。{それは言っちゃいけないだろう!、、、新共同訳は続編が付いている! それ、いいのか!って言われたんですね。}  悔い改めました。

次のことを謝ったんですね!---(どれでもいいって言ってしまいましたが、訂正します。神様から怒られました。新共同訳は続編が付いているんで、これで躓かせちやったらマズイし、そしたら、何の為にメールマガジン出しているのか分かんないんで、そこは悔い改めますって言ったんですね!) これは、悔い改めてよかったです。そうじゃないと、とっくに潰れちゃったかもしれません。ので、そうやって4000号位出たんですよ!今チョットお休み中ですけれども!

 

つまずきを与えないようにしなさい!と言うことですね。だから、つまずきは有るんです。特に、食べる。飲む。に関して躓きが有るんであります。

 

わたしが若いとき、福音派の教会とか行っていましたけれども、その頃のプロテスタントのヒーローってビリー・グラハムですよね!  ビリー・グラハム って、アメリカの伝道師なんですけれども。だけれども、

日本の福音派もみんなビリー・グラハムに右に倣えですけれども。

ビリー・グラハムってよく調べたら、ロクでもない事を言っているんです。

「カトリックは何も問題は無い。とか、自分の クルセイド に(自由主義神学=キリストは復活していないと、、こんなことを言っている人達)を招いて、垣根を無くしているんです。--こういう人達もキリスト教だから我々と彼らは、親しく交わらなければいけない。」 と言うメッセージを送っているんです。

 

ビリー・グラハム あたりから、日本のプロテスタントもおかしくなってですね、カトリックに警戒心を抱かなくなったり、自由主義神学の人が大手を振っていろいろ言いだしたり、、、そんな事になっているかと思います。

ので、つまずきになっている訳であります。

その様にして、我々が、偶像の宮で飲み食いをしている時に、人が躓くって そういう事なんです。

具体的に言うと、偶像の宮って たとえば、ベニー・ヒンの聖会の事とか、そういう事を言っているんです。そういうところへ行って、訳の分からない教理を聞いて。。。わたしは恵まれましたよ~とか言うと。

{あの信仰の素晴らしい。だれだれさん がその聖会に行ったんだ!じゃ~ ベニー・ヒン っていいんじゃない!} とか言って、他の人も行って行ってしまう。そういう類の躓きの事を言っているのです。

それは良くありません。ので、どうぞ惑わされてしまったり、違うものを掴んでしまう事が無いように見て行って頂きたいと思います。

 

10:33

私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

 

これは、偶像の神に捧げる パンとか葡萄酒の飲み食いは=(メッセージに関連して言っているんじゃないかと理解出来るのですけれども、)    パウロの方法もそうだ!という事です。

自分の利益を求めず、多くの人の利益を求める。と書いています。

メッセージはこうでなければいけないのです。

自分が、メッセージをすることにより益になるという事では無くて、多くの人が益になれば、その為に自分が多少の不利益を被っても構わない。という、そういうパターンであります。

だから、何度も言う様ですけれども、我々が、暗号の事を言ったりすると、不利益をおおいにこうむって、益々、何だか分からないですけれども、悪口をいわれたりするかもしれないですけれども、だから、暗号の事を言えば言う程、不利益を被るんですけれども、しかし、そんな事で、自分の不利益だからって止めてはいないのです。それどころか、本も、H出版で出してくれるのなら、出そうと思っているんです。

それは、このパウロと同じです。結果としてそれは、我々の理解しているところによれば、ユダ族の獅子が目覚める事に通じると思います。だから、今は、救いは異邦人にと語られているように、異邦人の方々も利益を得るようになる、ということを、霊的に確信しているからなんです。

 

これは、自分の事を考えたら やっていられないんです。カルト・と言われたら献金も減ってきますよ。全然気にはしていませんがそんなことは。

だけれども、しかし、パウロの言っているように、自分の利益を求めない。逆に結果として多くの人の利益を求める奉仕、、、他の人々が利益を得られればそれを求めていく、、、この辺のポイントなんです。

 

レムナントは人から嫌われるような事ばっかり言っていますよね!  さっきのマザーテレサの事もそうですし。で、キリスト教書店に昨日行ってきましたが、もう分かりました。銀座のKと言うキリスト教書店に行ってですね、 あぁ…やっぱりキリスト教のトレンドは、明らかに、エキユメニカルだな!と思いました。だから逆行していますよ!レムナント教会で言っている事と。

でも、明らかに聖書が、プロテスタントがカトリックに合同する事の災いに関して、我々は、午前も午後も学んでおりますので、特に午後は、歴代誌、列王記、の中で明らかに たとえ の中で語られているんです。ので、これを語っていくんですね、それが大きなポイントであるかなぁと言うふうに思います。

 

それは、自分の利益を求めたら、言えないんですね!でも、そんな事初めから気にしていないんです。

 

で、多くの人の利益を求めます。ということで、そうしたら結果として多くの人が救われていくという事ですね!  だから、こういったところにポイントが有ることなんです。

 

ニュースレターってそうですよ、今発行していますが、ハッキリ言いまして、ニュースレターは赤字ですよ。佐川急便でなくって、ヤマト運輸が請求してきましたけれども。ビックリしました。結構な額です。配送するだけで、計算すると分かりますけれども、一通80円ですけれども、それを結構な数出しているんですよ、計算したら分かりますよ。 我々は、献金の続く限りやっているんであります。空になったらやめようかな、、、、と、借金してまでは?、、、やめようかなと思って。。。。だけどお金の続く限りやろうと思っているんであります。なんの益にもならないいんです教会としては、それで教会に来る人がえらく増えるわけでもないんです。内容を見て怒り出す人もいるでしょう。今回だって微妙な内容ですよね!

「ユダヤ人であると嘘をついた悪魔礼拝者達の実態はどの様なものか」-----ユダヤ人を好きな人達は怒りだしますよ!

だけど、我々は見ているんです。他の人たちが見ないとしても、明らかに彼らが(自称ユダヤ人)艱難時代に核となります。悪い意味でです。だから我々は、伝えて行きます。ニュースレターの名前は角笛ですけれども。{この(角笛)の意味は警告の意。}まさに角笛を吹くように召されている。だから結果として読む人で怒る人がいるかも知れないけれども。でも、角笛を吹く為に書いています。お金は殆どもらってはいません、一部お金を送ってくれる人がいますけれども、それでは殆どペイ出来ないです。だから、レムナントは財政的に潰れるか、ニュースレターが成功するか、もう勝負しているようなもんなんですけれども、それだって、自分の益を求めていたら やっていけないですよ。でもそのようにして語っていく時に、チャンと見るべきところとか、神様からの真実が人々の間に開かれてくるのではないだろうかと思います。ので、その辺りがポイントであります。

これは偶像に捧げられる肉とか、偶像に捧げられるパンとか飲み物、これは、明らかに真の神で無いものに捧げられるメッセージとか霊的な事柄に関して言っているのですけれども。これに関して、結局は、自分を喜ばせるようなメッセージに成ってしまったり、それは、結局は、偶像の神。自分を褒めるようなものになってしまうんですけれども、しかし、神に栄光が表わされるようなメッセージを我々が主の憐みによって行う事が出来るなら、これは偶像の神にでは無くて、神の栄光が表わされるメッセージに成って行くというポイントは是非覚えておいて頂きたいと言う風におもいます。

 

パウロが言っているこの言葉のように、我々も、少しずつでも求めていきたい。それは、メッセージに関したことですし、また、クリスチャンの歩みに関してもそうです。だから、証しに関してもそうです。セミナーの証しもそうです。要するに人が建て上げられるってことを、まず考えてみてください。そしたら、語る内容は、別に重複でもいいんです。この間昔証しで言ったことがあるであってもいいんです。だけど、皆さんが凄いという事じゃなくって。皆さんの語っている言葉によって、来られた人が建て上げられたり、益になるなら、それは、立派な証しだろうと言う風におもいます。

パウロはそのようにしてきましたし、また、聖書が語っていることがポイントだと思います。またメッセージも当然そうであります。だから、自分がこの様に凄いぞという事を、みんなは聞きたくって来ている訳では無いんですね!ただ、それによって建て上げられたり、また、信仰の益になったりと、その為に来ているので、どうぞ、みなさん自身がメッセージする時に、そういったことは、まずご自身が教えられて、そして、それを、主の方法で語ることが出来るように、その辺りが大きなポイントではないのかと言う風におもいます。