第Ⅰコリント人への手紙11章20~25節 2011年10月30日
11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
11:21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
これに書いてあるのは、第一義的にどういう風に意味が書いてあるのか?と言うと。まるで子供の食事みたいなもんですよね。
我先にって、子供の食事によくあるんですけれども、うちなんかも、六人兄弟でしたからね、食事はヤッパリね、ゆっくりしていると、、、旨い物取れなくなっちゃう!もう大変なんですけれどもね!われ先にってまるで、、、、空腹な者もいるって、、、、食事しに行ったらもう、何も残っていないってことですよね!酔っている人も居る!!!!なんかおかしいですね!
確かにそうなんですけれども。ただ、言っている事は、そういう問題では無いと思うんです。
ただこの後の方に、今日、さっき読んだ聖餐式の箇所がでてくるんですよ、で、一義的にはそうだと言っている訳で、一義的な事ばっかり話しててもしょうがないんで、、、、子供が先を争って食べるってそこだけ言っているんじゃないんです。ただ聖書は何度もいう様ですけれども、パウロはそこまで考えて書いて無かったかも知れないですね、これ確かに、早く食っては駄目だ、他の人のことも考えろ!って。其の位の事しか考えていないで書いたかも知れません。聡明なパウロであっても、しかし、聖書は、テモテの手紙にも書いていますように、神の霊感によって書かれたもんだって言うんですね。だから、神のコントロールとか神の支配、または神の知恵によって書かれている。人間が書いているんだけれども、そうなんだ!ということですね!
だから、暗号の事を言っているという事で、レムナントは非難されますけれども。聖書の時代(モーセの時代)3,000年以上前に書かれているものに、何故、福島のそんな地震とか津波が出て来るんだ!って言う事ですけれども、これは人が書いたものならあり得ないんですけれども、神様であり、しかも後の事も、未来の事も、過去の事もご存じの方だったらあり得るっていう事です。
だからここで言いたいのは、暗号の事では無いんですけれども、二重の意味合いが在るという事を言いたいんです。そして、二重の意味合いって言うのは、食べ物を我先に食べるとか、食べないって言う問題じゃなくって、何で此処で食事の事が出てくるのか、突然20節から、主の晩餐だとか、そういう食事を済ませる、空腹な者もいる、酔っている者もいるとか、言っているのかと言うと、メインは正に聖餐式で読まれた、この11章23節:
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、
ここで聖餐のパンが書いてあり、聖餐の葡萄酒の事が書いてあるんです。
これは、いやっていう程 わたし読んだ記憶が在ります。毎週毎週聖餐時にこれを読んでいますから、皆さんもいやっていう程聞いていると思うんですけれども。これは、我々は たとえを理解する教会ですから、これ解りますよね。 ポイントはパンは御言葉に関しての事であります。。。命のパン。
葡萄酒は(聖霊)霊的な事柄であります。で、それに関連しての問題点を----それは食事の事ですね!パンを食べたり、葡萄酒を飲むってまさに食事ですけれども、に関しての問題点を20節で書いているんです。 晩餐って食事の事ですよね、
で、21節に、食事を済ませる者がいる、空腹な者もいるとか、22節に、飲食の為なら、、、これは、人間的な食事を早く食べて何でも早く食べて、他の人の事考えない人が居るっていう事を言っているんですけれども、一義的には、だけど神の配慮によって聖餐のパンと関連して書かれているんです。この位置に書かれているって勿論意味合いが関連して書かれているんです。そしてそれは、たとえの意味合いとしては、御言葉に関しての事を、また、教会に働く聖霊の働きに関しての たとえ なんであります。それを理解しないと、ただただ「家もそうだった、六人家族だった、六人兄弟居たから大変だったよなあ!」とかね、そんな事しか頭に入っていないでですね。遅く起きていても何も食べる物無いとか。「うん、そうだよな!」とか。 それだけだと チョット 一義的な事だけしか読んでいない。読んでいないとは言いませんけれども。それって、固い食物を見ていなかったりですね、知恵も持って読んでいないっていう事になります。そういう事を覚えておいて下さい。
それで我々は、へブル書に書いてありますように、我々はいつまでも乳を飲む者ではありません。
乳を飲むって言うのは、まあ要するに表面的な解釈しか出来ないって事ですね。だけど、堅い食物は大人の食物だっていう様に、皆さんも、我々はキリストの教えの初歩に留まらないで。
キリストの教えって、死人が蘇えるとか、清めだとかいう事ですね。で、これって死人が蘇えるって今の初歩的な教会では凄い教理になっちゃっていますよ!それは当然の子供の教えで初歩の教えで、ミルクみたいなもんだって言うことですね。
堅い食物、教えって言うのは、明らかに たとえ の事を言っているんですけれども。たとえを理解出来ない、だから、もう今は、どういう時代かって言うならば、もうお子様の食事ばっかりって言う感じですね、大人の食べ物が無い。でも、しかし御言葉に書かれている様に、へブル書に書かれている様に、レムナントは、たとえ を理解していくんであります。 それは、どれ程今のキリスト教会が、子供の食物ばっかりなんで、たまに堅い物を食べて、「えぇ~こんな堅い石みたいなの食べられない!」っていう人は、多いんですけれども、しかしそれは、いくら多数であっても、子供の食物に過ぎないんであって、我々は、そういう事に留まらない、固い食物にチャレンジしていきたい。ってそういうわけなんです。別に異端を目指している訳では無いんです。そう言われるかもしれませんけれども、そうではないんですね!
たとえ を理解していきたいと思います。
11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
これは、前にも言いました様に、主の晩餐って言うのは、キリストの御言葉が本来語っている事を語る事であります。
終末と言うならば、明らかに終末に困難な時が来て、クリスチャンが困難を通るんだ、、、ダニエル書に書いている--シャデラク、メシャク、アベデネゴ、が火の炉に投げ込まれた様な困難を通るけれども、でも四人目に神の様な人が現われて助けたように、我々も困難を通るけれども助かるって言うのがメインなんです。だけど、そうで無い教えを語っているって、それは主の晩餐でも無いし、主のメッセージでもないんです。只の自己満足であり、または、牧師が厳しい事を言うと信者が減るから、みんなに優しい言葉を語るって言うんで、それは主の晩餐でなく、牧師の晩餐であったり、教会繁盛の晩餐に過ぎないんであります。または、自分で自己満足する為に集まっている晩餐に過ぎないんです。主の晩餐では無いんです。
御言葉が語っているんじゃない事を語っている、、、、それを主の晩餐を食べる為に集まっていないっていう事です。だから、主の晩餐を食べる為に集まっていないって言う集会が有ったように(食事会が有ったように)、礼拝の中にも そういう礼拝が在るんです。只集まっているだけであって、其れらしいものを語っていたり、聖書を用いているんですけれども、、、新改訳の3版とか4版を用いているかもしれないですけれども、でもそれは、パウロが言っている、いみじくも言っている様に、主の晩餐とは言えない、主の聖餐とは言えない、キリストの御言葉とは言えないって言うような、メッセージが語られているところが在るんです。だからこういう御言葉があるんです。
で、21節を見ますけれども、
11:21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
自分の食事っていう事も語りかけが有るんですよ。 要するに、本来の我々が受ける食事。それはここに書いてある(後の方に書いている)----聖餐のパンです。
24節:これはあなたがたのための、わたしのからだです。っていうんです。また、わたしの血による---血だって言っているんです。
ところが、キリストの体でも無い、キリストの御言葉でも無い、、、そうじゃなくて、ただ自分の食事なんだっていうことですね。。。ここに語りかけがあり、実は神様が言われているポイントがあるんです。どうぞ読み取って下さい。 それはキリストの食事でも無いし、キリストの体でも無いし、キリストの血でも無くて、キリストの晩餐でも無いんです。只、自分の個々のクリスチャンの(自分がこう言う教えだと好いな!)って言うことですね!
究極はですね、何度もいう様ですが、カトリックですよね。究極の我儘な食事。=もう自分流のアレンジですね。
例えば、さすがにプロテスタントでは聞いていないですけれども。でもカトリックでは言っている様です。
マタイの13章、、、の「毒麦が焼かれる!っていう箇所、、、ああ~恐ろしい~地獄だ~とか」、信者は思う。。。。。。。しかし皆さんご安心下さいと、神父が言うらしいです{地獄は皆さんの心の中にあるかも知れませんけれども、しかし実際には存在しないんです。何故なら、神は愛だから人を罰する事は出来ない方なんです。何の心配もありません。}______あなたにいくら保障されたって死んだ後地獄が有ったらどうしてくれるんですか?って、私は言いたいんですけれどもね!
で、この言葉で安心しちゃうんですね!それは何かって言うと、これは、自分流の味付けであり、勝手な味付けなんであります。自分の食事なんであります。それを喜んでいるかも知れないけれども、神から来たものではないし、キリストはそんなもの出していないんです。勝手にアレンジしちゃっているものなんですね!
本当は、今日のメニューはカレーだったんです。其の為に牛肉とか、カレー粉とか用意したんですがね、、勝手に牛肉だけ持って行って、、、、牛肉好きだから、焼き肉を作ろうって、フライパンで焼いて、自分だけ作って、みんなは牛肉無しで、どうやってカレーを作るんだ!とか、そういう事有るかも知れませんけれども。そういう風に自分で勝手にアレンジしちゃってですね、確かに明らかに、聖書の事を用いているんですよ!だけど、でも、出て来るものは違う物なんであります。言わんとしていることがわかりますか?
明らかに 21節 でこう書かれています。
めいめい我先にと自分の食事を済ませると言っているんです。
だから、自分の食事になちゃっているんです。キリストのものじゃ無いって言う様なニュアンスですね!
で、其の為、空腹な者もおる。っていう事ですね、だから、キリストからの御言葉じゃない、メッセージじゃないから、何か違う!これ違うってね、30分か40分位 ズーと我慢して聞いたんだけれども、これもなんか最初のメッセージも御言葉も ピンとこない話だ、次も ピンとこない、これも食べられない、最後の一言まで聞いたんだけれども、どれも食べられない!。。。。。空腹のまま帰る。
そう言う礼拝って出たいですか?困りますよね!今日聞いたメッセージ、どれも納得いかない!何も食べないで帰ってきちゃった。。。。だから何か牛丼屋へ行ったんだけれど、牛丼食べないで帰ってきたもんですので、腹が減っている。礼拝に行って帰ってきたんですけれど、腹が減ってしょうがない。
それを空腹と言っているんです。
または、酔っている者もいる。変な霊で酔っちゃったりですね。変な霊を下されちゃったり。。。そういう事ですよね! たとえの意味合いを言っているんですよ。
11:22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
神の教会を軽んじるのか。馬鹿にしているのか。と言う事です。その様なメッセージをするならば、という事です。だから自分の食事、、、要するに、よく言えば信者向けですよね。キリストは本来語っていないんですけれども、信者は喜ぶでしょうとか。 艱難前携挙説とか、そういうことですね。で、そう言うこと、その様なメッセージをして、良しとするようなメッセンジャーであったら、いったいそれって神の教会をバカにしているのか!それでいいとおもっているのか?っていうことです。
しかも、パウロは言っていますよ。 あなたを褒めたほうがいいのか?いや褒められない!っていっているんですね。
これは、パウロが言っているんですけれども、イエス様がまた言っている事なんです。その様なメッセージがあるんです。だから、たとえ で語られているんであります。
褒めるわけにいかないって言うメッセージとか、パンを出したり、食事を出している教会ってあるんです。無かったらこういう言葉出てこないんです。どうぞ理解して下さい。これは、神の知恵によって、聖餐式に関連して書かれているんです。で、聖餐式のたとえは、カトリックが言う様にパンを食べる事とかに随分固執していますが、違うんです。明らかにこれ パンは御言葉に関連してであり、メッセージに関してであり、葡萄酒は、聖霊の働きに関してなんであります。
だけどそれに関して、褒める訳にいかないって言う食事が有るんです。それは、何度も言う様ですけれども、自分の食事であって、自分が納得するメッセージであり、教会が納得して、これなら信者が増えるぞ!って言うですね、、、で、献金も増えるし万事めでたしっていうことでですね。。。。でもキリストはほっとかれるってことです。 それを褒めるべきでしょうかってパウロは言って、いや 褒める訳にいかないって言っているんです。パウロに褒められないって言うんじゃなくって、要はキリストからも褒められない類のメッセージが有り、礼拝が有るんです。そういう意味ではどんな礼拝でも出ればいいってもんじゃないんです。何故なら、どういう事に関しても我々は、裁きを受けますから、で、まして、明らかにヤコブ書に書いている様に、教師は厳しい裁きを受けるんです。何でも教師はメッセージで喋ればいいってもんじゃなくって、必ずその事に関して我々は、働きに付いたら必ず後に裁きを受けるんですね。だからどうぞこの事を正しく理解して行って頂きたいと言う風に思います。
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
24節の--(渡される夜)—---って具体的にどういう事だろうかわかりますか?これチョット見にはこういう風に理解ませんか? イエス様がゲッセマネで群衆達とか、役人たちとかに渡されちゃったと、そんな風に理解できませんか?で、これを日本語で読むと惑わしがあるんですね。面白いもんですけれども、一応検証しなければいけないです。残念な事ですけれども。新改訳は皆さん一生懸命読んでおられるんで、嘘ばっかり書いてあるとはいいませんよ。しかし、ところどころ、大事なところで、インチキがあるんですね!
渡される夜って、危うく騙されるところだったんですね!渡される夜って、KJV訳で読んだら、(裏切られる夜)って書いてあるんです。で、これ言わんとしている事は、こういう事です。
誰が裏切ったかおぼえていますか?イスカリオテ・ユダ が裏切ったんです。
裏切るってことに関しても、パンが出て来るんです。覚えていませんか?イエス様が、最後の晩餐の時に、、、、、「一体、イエス様、誰が裏切るって言うんでしょうか?チョット聞け」って、ペテロが言って合図しているんですね、でそこに一番キリストに愛されている弟子と自認している ヨハネ が側に付いているんです、横にヒョコヒョコと!。。。。。そしてぼそぼそと聞いているんです「いったいいったいそれは誰ですか?」とキリストに聞いているんです。
そしたら、わたしがパンを浸して渡す者だ。と キリストが言ったんですね。で、言いたい事は、ヤッパリこれは、パン(御言葉)に関連して裏切りが出ることを言っているんです。だから、言わんとしている事は、ここで言っている渡される夜云々って何も考えずにわたくし毎週毎週語っていましたけれども、改めてこの箇所を読んで、、、メッセージしなければならないから、改めてこの聖餐の箇所を読んでみたんですけれども。結構これは、二重の意味合いが在るんです。
聖餐式の言葉として見ると、これは非常に厳粛なんですけども、しかし他でもない聖餐式のことばの中に未来に関して預言的な事が書いてある。それは、裏切られるって言う事です。パンに関連して。
だから、言わんとしている事は、イスカリオテのユダが一切れのパンを貰って、そして裏切った様に、主が言われている事、聖書が預言している事は、御言葉に関しての裏切りが出てくるって事であります。だから我々は、単に単に聖餐式の時にパンを食べて、葡萄酒を飲んでそれはそれで祝福なんですけれども、其れのみでよしとせず、しかし明らかに 初めであり終わりである方は、この第Ⅰコリントでパウロがこの手紙を書いた、まさにその2,000年も前の時から未来の事を預言してるんです。何故なら神は、初めであり終わりである方なんで未来の事を見ているんです。それは必ず、御言葉に関しての裏切りがキリスト教会に起きてくるって事をまさにこの時点で、、パウロがこのコリントの手紙を書いた時点で既に神様は預言しているんですよ。 ビックリしました。そうですよね、そういう風にしか読めませんけれどもどうですか?
裏切られる。。。。渡される夜ってここが ミソ なんです。日本語を読んでいて全然解りませんよ!
思いもつきませんよね!裏切られる夜のことを言っているんです。で、ユダの事を言っているし、またパンを貰った人の事を言っているんです。
だから、繰り返しますけれども、御言葉に関しての裏切りが必ず出て来るんです。この事を覚えておいて下さい。で、だから聖餐のたんびに此処を読むんですけども、本来我々が知らなければいけないのは、裏切りがでてくるぞ!御言葉に関しての裏切りが出てくるぞ!っていう預言的な事です。
で、レムナントもこの言葉を読みながら、エレミヤが居ながら、牧師が居ながら、聖餐式を行いますけれども、しかし尚且つ我々は、主が言われているメッセージ、御言葉に関して裏切りが出て来るって事を見ていかなければいけない。で、其れと共に知らなければいけない事は、少なくともレムナントは、裏切る方のユダの方に行ってはいけないっていう事であります。
で、御言葉に関して裏切りって具体的にどういう事か?って言うと。例えばこういう事ですかね。
まあ、自由主義の教会なんかでもね、キリストは復活したって言うけれども、カトリックなんかもそうですけれどもねぇ、、、「それは民衆がそう思ったんだ!そういう風に信じたかったからそういう風に言ったんだ!」 って 要はキリストは復活していないって言いたい訳ですよね!そういう事なんです。
だから、欧米の神父とか牧師で、もう復活なんか信じていない人が結構多い、何割も居るって聞いたんですけれども。それは裏切りなんです。何故なら裏切りってどういう事かと言うと、味方だと思ったのに敵の味方をしているって言うことですよね。だからスパイ行為で爆弾を仕掛けたり、こう言うのを裏切りっていうんですよ。同じ様にキリストの教えを語り、キリストの復活を伝え、贖いを伝える筈の牧師が、あろうことか ----「キリストが復活しているのかどうかよく分かりません、復活している事を少なくともわたしは信じられません。」 と平気で言う教会が有るらしいんですけれども。------それは裏切りなんです!
そしてそれは、他でもない、主が書かれた様に、御言葉に書かれている様に実現しているんです。だから預言されている事なんです。残念ではありますけれども。
そういう意味では、主は初めからご存じなんです。しかしだからと言って、裏切りが容認される訳ではありません。裏切ったユダがどうなったかって言うと、悲惨な事書いてありますよね。首を吊って死んでしまった。あろうことか その後にその腹は割れて、はらわたが中から全て流れてしまった。。。悲惨な死に方ですよね。あんまり真似したくない死に方ですね。これは裏切り者の悲惨な死に方ですけれども。ロクなことにはなりません。あろうことか、キリストの言葉を扱う様になって、しかもそれを冒涜するっていう奉仕に入って行くとロクな事になりません。ユダみたいな者に成るんですね!だから我々は裏切ることを非難しているのであります。
主が明らかに艱難に備える事、または其の為に一生懸命ですね。 マタイ24章とかいろいろ終末の事を書いている訳ですよ。
「いったい何時、その様な事が起こるんでしょう?」。。。。ペテロとか弟子がキリストに聞いてですね。
「誰にも騙されない様に気を付けていなさい!」とかキリストが言っているんですけれどもね。
其れなのに、「艱難時代の前に人知れず携挙が有るから、みなさんは艱難に遭う事はありません。」 って言うこれは、キリストの御言葉への裏切りであります。それで惑わされちゃう人が出て来るんですね。だけれども、しかし残念な事ですけれども、わざわざ、 渡される夜、裏切られる様にパンを取ったってわざわざ書いている様に、御言葉に関しての裏切りっていうのは、既に聖餐式の御言葉の中で預言されているんです。で、この事を覚えておいて下さい。
御言葉を受け取り、パンを取って、葡萄酒を取るけれどもしかし、御言葉に関しての裏切りが必ず出て来るぞ!ていう事です。しかしそれに加わるものは災いです。ユダに関してキリストがどう言われたか、覚えていますか。「しかし、人の子を裏切る者は災いだ」 って彼に関しては 「生まれなかったほうがよかったのに」って ひどい事です。どう思いますか?
生まれなかったほうがよかった------我々の言葉で言うなら、クリスチャンにならなければよかったのにね。っていう事になるんです。新生の事を言っているんです。そこまで言われちゃうんであって、だからどんなメッセージも今の教会で許されているようでありますけれども。。。。
レムナントのメッセージも許されているんですけれども。わけの分からないカトリックのメッセージも許されているんです。人間的には。 しかし、どのような事、メッセージに関しても我々は、全ての行った事に関して後の世で、行いに基づいて裁かれるっていうポイントはどうぞ覚えて置いて下さい。
まして教師の裁きに関して、ヤコブ書で明言されていますからね!ハッキリ言ってます。たとえ じゃなくて、そのままの言葉で書いていますよね。 「あなた方の多くは教師に成らない方がよい、教師が格別厳しい裁きを受ける。」 そうですよね。ここに書いている、この箇所もこれに付随して付加説明しています。だから人間的には、神学校を出て、何か安心して牧師になるかも知れないけれども、それは只人間の世界の事であって神の前ではヤッパリ御言葉に関して責任って出て来るんであります。だからそう言う意味では非常に教師の奉仕って重いんです。人の前で重いか軽いか知りませんけれども、神の前ではですね。しかも明らかに裏切りが預言されているんです。必ずパン御言葉に関連して裏切りが出て来るぞ!っていう事を始めっからイエス様は預言しているんですね!で其の通りだからって言って、裏切ったからって許されるって訳じゃないんですけれども。其の事をどうぞ覚えて置いていきたいと言う風に思います。ので我々、御言葉を聞く者のポイントはどういう事かと言うと、{そういうパンが有るぞ!}という事を頭に置いて聞くんです。どこの教会でも出かけていって、
何でもパンを食べればいいってもんじゃないっていうことですね。必ず裏切りのパンって出て来るんだ! ユダみたいなパン出て来るんだって。何でもかんでも食べて食中毒を起こせばいいって言うもんじゃありません。残念ながら、イエス様でさえ、そういう事を前もって預言しているんです。
裏切られる夜の事を言っているんです。パンに関してですね。このポイントは是非覚えていて頂きたいと言う風に思います。
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
24節のこのあたり、言葉が足りないんですよ! 24節で皆さんに脚注が有ったら見て下さい。24節の異本って下に書いているんですけれども。
「あなたがたのために裂かれたわたしのからだです」 て、この部分が抜けています。これが無いと意味が解らないですよね。だけどドンドンいろんな御言葉は削られていきますから。
NIVはね、60,000語削られているって事です。六万語って物凄いですよね。聖書は66巻の書なんですけれども。NIV聖書は家にもあります、家の息子が神学校に行って買ったんで、家にも一冊ありますけれどもね。NIVの英語訳聖書を見た印象は薄い本だなぁ。聖書ってこんなねぇ結構な厚さじゃないですか? でもNIVはね、ヘラ~ッとしているんです。これ新約だけの聖書かなぁと思ったら、あぁ旧約も入っているしと、何か ヘラ~ッとしているんですね。薄いってニュアンスなんですね。60、000語も外されたら確かに薄いですよね。だからこう言う形にさせられているんです。でも減らされてスリムだから持ち運びに軽いし、いいなぁと思うかもしれませんけれども。そういう問題じゃないんですよ。結構大事な言葉は抜かされております。
ここで言っている様に、ここは大事なポイントなんです。 「あなたがたのために裂かれたわたしのからだです」って、これ大事なんですよ!
で、ポイントは、キリストの体が裂かれたって事を言っているんです。いいですか。これも一般的に見るならば、パンが裂かれるし、、、、パン裂かなければ駄目だよ、、、みんなでね、一枚のパンを回して、あの人が右の方をかじって、次の人は左の方をかじって、唾がくっつくからわたしは真ん中の方をかじる!---それは食べづらい、だからパンを割ったほうがいい。--そういう事ってありますよね。
24節のあなたがたのために裂かれたわたしのからだです。ここポイントですね。
からだ って言うのは、普通に考えて見て下さい。からだは、一つのからだ ですけれども、裂かれた方がいいのか?一つのままがいいのか?---裂かれないほうがいいに決まっていますよね。
うちの家内が読んでいた漫画何かにね、小指を詰める、、、ヤクザに居たけど、ヤクザの所に行って二度と出入りしない!これからクリスチャンになるから言いに行かなければいけない。でもどうしょうかな!指切られる人見たことあるけれど、指切られたら痛いだろうしな!って。主人公が悩む箇所が有るんですけれども、確かに痛いだろうと思いますけれどもね、で、信じて、信仰を持って祈って行ったら幸いにヤクザの親分が許してくれてね、指も切られずに済んだって事ですけれども。しかし指は切られてしまったら、この指を持って行って、その指だけ動いて、で、この指だけでボタンを押すかって、、、指切られたらそれ動かないですよね。神経いきませんからね。手とか足とか切られちゃったら駄目ですね。
だから、裂かれるって事は良い事じゃないんです。いいですか、あなたがたのために裂かれたって書いてあるんですけれども。---悪い事なんです。からだが裂かれるって悪い事なんです。だから、そんな風に読めないんですけれども、聖餐に関しての御言葉なんだから、厳かな御言葉だと思って我々も読んでいますけれども、わたしも読んでいますけれどもね、改めてここ読んだんですね。今回初めて分かったのかもしれない。今までロクに読んでいなかったなぁと思うんですけれども。良い事じゃないんです。だから、聖書の中で、未来の事いろいろ主はご存じなんで預言しているんです。
聖書の暗号は、そういう意味で聖書的なんです。何故なら過去も未来もご存じの方だから未来のことが出たって何も不思議じゃないんです。暗号を信じないって言う人は、神様の能力を、、、いや~先の事なんか神様分からないぞって言っているようなものですけれども。ここでもヤッパリご存じなんです。そういう事が出て来るんです。
言わんとしている事は、からだが裂かれるっていう事は、分裂することを預言して言っているんです。だから、面白いもんなんですけれども、11章の前の方に分裂の事が出て来るんです。皆さん読んだ記憶ないですか?同じ11章の18節で、こう書いてありませんか。
18節:まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
19節:というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
これを、からだが裂かれると言っているんです。だから言わんとしている事は、こういう事を言っているんです。二重のニュアンスが有るんです。
からだが裂かれるって言うのは、パンを割くって言う意味でありますけれども、しかしそれは、一つであるべきキリストのからだ である教会が、あろうことか、人の思惑によって分裂して行き分かれていってしまうっていう事を預言しているんです。
でこれは、キリストが意図した事では無いんです。だからここに書いてあるんです。
「あなたがたのために」って言っているんですよ。あなたがたのために裂かれてしまったわたしのからだ だって言っているんです。
分裂の理由は、キリストの意思でもないし、望みでも無いんだけれども、人の罪とか、思い間違いとか、思い込みとか、勘違いとか、争いによって結局分裂してしまうって事を、御心じゃないけれども、しかしそうなってしまうぞ!っていう事を預言的に語っているんです。
「あなたがたのために」裂かれてしまって分裂してしまったわたしの からだ って言っているんですね。
聖餐式っていいますと、思いもよらない事ですけれどもね。未来の事が預言されているんです。でこれって事実ですよね。イエス様の時代は分かれていませんでしたよね、ホーリネス派とかペンテコステ派とかですね、分かれていませんでしたけれども。今は、明らかに分かれています。千も二千も プロテスタントは分かれていますけれども。
これは、預言の通りの事が行われている訳であります。ので、一つ我々が理解しなければいけない事は、基本的に分裂はよい事ではありません。そして、神様キリストは、それらの事を望んでいた訳では無いんです。でも結果として、分裂が起きて来るって、それはもう始めっからと言う意味では主もご存じだったていう事なんです。それだから書かれているんです。-----あなたがたのために裂かれたわたしのからだ。-----預言ですよね!そういう事であります。
しかし、かと言ってレムナントは、じゃ どこの教会とも妥協していってもいいか?ってそうでも無いんですね。それは前の節に戻りますけれども。
19節: 11:19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
本当の信者ってこれはね、試験を経て残った、試されて残った信者です。だからおかしな教理を掴んで行って分かれて行ってしまうって、しょうがないんです。実際問題、レムナントはね、他の教会の何処とも仲良くしないといけないって事実ですけれども。しかしかと言って艱難前携挙の人と ズート毎週毎週おんなじように礼拝を持てるかと言うとチョット難しい面がありますよね。
終末にクリスチャンは決して裁かれる事は無いって言ってる人とね、ズート礼拝持って、心を全く同じ、同じ教理って訳にはいかないですよ、現実問題ね。ヤッパリ どっかで無理が出るんですね。
そういう意味では、これは結局は、真理によって分けられちゃう。そういう意味ではある意味では仕方ない事かも知れませんけれども。しかし主は前もって預言されていたっていうポイントは是非覚えて頂きたいと言う風に思います。
24節の後半で、これはあなたがたのために裂かれた、わたしのからだです。で、わたしを覚えて、これを行いなさい、って言ったんですね。
これは、行うって言うのは、パンを割く事ですね、だからパンを割いて渡すことです。これパンを割いて渡すことは具体的にどういう事か、と言うと。----メッセージを行うっていう事です。
メッセージをする時のポイント って言うのを わざわざイエス様は言われているんです。それはたった一言ですね、 「わたしを覚えて、これを行いなさい。」
だからパンを割いて渡す事をこれを行うってのは、パンを割いて渡す事なんですけれども。メッセージのポイントは、キリストを覚えて行うことであります。で、キリストを覚えて行うって、なんか漠然としている様に思いますけれども、要するにそれ以外のもの、たとえば信者の思惑だとか、こうやったら人が増えるとか、献金が増えるとか、この様にすれば他に怒る人がいないとか、この様に言ったらもう誰も怒る人がいないとか。そういう事を覚えて行うんじゃなくって、キリストの事を覚えてこの聖餐の御言葉を割く、パンを割くっていう事を行いなさいって言う事であります。
だから、みなきゃいけないポイントは只、キリストがどの様にこれを語られたか?っていう事であります。
今のキリスト教会のポイント、問題が在るならば、それはこの言葉を残念ながら守っていないってことですね。 「わたしを覚えて、これを行いなさい。」 って書いてあるんですけれども。キリストの事より信者の顔色を窺っちゃたりですね、思惑を伺ったりですね、、、だから カトリックみたいにね、信者は皆喜ぶでしょう!地獄は無いって言ったら、大喜びで拍手喝采だ!!!でこれは、キリストを覚えておりません。だから言っているんです。わざわざイエス様がこう言ったのは、そうで無い教会メッセンジャーが必ず出てくるんです。わたしを覚えてこのメッセージを行いなさいという事は、逆にキリストを覚えないメッセージとか、信者優先、教会優先のメッセージが必ず出てくるぞ!ってことを預言して言っているん出す。
そして案の定、今のキリスト教会は、このキリストの言葉にも係わらず、殆ど もう神中心じゃなくって、人間中心なものになっちゃっているんです。ので、災いなんだっていう事です。
よく言いますよね、「ここは、走っちゃダメ、危ないから」 とかね、母親は言うんですけれども、でも、全然男の子はいう事を聞かないで。。。案の定 石に躓いて転んじゃったりしてね、「ひぃ~」とか、泣いてしまったりとかするんですけれども。言う事を聞いていないて言う感じなんであります。ので、この事を覚えて置いて下さい。わたしを覚えるって言う事は、まさにそうなんであります。
で、レムナントは及ばずながら、レムナントでも間違いはおおいに有るかも知れませんけれども、しかし、しようとしている事は、主が、どの様に此の御言葉を語られたのか?キリストの立場に立って見ていきたいと言う事であります。
だから愚かな花嫁、賢い花嫁に関しても、主旨は、今のクリスチャンの見方は、全てのクリスチャンは挙げられて、祝福に入ってキリストに迎えられるって言うのですけれども、どう考えたって賢い花嫁は明らかに迎えられるけど、愚かな花嫁は、これって結婚成立しないんだから、ロクでも無い事になっちゃう。。。そういう事を明らかにイエス様は言っているんです。
だから、キリストの事を覚えてここをメッセージするなら、両方言わないと主の御心に沿ったメッセージにならないんですよ。それが聖餐で言う、「わたしを覚えてこれを行いなさい。」 って言う事なんです。
だからレムナントがやっているのは正に、御言葉に従う事であります、キリストの事を覚えてメッセージを語っているんですね。
「確かに賢い花嫁は、キリストに迎えられるけれども、我々が愚かな花嫁になったなら、これは天国危ないですよ。しかも、花嫁って言うんだから、どんなクリスチャンも花嫁なんで、愚かな花嫁っていう類のクリスチャンは居るんだ。って 」そこまでがメッセージの範囲だと思うんですよ! ので、それを語っているんです。
これは、他の教会から受け入れられないかも知れないし、どんなクリスチャンも救われるって言うそう言う、何かいい教理があるらしいんですよね、そういう教理から見ると、異端らしいんですよね。。。。。
まあ、異端かどうか気にしてはいませんけれども、しかしそれは、「わたしを覚えてこれを行いなさい。」と言われた様に、キリストの事を覚えて行っているメッセージにならないんです。其の事を語らないと。
同じことが言えますよね。麦と毒麦のこともそうですよね。
明らかに同じ事を言っているんです。ので、レムナントの言っている事は、真新しいようですけれども、ただ御言葉を守っているだけなんです。主が言われたのはどうなんでしょうか?ってですね。そういう視点を主によって教えられて、及ばずながらも求めて行った時に、ヤッパリ主は、必要な事を語って下さるんです。それは非常に大事な事なんであります。
だから、「わたしを覚えてこれを行いなさい。」って言うポイントをですね、是非理解しておいて頂きたいと言う風に思います。
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
で、要するにキリストからの霊でなければいけない。という事であります。
この辺もですね、わざわざ、「わたしを覚えてこれを行いなさい。」 って言うのは、どんな言葉も意味が有るんです。何故なら、キリストの事を覚えて無い、キリスト以外の霊も来るんです。そういう霊を喜んで受け入れる様な時代が来るんです。
まさに、トロントとかペンサコーラの霊がそうですよね! キリストの霊じゃ無いものを喜んで受けちゃっているんですね。そういう時が来るんです。
神様がわざわざ書かれた事を、キリストの事をわざわざ言われている言葉は、どんな一言も意味が有るんです。我々にとっては、ピンとこない事も、意味が有るんです。どうぞこれらを正しく見ていきたいと思います。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
Tel
E-mail koukanojisan★yahoo.co.jp
(★の箇所を@に変換してください)
天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著