Ⅰヨハネの手紙3章1~10 2015.705
3:1私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
我々が神の子となるのは大変な事。
「御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」と書いてある。
大いなる犠牲を払って、私たちが神の子供となるために、神は道を備えて下さり、値を払っていただいた。
具体的には、イエス・キリスト、御自分の御子をさえ捧げて下さって、それを通して我々には
我々の道を備えて下さった。
神の子となるという事を見て行く。
普通、子供となる時に、子どもになるという事を意識しない。
ただ、聖書は、神の子となるという事を言っている。
そして知るべき、覚えておいた方が良いことは、「子供となる」という事を言うが、聖書で言う、我々が神の子となるという時に、「養子」というニュアンスがある。
ローマ
8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
「子としてくださる」という言葉。
これがまさに、「養子」となる意味。 日本語ではなかなかわからない。
ここで言わんとしている事は、我々は今までは、神と関係ないし、神の子でもなかった。
しかし、聖霊を与えられて、神の子となる霊を与えられ、そして、養子の様に神の子として迎えられていったというニュアンスがある。
養子というニュアンスで言っている事は、この様に理解できる。
それは、我々は確かに神を父とするのだけど、生まれつきの血縁の親子みたいに、子供がどんなに悪い事をしても、親子関係が切れないという、そういう類のものではないと聖書は言っている。
この言葉に限らないが、聖書が明らかに言っている我々が神の子となるとか、キリストの花嫁になるとか、これは非常に感謝な事だけども、賢いおとめ、愚かなおとめの様に二種類のものがある。「養子」という言葉を通しても分かるように、「どんな悪い事をしても」親子関係が切れないというようには言っていない、というニュアンスは覚えておくべき。
なぜなら、養子となるというのは、先程のローマ書は、二千年前、初めてパウロによって書かれてきてから、ずっと同じ言葉が使われている。
8:23そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われる事を待ち望んでいます。
この23節の子にしていただく、これもやはり養子という意味。
いままでは、神の養子ではなかったけれども、体が贖われ、神の養子とされるのを待ち望んでいる。 なので、我々が神の子となって行くというのは、場合によっては、我々のクリスチャン生活を通しての一つの、働きとか、仕事とかそんなニュアンスがある。
勘違いをしてしまってはいけない。 ここでは、明らかにそういっている。
「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われる事を待ち望んでいます。」という事はまだなってないという事、言い方を変えると、我々がクリスチャン生活を通し、生涯を通して、神の子となる事を達成していく。
そして、我々が神の子となって行くという時、我々が、子として歩んで行くのが大事。
我々が、クリスチャンを通して、神の子となる事を達成していく時に、どの様な事がもはんになるかというと、やはり、信仰の導き手であり、完成者である、イエス・キリストの歩み。
ヨハネ
8:28イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
いろんな子としての歩みをイエス様はされているが、そのうちの一つ「自分からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」
このような歩み方は、神の子となって行くための模範となって行く、という事を覚えておく。
そういう意味では、子としての、主の歩みに見習って行くという事を覚えておく。
Ⅰヨハネ
3:2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
「今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。」とはどういう事かというと、我々は、今のままでずっといると言うわけではない。逆に後の状態が明らかというのは、我々は、栄光の姿とは、具体的にどんな姿か誰も知らない。
しかし、キリストが現われたなら、我々はキリストと似たものとなる。
ローマ書
8:29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
御子と同じ姿にあらかじめ定められたとは、今の事を言っているわけではない。
何故なら我々は、イエス様は、セム人、アブラハムの子孫で、どちらかと言えば黄色系の人物であるけれども、クリスチャンになった人には白人もいるし、黒人もいるし、金髪の人も色々な人がいるわけだが、皆が同じ姿ではない。
後には今の肉体の事であって、後には、ここに書いてあるように、御子の同じ姿になる事が、あらかじめ定められたというように、御子である、イエス・キリストと同じ姿になると、ここにも書いてある。
何故なら、長子になる。 兄弟が何人もいると、長子とは、長男が何人もいると、大体兄弟は似ている。
これを通して我々が知るべきかと思うのは、今の我々が持っている肉体の姿というのは、一時的なもので売るというのは覚えておく。
今のことだけ言うなら、若い時とか、そんな時は、あっという間に過ぎ去る。
我々は、一時的な旅をしているに過ぎない。
今は、どういう肉体とか、二重瞼とか、色白だったりしても、それらは、過ぎ去って行くものに過ぎない。
今の時代は、テントのようなものにすぎない。
そういう事にあまり力を費やすよりは、我々は、後の世で一時的なテントのようなものよりも
イエス様が言われた、「私は場所を備えに行く」
英語でマンションと書いてある。
我々が後の世に住む所とか、後の世の体の方が、そっちの方が本番。
だから、あまり、今の事に一喜一憂するべきではない。
我々は、ポイントをずれてはいけない。
Ⅰヨハネ
3:3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
聖くない者は天の御国に入れない。
なので、罪から清められ歩んで行きたい。
祈りの中で清められるので、毎日の祈りの習慣は必須。
3:4罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。 3:5キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
3:6だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
キリストに留まるという事を、覚えておく。
我々がキリストに留まるなら、罪を犯さい。
罪を犯してばかりだと、行き着くところは滅び。
我々が、罪をおかさないクリスチャン生活をしていくのは大事。
キリスト留まるというのは、いったいどのようなことか。
やはり、きちんと祈りの時間を持つこと。
弟子に会ってはやはりねきちんと祈りの時間を持つ。
信仰生活、クリスチャン生活というのは、体を使ったものである。
理論とか、口先だけのものではない。
時間を使って祈らない人は、キリストに留まる事は出来ない。
祈りは、体、時間を使う、
3:7子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
正しい事を行なうという事。
3:8罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
残念な事だが、段々と、罪がキリスト教会にはびこって来る。
聖書はその事を予言している。
その最終的な姿が反キリストが出て来るとき。
反キリストは、何故出てるか。
我々の歩みとか、教会の歩みとか、背教と無関係で出て来るわけではない。
教会が背教したその極みとして出て来る。
反キリスト=罪の人とも出ているので、反キリストは明らかに教会のクリスチャンをを惑わして罪に誘う。
しかし、偽善者は分からない。正しい事をしていると思っている。
その罪の一端は同性愛の事に関して。
明らかに聖書を読んでいくならば、例えば、男が女の服を着てはいけない。また、女が男の服を着てもいけない。
今は、どんどん違った事を言っている。
「同性愛の行ないは良くないが、同性愛的傾向は受け入れるべきだ」
どんどんそうやって罪に誘って行く。
それは神から来たものではない。
「罪を犯しいる者は悪魔から出たものです。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」
なので、これからいろいろな、多くのクリスチャンの中でも、同性愛の事を初めとして、キリストの名の内でどんどん罪を犯す人が出て来るが、それは、初めから書いてあるように、悪魔出たものだと書いてある。
キリスト教の中でキリストの名のもとに、聖書の名のもとに、どんどん罪を入れて来る者が
いるが、それは神の子ではなく悪魔のから出た者。これは聖書に予言されたこと。
3:9だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。
3:10そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。
これから教会の中で、神の子と悪魔の子との入り乱れる時代が来る。
その時に我々は、同じクリスチャンなのに、区分できない、しかも聖書をもとにいろいろ言って来るから、その人が、神から来ているのか、悪魔から来ているのかが分からない、
その時に、同じクリスチャンと言っていても、神から出ているかの区分がこの箇所に出ている。「義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。」
義を行なわない。同性愛などをどんどん受け入れてしまう。聖書に逆らって受け入れてしまう、
これは、義を行なわない、神から出たものではない、「ヒンズー教徒にも、仏教徒にも救いがある」、これは神の義を行なっていない。 神から来ていない。
逆にサタンに霊感されてその様に言っている。こうやって区分をして行く。
「兄弟を愛さない者もそうです。」と書いてあるように、キリスト教界で起きて来る一つのトレンドは、兄弟が兄弟を訴えて、死に至らしめる、この事が成就して来る。
どんどんこれからキリスト教会で、訴訟沙汰とか、訴え合うという事が出て来る。
黙示録の中で預言されている。
4頭の馬が出て来る。
そのうち赤い馬が出て来て、「平和を奪い取る事が許された」と書いてあるけれども、
キリスト教会は、今までは兄弟愛の場所だったけれども、教会が、血で血を争うような、お互いに憎しみやら訴訟やら、訴えて死に至らしめるそういう場になると理解出来る。
その時に兄弟を訴えて、死刑にまでさせるというような人は、神から出た人ではない。
その時に、ビックリしてはいけない。かねてから聖書で預言されている事であるから。
これから、残念ながらそういう事が起きる。
少し前からキリスト教界の中で、教会のカルト化という事が言われるようになった。
これは、兄弟が兄弟を訴えるブームの発端だと思われる。
今までキリスト教界でその様な事は無かったが、そういった事を契機に、キリスト教界は苦々しいものになって、人を赦さないものになったり、訴えるという事も、結構教会の中で起きていったりしている。 これは、どんどん発展していくと思われる。 残念ながら背教の教会で起きて来る事なので、とめることは出来ないけれども、ただ、そこに書いてあるような、兄弟が兄弟を訴えるような日が来る。来てもビックリしてはいけない。
ただ、ヨハネが言っているように、教会の中に、どっちの人々もいる。神から出た人々もいる、逆に、悪魔を父とした者もいる。どちらも麦で分からないという時が分からない時が来る。
その時に、我々は、クリスチャンらしい歩みをしていきたい。
レムナントキリスト教会
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