Ⅰヨハネの手紙1章           2015.6.7

 

1: 1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 

ここに書いてある「いのちのことば」というのは、イエス・キリストのこと。

 

ヨハネによる福音書

1:1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 

ヨハネが、イエス・キリストに関して言っている。

イエス・キリストは2000年前に人として来られたが、ヨハネは、初めからおられた方であると理解している。

その方に関して、ヨハネ、ペテロなど弟子たちが、「聞いたもの」肉体をもって、その耳で聞き、目で見たもの、手で触ったもの、という表現をしている。

イエス・キリストに関して、ここではキリストという言葉を書かずに、「いのちのことば」と書かれている。

キリストを紹介するのに色々な表現があるが、「神の子」、「救い主」と書かれている場合があるが、ここでは「いのちのことば」と表現している。

言葉が違うのは、意味合いがあるから。

大事なポイントは、ここで書いてある「いのち」という言葉。

イエス・キリストを表現する時に、「いのち」という事がよく言われる。

例えば、

 

1:4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 

これは、言わんとしている事は、イエス・キリストという人にこそ、「永遠のいのち」があるという事。

我々が「永遠のいのち」を得るには、この方にこそポイントがあって、聖書の他の箇所には、「この名以外に救いはない」とまで書かれているので、他に求めて行っても、「いのち」に到達しない。

「いのち」という言葉が強調されている。

 

3:15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

 

ここにも「永遠のいのち」とはっきり書いてある。

他の名は使われていない。

世界でただお一人。神様がそう定めた。

これは、正しく尊重しなければならない。

 

3:16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

すでに我々は、肉体の命を持っている。

後の事は、あまり考えないかも知れないが、はっきりしたことは、黙示録では、「いのちの書に名を記されていない者は、みな火の池に投げ込まれた」と書いてある。

永遠のいのちを得ないと大変な事になる。

そういう意味で「いのち」というのは、まさにそういう意味合い。

 

Ⅰヨハネ

1:1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 

「すなわちいのちのことばについて」、どの様な事を言っているかというと、我々は、この、キリストの言葉を信じる事によって、「永遠のいのち」を得る。

「永遠のいのち」に入って行く唯一の道。

ヨハネは、イエス・キリストと同時代の人。

だから、「手でさわった」と言っている。

我々では、そうは言えない。「手でさわって」ないから。

しかし、言葉はある。  すなわち「いのちのことば」

そういう意味では不公平ではない。

ヨハネの時代も、今の時代であっても、我々が「言葉」をきちんと受け取るならば、ヨハネと同じように、「永遠のいのち」を得る。

今の時代にも、公平に、永遠のいのちに至る道は開かれている。

それは、ここに書いてある「いのちのことば」

我々がキリストの言葉を信じるか信じないかで、大きな差が出て来る。

残念ながら、最も大事なものとか、本当に価値あるものとかは、人はその価値を認めない。

本当に大事なものは拒否されやすい。

世の人がどう思おうと、聖書が言っている事は、「いのちのことば」とは、何を言っているかというと、唯一、我々が永遠のいのちを得る方法というのは、この言葉を受け入れるかどうかという事にかかっている。

他に、方法は無い。

みの、「いのち」とは「永遠のいのち」の事であって、それは、「言葉」に通じる。

我々は、そういう意味で、御言葉に対しての攻防がある。

御言葉に関して、あらゆるインチキな教理がたくさんある。

御言葉を正しく受ければ、これは永遠のいのちに通じている。

サタンの妨害は、物凄い。

そういう意味では、狭い。

聖書に到達しても、さらに妨害がある。

「いのちのことば」「聖書の言葉」「キリストの言葉」を通して、我々は「いのち」に至ると聖書が語っているし、現実にそうである。

この事は、よくよく覚えておく。他に方法は無い。

 

1:2――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――

 

ここに書いてあるように、「いのち」とは「永遠のいのち」の事を言っている。

「このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、」と書いてあるように、

イエス・キリストの事を言っている。

イエスキリストの事を「永遠のいのち」と語っている。

我々が、後の世で、永遠の滅びに入るような事にならずに、「永遠のいのち」を得たい。

この世の事だけで終わってしまうのは寂しくなるばかり。

我々は、この世では旅人にすぎない。問題は、「永遠のいのち」を得るか。

イエスキリストに関して、「このいのちが現われ」とヨハネは行っている。

イエス・キリストという言葉が全く出てこない。

しかし、イエス・キリストを表現している。イエス・キリストに関して2節は「いのち」とか、「永遠のいのち」とか書いてある。

イエス・キリストに関して、色々な呼称がある。

三大偉人だとか、犠牲になられた方だとか、尊敬された方だとか、キリスト教の創始者だとか。

世の中の人はそう言うけれども、大事な、抜かしてはならないポイントというのは、イエス・キリストこそ永遠のいのちであり、この方を受け入れるかどうかという事が、「永遠のいのち」のポイント。それを表すために、二節で、イエスしかキリストという言葉を全く使わずに、イエス・キリストの事を、「いのち」「永遠のいのち」というように、ヨハネは言っている。

実際にキリストは、そう言う方。

なので、後の世の事に関して、みんな考えると思うのだが、我々の答えはたった一つ。

このイエス・キリストのみに永遠のいのちの道があるという事。

二節でヨハネが言っているのは、このいのちが現われ、私たちがそれを見たので、と、言い換えれば、イエス・キリストというお方、この人はそれを見たので、その証をし、「この永遠のいのちを伝えます」と言っている。  証というのは証言。

証人とか証言を通して、人は、起きた事が、本当か、嘘かというのを理解する。

そういう意味合いで、イエス・キリストを伝える。「永遠のいのち」を伝える時に、神様の方法というのは、ヨハネがそうしたように、「証をする」「証言をする」と言っている。そして、「伝える」と言っている。

キリスト教の方法というのは、このようにしてイエス・キリストを伝えていくという事を覚えておく。

我々もある意味では、どこかでその証言を聞いている。

「キリストに命がある」「キリストに救いがある」

我々もやはり、証言していくのが大事。

我々が、証人として語っていく時に、それに耳を傾けていく人が出て来る。

「そうなのかもしれない」「そこに救いがあるかも知れない」

なので我々は、証言を軽く見ないこと。

ただ、我々の証言を通して、キリストのしもべになる、という人もいるという事を覚えておくべき。

 

1:3私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 

交わりを持つという事は、大事。

クリスチャンの成長というのは、交わりの中で成長していくという事は覚えておく。

祈りは交わり。  我々も、交わりの中で成長していく。

交わりの中で、感化していく。

我々は、祈りの時間を持つという事は、キリストと交わりを持つという事。

その中で、我々はキリストに触れ、聖霊にある歩みを徐々に教えて行く。

交わりの無い人は感化されない。

交わりに大きなポイントがある。

 

1:4私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

1:5神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

1:6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません

 

なので、神との交わりの中で、光の中に入って行く。 そして真理を行なうようになって行く。

交わりは感化する。

神と交わりを持つ中で、影響されるし、神からの影響がある。

なので、真理に自然に触れて行く。

神との交わりを持てば持つほど、真理の光があふれて来る筈。

それなのに尚且つ、暗闇の中を歩むのは違う。

神と交わりを持つと、神は光なので、結果的に光の中に入って行く。

結果として、真理を行なうようになって来る。

祈って、聖書を読む。祈りは神との交わり。その中で確かに、神との交わりを持つ中で、光が現われ、真理に触れて行くという事がある。

ヨハネは「神との交わりがある」と言っているのに、しかも闇の中を歩むのは矛盾していると言っている。あり得なく、偽りであり、真理を行なっていない。なので、神との交わりが、ある意味では、真理に我々は導かれる。

キリストの中でも、学もあるけれども、色々と、真理を離れた、わけの分からないインチキを言う人がいる。「キリストは復活していない」「奇蹟は無い」・・・そう言う人は軒並み、祈りもしない、交わりの無い人ばかり。

我々の方から真理を求めたり、神からの光を受けたいという場合、交わりを持って行くというのは一番の近道。交わりは祈りだったりするけれども、そうすると、時折、大事な事を教えられる。

月刊バイブル、角笛ニュースレター、ホームページなどネタが無くても、祈ってるうちに示される。

祈る習慣を持っていない人は、損をしている。

アモス書に、「我々には災いは及ばない」とあったが、これも祈って、聖書読む中で、明らかに主が光を与えて下さった。「このような啓示がある」「こうではないのか」、これは神からの啓示があった。真理が開かれる。六節で「神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩む」とあるが、交わりを持って行く時、その様な方向へ行かない。

交わりを持っている時は、偽りの教理は出てこない。逆に真理が出て来る。

ポイントは、光の中での交わり。

なので、我々も、「奉仕がいっぱいで祈れる時かが無い」というのは本末転倒。

神との交わりが無くなったり、光が無ければ、殆ど我々の奉仕は無意味なものになってしまう。

交わりの習慣をきちんと持って行く時に、そんなに心配することは無い。主から、必要な事がぽつんぽつんと示されて来る。

                      

1:7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 

光の中を歩んで行くということ。

真理の光の中を歩む。すると、互いに交わりを持ち、神との交わりもある。

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とある。

七節に書いてある「罪」という言葉。  これは、英語ではSINという。

九節にも、「罪」という言葉が出て来る。しかし、この節の罪は少し違う。

複数形の「罪」  日本語では出てこない。

聖書が単数形、複数形で書いてある事には意味がある。

そこからの学びもしたい。

単数形の罪というのは、アダム現来の罪であって、全ての人間が持って生まれた罪。

逆に、複数形の罪とは何かというと、数えられる罪。

どちらの罪も清めていただくことが出来るが、罪にはこういう区分がある。

そう言う区分で見て行くならば、

 

1:7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 

この、イエス様の血が罪から清めるというのは、我々の生まれつき持っている罪から清めるということ。

例えば、人を自然に憎んでしまうとか、復讐したりとか、罪の欲だとか、そういったもの。

しかし、これは、誰でもこういう生まれつきのものがあるが、そういった罪は、神との交わり、

また、キリストとの交わり。祈りの中で、聖められていく。聖書はまさにそう言っている。

「交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

生まれつきのその性格、すぐに人を憎んだり、妬んだり。

祈りを習慣づけたり、神との交わりを持って行く時に、そういった事から徐々に清められていく。

 

1:8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 

段々、世終わりに近づくにつれ、「我々には罪は無い」などというインチキな教えも出て来ると思うが、それは偽りであって、そこに真理は無い。

 

 

1: 9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 

この九節に出て来る「罪」は、複数形の罪。

我々が数えられる罪。  今日であっても、犯す罪。

明らかに罪だと分かる罪。聖霊が語る。

罪を犯したら意固地にならずに、神に「言い表す」こと。

隠したり、神の前に言いわけをしていてはダメ。

聖霊が指摘したなら、そこは告白し、悔い改めていった方が良い。

神の前に意固地にならない事。

聖霊が語った時には、神の前に言い表す。

そうすれば、罪は赦され、清めていただける。

逆に、どこまでも意固地で、聖霊がいくら指摘しても、罪を認めない。

それでは赦されることは出来ない。

人前で意固地になっても、神の前には素直に罪を認めれば清められる。

こう言う事は大事。書いてある事は、行なっていった方が良い。

罪は告白しなければ赦されない。

神の前には謙虚になること。

残念ながら人間は、どんなに気を付けていても、日々何らかの罪を犯してしまう。

その罪は、告白して神に清めていただいた方が良い。

 

1:10もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

「我々に罪は無い」という異端は、これから出て来ると思われる。

同性愛も「性同一性障害」などインチキな言葉が出ている。

これからは色んなインチキなカウンセリングなどが強調され、「罪など存在しない。それはただその人の精神的な弱さにすぎない」などと言って、「罪などと言うのはやめよう」などの教えが出て来る。

それは逸脱しており、神を偽りものとする教え。