第Ⅰコリント人への手紙12章1~11  2011年11月13日

 

12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。

12:2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

 

此処に書いて有るのは、御霊の賜物に関してであります。御霊の賜物ってどういう事かと言うと、この後の方を見ていけば分かるんですけれども。

 

例えば、8節では、知恵の言葉とか、知識の言葉、9節では、信仰、癒し、奇跡、預言、異言。ですね。

で、一つ我々が知らなければいけない事は、御霊は、クリスチャンの内に与えられているので、御霊の賜物が有る!と言う事です。

 

他の第Ⅰコリント14章には、もっと積極的です。御霊の賜物を追い求めなさい!そして、特に預言する事を熱心に求めなさい!って言っています。

だから御言葉には、どんな言葉も言葉に従わなければいけないんです。だからキリスト教会の常識に従うんじゃなくて、書かれた言葉に従わなければいけません。

 

何を言っているのかと言うと、御霊の賜物を求めない教会が多いんです!特に言っちゃって区別を付けちゃうと、何か差別みたいですけれども。福音派に多いんですね。御霊の賜物を求めない。

で、カリスマ派、とかペンテコステ派はわりと求めるんですけれども、だから福音派にもいい所が有るし、ペンテコステ派にもいい所が有るんですけれども。御霊の賜物を求めるか、求めないか、って言う御言葉を行うか、行わないかって言う事に関して、明らかに福音派は ズレ ております。明らかなんですね!だから其の事に関連して全て間違っているとは言わないですけれども、いいとこも所どころ有るんですけれども、少なくともここはズレている!ここだけではないですけれどもね。

 

御霊の賜物に関しては、御言葉に従っていないんです。だからそれに関しての恵みとか、祝福とか、大事なポイントが分からないんです。特に終末の事に関して、御霊の賜物を通して教えられるって事有るんですけれども。そういう意味では、殆ど盲目に成っているんですね、それはどっちかと言うと福音派です。

ペンテコステ派は預言とか異言を求めるんですけれども、でも問題が在ります。悪霊の異言とか預言を区別出来ないんですね、、、だからこれも又、問題が在るんですけれども。(聖霊の第三の波 とか、ベニー・ヒン とか、我々トロント ビデオで言っている様な明らかに悪霊なんですけれども、区別出来ないんです。)そこが問題なんですけれども。

 

只、繰り返しますけれども、1節に書いている様に、御霊の賜物と言う類の異言とか預言とか癒しとか言う類の聖霊によってそういう賜物って有るんです。だけどある種のクリスチャンは、そんな事を書いて有る第Ⅰコリント12章が入っていない聖書を読んでいるのかも分からないんですけれども。日本語が読めないのか、分かんないですけれども、実行しないんです。御霊の賜物に関してですね。だからそれに関しての恵みからかなり ズレ ている。それは好い事ではありません。ので、レムナントの趣旨は福音派になる事でもペンテコステ派になる事でもありません。御言葉に忠実に行うことです。だからその面ではいわゆる福音派って ズレ ているんです。御霊の賜物に関してですね、他にもたまにいいとこあるんですけれども、こう言うポイントに関して明らかに ズレ ています。

で、御霊の賜物に関連して、どう言う所が問題になってくるかと言うと。

 

2節:異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

 

御霊の賜物の事をズーットこの 第Ⅰコリント12章では書いて有るんですけれども。その前に ポコッと 突然(ものを言わない偶像)って言うことばが出てきますですね。でこれ たとえ とか謎とかヒントが有るんです。そういう風に思います。此処のところに突然偶像の事が出て来るんです、他では何も出てこないんですけれども、何か関係在るのか無いのか、突然出てくるんですけれども、聖書は意味無く書かれているものではありません。

言わんとしている事は、それは、今のキリスト教会の問題とか、キリスト教会の偶像礼拝って、これは器崇拝の たとえ なんですけれども、今のキリスト教会の 器 の問題って言うのは、ものを言えないって言う事であります。。。ただの偶像に過ぎない。しかも唖(おし)だ!っていう事ですね。何を言っているのかと言うと、神からの言葉を語る事が出来ないっていう事であります。

で、御霊の賜物の多くの賜物は、預言にしても異言にしても、神の霊によって神からの言葉を語るって言う事であります、それが今のキリスト教会で有名であろうとですね、どんだけ学識が有っても、ただ人間的なこの世の知恵に過ぎない様な事をですね ポカポカ て喋るくらいでですね殆ど意味無いんですね。神からの言葉を語る事が出来ないんであります。で神からの預言はそれらの事を語ります。この事を覚えて置いて下さい。そして預言の賜物を求めて行く時に、御言葉に従って預言の言葉を、、預言とか、賜物を求めって行く時に、神からの言葉を語る事が出来ます。

 

わたくしが神学校時代、いろいろ教わっていた教会って言うのはそういう意味では聖書的でありました。預言も異言も癒しも求めていたんですね、そういう意味ではこの言葉に関して忠実でありました。で、求めて、ズーット 行く時に教会の中で預言の人って出てくるんです。預言の賜物の人って出て来るんですね。

そしてそれは結構大きな教会が百位有る様な教団なんですけれども、その中で、ずば抜けて賜物が有るって言う人が一人二人居られたんですけれども。レベルはヤッパリ大したもんでありました。で、その人の預言って(こういう交通事故が何とかで、このチームにこういう交通事故が有る!)って言ってましたが、ほんとにそれが起こってしまったりとかね、有るんです。

 

で、一回こういう預言がありました。わたしが非常に覚えている預言が有ったんですけれども。

礼拝が三っぐらい有るんですね、第二礼拝って、十一時頃から始まるんですけれどもね。其の礼拝の中でこういう風に言っていたんですね。(教会の中で、ある兄弟が出てくる。その兄弟が黙示録の事をいろいろと解説する。いろいろ話す)って言ったんですね。    その時  ウー っと思ったんですね! わたくしその時、あぁ~そういう人出て来るんだなぁと思ったんですね!で、だけども半年くらいしたらですね、他でもないわたくしがそう言う 「エレミヤの部屋」とかのメッセージが出てきて、それをその教会の牧師さんに書いて渡す様な奉仕をする様になってきたんです。でも殆ど受け付けてもらえませんでした。まともに読んでもらえませんでした。またそれがキッカケで追い出されてしまったんですけれども。

 

だから、その預言って当たっていたんですね、でも当たっているからと言って、教会がそれに沿って正しく受け取って、正しく対応するかって、また別ですね。で、追い出されちゃいましたからね。その預言した人は止めてくれた訳では無い、それは、また別なんですね。

だけども、賜物って言うのは有るんです。だからものを言わない偶像じゃないんです。だから今のキリスト教会の問題は、繰り返して言いますけれども、そもそも彼らの知恵は人間的な知恵とかあまり変わらないんです、この世の学者とかね、智者とか、何所かの学者が言っているのとたいして変わらない事を、メッセンジャーとしてこの世の知恵ぐらいに語っているに過ぎないんです。

{神からの事を語っていない。それを=ものを言わない偶像って言っているんです。}  そういう事に在っては、この時代に在って、主からの働きを担う事は出来ません。何故なら「御霊のたまものを求める」という御言葉を行わないからなんです。今の福音派はですね。だけど我々は行っていきたいと言う風に思います。

福音派は悪い事ばっかりじゃないんですけれども、この事に関連しては大いに問題が在るだろうと言う風に思います。

 

12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

 

だから、イエスは 主 と言うなら皆さんに明らかにある程度は聖霊が働いているんです。だけど聖霊に ズーット 従っているかどうかは分かんないですよ!不従順なクリスチャンっていますからね。   (不従順な者の内に今なお働く霊のつかさって)言う言葉がありますんで、そうなんです。

{でも悪霊からのものは明らかに イエスは呪われよ、とか何だかんだ言っているけれども、要は、結論は呪う、キリスト・イエスを呪うとか、言う}そんな様な霊であります。だからこれを以って一つは見分けが出来ます。

 

12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

 

御霊の賜物って言っても いろいろ 有るんであります。

 

12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。

12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

 

御霊の賜物もいろいろ違う、御霊の賜物って言うのは、異言とか預言とか癒しとかですね。で、奉仕って言うのは、これまた違いますよね、だからある人は司会の奉仕をするかも知れませんし、賛美の奉仕をするかも知れませんけれども。これもヤッパリ同じ主が働くって言う事であります。

 

6節:働きはいろいろある。。。だからこれ教会によっていろいろ働きが違うんです。

海外宣教を一生懸命やる教会も有りますし。伝道を一生懸命やる教会もあるけれども、または我々の処みたいに終末の事を一生懸命警告する教会もありますけれども。これも同じ神によってなされる神の働きなんだ!っていう事ですね。

 

12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。

 

ある人には御霊によって知恵の言葉が云々とかですね、御霊の現われが違うって言う事です。だから同じ聖霊なんですけれども、賜物が、いろいろ違う賜物が出てくるって言う事であります。で、レムナントもこんな人数は多くないんですけれども、でもヤッパリ賜物も違うかなって言う風に思います。

わたくしめは、何の賜物があるのかな?あんまり聖霊の賜物無いなと時々思わないでもなかったんですけれども、まぁ、強いて言えば、幾つかここに書いている言葉の中では、知恵の言葉とか知識の言葉とか其のくらいでしょうかね。そういう風に思います。

でも、顕著な預言の賜物のね、人も出てくるでしょうし、また夢や幻を通して教えられるって事もあります。

いつかね、広島の兄弟から連絡がありましたけれどもね、「夢を見たっていう事ですね。、、花嫁の夢を見たんですけれども。其れって、裸の花嫁だったという事ですね。」裸の恥を表わすって言うような感じの夢ですね。。。。あぁこの兄弟はそういう賜物なんだなぁって思いました。

で、わたしは、自慢じゃないですけれども全く夢見ないですね、昨日の夜夢見ましたけれども、信仰の夢じゃ無いですね、仕事かなんかの夢、、、、、全然賜物としての夢は見ないですけれども、でも、夢で教えられるとかね、または、エステル姉妹が時々証しされますよね、艱難時代の事はどうですかと、イエス様が教えてくれるから、いいな とか思いますけれどもね。そんな事も賜物かも知れません。だからどうぞ、そんな風にして教会って言うのは、一人の人にすべての賜物が与えられるって事は無いんでしょうけれども、御霊の賜物を各自が与えられて、助け合うと言う事柄が一般的なんであります。ので、御霊の賜物を一生懸命求めて行くのはポイントであります。

 

そうで無いと本当の意味での、奉仕に入って行きません。人間的な意味の奉仕=机を掃除するとか。未信者でも出来る事なんですけれども。所謂、聖霊の類のレベルの奉仕って言う時に、御霊の賜物を真剣に求めているか、求めて行かないかって、レベルが違います。

まして之から終末に入って行くって言う時にですね、御言葉を行って、御言葉に書かれている通りですね、御霊の賜物を求めるかどうかで違います。そしてポイントは、賜物に関しても熱心に求めなさい、御霊の賜物特に預言する事を熱心に求めなさい。って言う様に。

分かりました。

ヤッパリ、忠実に行う人はそれを得るんです。何でもそうですよね。

外国語でも追い求めて毎日勉強していけば、身につきます。

 

で、これはまあ人間的な勉強ですけれども。賜物も同じです。ヤッパリ毎日預言している人は、預言が出来るようになる、だからそうですよね、そういう意味で求めて行く事にポイントが有るという事を見て行きたいと思います。で其の奉仕にはいろんな種類が有るけれども、種類が違うって言う事ですね。

 

12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

 

知恵、知識の言葉って言うこれも、知恵とか知識に関しても、御霊による知恵の言葉とか、御霊による知識の言葉って有るんですね。

これ知恵の言葉、知識の言葉って、どういう事か今一つ ピン とこなかったんですけれども、

こういう箇所から分かりますかね、

 

第Ⅰコリント1章17節: ここで知恵とか言葉ていう言葉がでてくるんですよ。(知恵)(言葉)って聖書で検索すると、この言葉が出てきますけれども、

 

第Ⅰコリント1章:17節

1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。

 

ここで言葉の知恵って書いて有ります。だけどこの後の方を見て行くと、この世の知恵なんですね。

 

だから、

1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

滅びに至る人々には愚かであっても。とか

 

1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

知恵ある者の知恵とかね、

 

1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

 

智者はどこにいるのか、学者はどこにいるのか、この世の議論家とか神はこの世の知恵を愚かにされた。

この世の知恵ではダメなんですよ。この世の知恵の言葉は駄目なんですけれども、しかし聖霊に在る言葉に関連しての知恵の言葉って有るんですね。

 

で、そういう事はありますね、ステパノなんかそうですよね。彼が聖霊の知恵で語っているんで、他の人は対抗出来なかったとかという事が有ります。

イエス様の場合もそうですよね、対抗出来ないでみんな~何とかとかですね。

または、世の終わりになった時に裁判所に連れて行かれても、自分で前もって考えないで、その時聖霊が知恵を教えて下さるんですけれども。

これは聖霊の知恵によって語るんであります。だから皆様が、メッセージをしていったり、なんとか~と言う時に、この事を求めて行くべきではないだろうかと思います。聖霊が語るべき知恵を与えて下さり、又は知識の言葉を与えて下さるんではないかと思います。

 

で、今一冊本を書いているんですけれども、ヤッパリその中で、本を書くときに、まぁ書くのはいいんですけれども、読んでくれるのかどうかは、また別なんですね。

で、一所懸命主の前にヤッパリ祈りました。折角本を書くし、しかも生涯初めてですよ!出版社からお声がかかりました、今のところは社長さんが覚えて置いてですね、エレミヤって言う人が本を頼んだっていう事を覚えているんです、来年になったら忘れちゃうかも知れませんけど、今年中に何とか出したいなぁと思いますけれども。  エレミヤって誰でしたっけ。失礼ですけれども。。。。って言われちゃうかもしれないですけれども。何とか出したいと思いますけれども。

その中で、主に知恵を求めて行く時に、どの様に書いたらいいのか、まあメッセージにも通じると思うんですけれども、知恵が与えられると言う風に思います、また実際僅かでも、知恵が与えられてきているかなぁ~と言う風に思います。

で、本を書いて行くなかで、主によって示されている事は、ヤッパリ一つはこんな事を神様は教えてくれました。

世界中にいろんな人が居て、いろんな著者が居て、日本の文豪と言えば夏目漱石だとか、芥川龍之介とか、志賀直哉とか、太宰治とか居るんですよね。  そういう人達の本を読むとヤッパリ面白かったり知恵が有るなぁと思いますけれども、いやっていう程本はあるんですけれども、でも、わたしは主によって示されてこんな言葉(フレーズ)が浮かんできたんですね。{神によって書かれた本はたった一つしか無い。}いう事なんですね。其れって何か見かたによれば怪しいフレーズかも知れないですけれども、でもそれを真面目に書くように示されたんですね。たった一冊しかないんだ!これ誰かが言っていそうであんまり言わない言葉なんですね、で、それに伴ってどこが神の本、神に書かれた本の特徴があるのか?っていう事を神様が示してくれました。それは初めであり終わりである方、要するに過去も後の世もその本の中に決して人には知る事の出来ない千年も二千年も三千年も先の事が書かれているのは、これがホントまさに人の本では無くて、ヤッパリ未来を知る事の出来る方の本である。そういう一つの特徴がありますという事をね、神様は教えてくださって、それを書いています。

で、皆さんに読んでもらったんですね、わたしの書いた原稿を読んで下さいとお願いしたら。で、厳しい批評が来るかなと思ったんですけれども、珍しく褒めてもらったりなんですけれども、皆さんにも読んで頂いて、まぁ内容が分かり易いんじゃないですかという事で感謝でした。まあそんな事であります。

 

だから明らかにそうです。未来の事が幾つか聖書の中で預言されています。聖書の中で四つの預言、バビロンに関しての預言とか、ツロに関しての預言とかね、エルサレムの黄金門に関しての預言とかですね。これをビデオで見たんですけれども、それを書いてですね、それの四つの預言がフルに全部成就する確率って簡単なようで計算するとたいへんな数なんです。兆の上の単位なんです、100京分の1 なんですね。物凄い確率なんですけれども、見事にどれ一つ外れる事無く成就しているんですね、

 

だから、主の知恵、神様のなされた事なんですけれども、主が知恵を与えて下さる時にこんな風に書くとかですね、こう言うとこはポイントだとか、教えて下さるようなポイントがありました。

ので、この御霊の賜物ってそうなんです。

 

12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、

 

って言うんですね、だからこれはメッセージに於いて、しかも御霊の賜物の現われの中で一番最初に書いて有るんですね、だから、メッセージが非常に大事なんです。礼拝のメッセージ。

弟子の訓練している人はメッセージをやるって事であります。その時に主に知恵の言葉を求めて行くことが大事であります。また、主に知識の言葉を求めて行くって大事なんです。それがポイントだったり、人の大事なポイントをグーッと付くって有ると思うんです。だからそう言った事柄をですね求めて行きたいと言う風に思います。

 

知恵の言葉って書いている以上 ヤッパリ知恵の言葉って有るんですね、また御霊にかなう知識の言葉って書いて有ります。知恵と知識とどう違うかあんまりよく分かんないですけれども、まあ、神様は御霊によって知識の言葉を与えて下さるだろうと言う風に思います。

 

で、今日のセミナーで、「知識の言葉ですよね、」今日のセミナーで語る予定でありますけれども、

ヤッパリ最近グーッと、こう、いろいろ黙示録の事とか読んでいて分かった事は、黙示録の時代とか終末の時代って非常に特殊な時代ですけれども、明らかに多くの人が、ハッキリ言うならば、終末の時代って言うのは、神の怒りが本当に爆発するって言ったらいいのですけれども、ズーット 忍耐されていたけれども、最後に神の怒りが爆発するっていう時です。これはどんなふうに見てもそうです。

その怒りの方法として、特別な国が用いられちゃうっていうのが黙示録の語っている事であります。

 

その獣の国はアメリカだと我々は思っているんですけれども。しかもそのアメリカに関連して恐ろしい事が黙示録に書いて有るんですね、それは、その権威をその国(獣の国)に与えたのは、竜だからである。  竜ってサタンだと聖書の他の所に書いて有るんです。だからサタンがこれ(アメリカ)をもって多くの人を滅ぼしてしまおうと言ってですね、秘密兵器みたいに特別な国を用いる。そういう特別な国がアメリカなんですね、だから恐ろしい事であります。

で、サタンがこれなら大丈夫と思って用いているわけですね、ヤッパリ  トンデモナイ裏が有るわけです。だからアメリカ由来のキリスト教会の惑わしとか、罠って言うのは底知れないんです。

 

絶対私は惑わされないぞ!っていう人は、もうすでに引っかかっているんであります。絶対そんなものに引っかかるものか!って言う人は既に入っているんです。

艱難前携挙説ってそうですよね。わたしがクリスチャンになった時からズート 聞かされていますからね、  16か17歳の時ですよ、でズーット洗脳されていますからね!知らないうちにもうそれが入っているんです。

それだけでは無いんです。「神は愛です、神は愛です、」それは嘘じゃありませんよ。でも聖書の一面に過ぎないんです。{神は裁き主だって事は嫌っていう程書いて有るんです}ロトとか、ノアの時の聖書の箇所によっても分かります。一面ばかり言って、そこの面だけ言って行くって実はこれ異端なんですけれども、それの故に裁きとか、終末の日にクリスチャンが裁かれるっていう事とか、そういう事がもう受け付けられない様なマインドコントロールされちゃっているんです。だから黙示録を理解出来ないんです。

もうクリスチャンは裁き関係ないと思っているから、全然結論に至れない。でもそれは既に、アメリカ(獣の国アメリカ由来のキリスト教)の既に罠に入っている!既に!だから知らない間に罠にかかっている!凄いです。

 

わたくしが柔道を昔やっていたんです、高校時代にですが、旨い人は知らない間に技にかかっていたり、あっという間に体が飛んでしまって、気が付いたら畳の上だったり、技の旨い人はそうであります。

そんな様な感じでもないんですけれども、騙される、罠にかかるって、そんな様に分からないうちに掛かる、そんな風だと思います。これはそんな風に示されます。でそんな風にセミナーでも語ろうと思うんですけれども、其れって段々黙示録を見て行くうちに神様が与えてくれる知識ですね、知識の言葉って書いて有るんですけれども、真に聖書の言っている知識を神様教えて下さるってことであります。それが皆さんの内に真の知識になる時に、それが人々にも、、、自分がまず知識を持たない事には、人に語る事は出来ません。でそういう知識は与えられてきます。そうなんだ!トンデモナイ時代であり、そしてアメリカ由来の、、、この世の人も災いに会うでしょうけれども、特に背教のクリスチャンに対して、アメリカキリスト教界の罠って底知れないものがある!知らない間のうちにそれに掛かっている!という事ですね。しかもそのまま滅びに直行してしまう!良かれと思ってやっている事がですね、全然実は御言葉とズレ ていたりする、そんな事であります。でこれもそんな事も、聖霊にあって教えて下さる、知恵、知識等、聖霊に在って教えて下さるという事を是非見て行って頂きたいと言う風に思います。

 

12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、

 

是非、御霊によって信仰が与えられて、癒しの賜物も与えられる人は与えられていって頂きたいと思います。

 

12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

 

この間、姉妹と話していたらそんな事を仰っていました。   「霊が来る時、においがする。」  家の家内に聞いたら、どんなにおいがするのですかって、「硫黄のにおいがする」という事だそうです。

、、、、(地獄の硫黄のにおい)、、、、、それってすごい見分けだなっておもっているんですが、においだと間違えようが無いですよね。

焼き鳥家の前を通るとね、わたしも焼き鳥家の前を通ると気が付かなくても、目で見なくっても、におい ですぐ分かります。あぁ、焼き鳥家だ、このにおいは絶対焼き鳥家だ!だとかね。

カレー家の前とかね、CoCo一番とか、この前を通ると、このにおいはカレーだ、カレーはおいしそうだな!とかね。  においで分かるってこれ、間違えようがないですね。凄いなぁと思いましたけれども。これもヤッパリ 御霊の賜物ですよね。霊の見分けって言う事ですよね、

 

だから、それは書いて有る以上そういう賜物は有る。でも、ある人達はそんなもの気にも留めないんです、御霊の賜物を。それはこの世的な今のキリスト教の常識です。特に福音派はもう人間的な教えとか、人間的な知恵に頼っちゃっていますから、御霊の賜物とかまともに相手にしない。それは良い事ではありません。

それは何故なら、この世的なキリスト教の常識には沿っているけれども、聖書の常識に沿っていないんですね。だから致命的なところで必ず問題が出てくるだろうと思います。まして終末の時代をまともに乗り切れるとは思わないですね。だからどうぞそう言った事に関してですね、警告を受けていきたいと思います。

 

12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 

いろんな御霊の賜物って言うのは主の御心の中で、この人にはこれが必要っていう風に語って下さるんですね。でまた奉仕もそうですよね、この教会にはこの奉仕っていう事で、与えられてくるんです。

 

だからレムナントはこれだけの小さな教会ですし、また大きなことは出来ません、海外宣教をしている訳でもないし、大きなクルセイドを開ける訳でも無い。でもヤッパリ それぞれの教会にはそれぞれの教会の特徴が在って、どの教会も同じ奉仕をどこもやっている訳では無いです。レムナントは明らかに終末に関しての啓示とかですね、警告とか、召しとか、またはそれに伴う知識の言葉とか、与えられているというふうに思います。またそれに伴う預言とかですね、示しとか、霊の見分けとか、与えられていると言う風に思います。

 

この分野で、忠実になして行けば、我々は受けるべきものを受けるだろうと言う風に思います。のでどうぞ、明らかにこの召し、っていう事にですね、少なくともレムナントでここに召されている方々は、少なからずそう言った事に関係するかと思います。ので、召しを捉え、また御霊が示して下さるんで、それはそれで尊重してですね我々がそう言う召しならば、尊重して行って行く時、多くの恵みと助けが個々のお一人お一人に与えられるんじゃないかと言う風に思います。