Ⅰヨハネの手紙3章11~24 2015.7.12
3:11互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。
3:12カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。
ヨハネの手紙においては、「兄弟を愛する」とか、その反対に「兄弟を殺す」とか、物騒な事が書いてあるが、聖書は預言的な書なので、これらの事は、世の終わりに実現していく。
聖書自身がそういう日に関して語っている。
マタイ
10:21兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子供たちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
10:22また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後ま耐え忍ぶ者は救われます。
これらも、世の終わりに起きて来る事。
「兄弟は兄弟を死に渡し」という喩えが使われている。
血を分けた兄弟という事もあるだろうが、聖書に書いてある「兄弟姉妹」。
その兄弟姉妹の間で、兄弟が兄弟を訴えたり、死に渡す。
今までは、このような事はあまりキリスト教会では無かった事。
兄弟は「互いに愛し合う」という事が聖書に書いてあるから。
しかし、世の終わりの時の一つの大きな特長は、聖書が暗示し、語ろうとしている事は、「兄弟を訴えたり、死に渡す」という日が来るという事を、聖書は色々な形で暗示している。
なので、この事は心の一端に留めておきたい。
それを語っているのは、例えば黙示録の中で、4頭の馬が出て来る事を語っているが、「赤い馬」の箇所で、「地上から平和を奪い去る、互いに殺し合うようになる」
ここは一見戦争の事を言っているようにも読めるが、喩えの意味合いで、キリスト教会から平和が奪い取られる日が来るという事。
教会から、「互いに愛し合う」事が無くなる。
色々な教団ごとに争ったりする。
ちょっとした教理の事で訴えたり、そういう日が来る。
その兆しは徐々に来つつある。
アメリカは一昔前からそうだが、日本でも少し前から、「教会のカルト化」という事をすごく
問題視している。このムーブメントは、日本人から出たものではなく、外人が持ち込んだもの。
些細な事をあげつらって「カルトだ」と訴えられたりなどが起きている。
しかし、これは発端にすぎず、これからエスカレートして来る。
残念ながら、教会同士で訴え合うのが普通になって行くのではないか。
ヒーロー気取りで他の教会をカルト呼ばわりしているが、それはまさに、こういった時代、「兄弟が兄弟を訴える、死に至らしめる」
こういった事には、主ご自身がふさわしい対応をされる。
こんな時代が来つつある。
Ⅰヨハネ
3:12カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。
カインという言葉の意味合いは、「物を作る」またもう一つの意味合いで、「嘘つき」
彼は邪悪な者で、悪い者から出た。
これは、予表的な人間ではないか。
カインとアベルの争いというのは、イエス様の時に成就しているのではないか。
カインにあたるのは、律法学者、パリサイ人。
カインは自分の捧げものを捧げたが、神に受け入れられないので、怒り、すねてしまった。
弟の捧げものを神は受け入れたので、弟を妬んで殺してしまったけれども、これと似たような事。 律法学者、パリサイ人も、妬んでいる。キリストに対して憎しみを抱いている。
これはカインと同じような感じ。作物を作って捧げたが受け入れられなかった。
律法学者、パリサイ人も、ある意味では土を耕す者であり、カインもそうだった。
同じように、律法学者、パリサイ人も、土を耕す(牧会など)、田畑を耕したり、御言葉の種を蒔いたりしていたが、認められないので腹を立てた。
同じような事柄が、再度、おそらく世の終わりに再現するのではないか。
それが、兄弟が兄弟を訴えるような日。 その時に、はっきりする事は、悪いのは人殺しの方だという事。
殺される方は、アベルがそうだったように、「正しい」という事。
この世的には、場合によっては、訴えて死刑にした方が法律に基づいて「正しい」と言うが、
しかし神の前にはそうではない。こういうパターンは覚えておく。
「彼(カイン)は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。」
我々は、この世的な標準で物事を見るのではなく、場合によっては訴えられるかも知れないが、
それであっても、我々の勝負は、この世の肉体、この世の評判ではない。
一喜一憂しない事。 イエス・キリストでさえ、訴えられ、悪者扱いされて、命を失ったので、
正しく主の御心を行なって行きたい。
3:13兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
「この世」に憎まれる、と言う言葉。
こういった事柄がある。 「世に憎まれる」という事。
カルトだとか、悪い者のように言われてしまう。
ただ、ここに書いてあるように、「世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」
そういう日が来る。アメリカではすでに来ている。*角笛HP参照
あちらこちらでクリスチャンが逮捕されている。
逮捕事由が講演で祈っていたから、道路でトラクトを配っていたから、路傍伝道をしていたから、など。
これはまさに、「世があなたがたを憎んでも」という状態。
アメリカではこの世の法律が、正しいキリスト教に対して牙をむいている。
クリスチャンに対して、非常に憎しみに満ちているので、正しいクリスチャンはすぐ逮捕される。道路でクリスチャンが祈れば逮捕されるが、イスラム教徒が祈っていても何のお咎めも無し。
「世があなたがたを憎む」という時代が、今アメリカで来つつある。
アメリカのトレンドはいずれ日本にもやってくる。
この事は覚えておくべき。 他人事と思っていてはいけない。
世が我々を憎む事に関して、主がこう言われている。
ヨハネの福音書
15:18もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
15:19もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
15:20しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
15:21しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
ここに書いてあるように、何でこの世が我々を憎むかというと、我々クリスチャンはこの世の者ではないから。
逆に、世から選び出されてしまったので、世に憎まれる。
我々はこの世の者ではなく、この世と一緒に滅びる者でもない。
この世はいずれ滅びるが、これらの事を覚えておく。
この世においては困難があるが、他のみ言葉にもあるように、「わたしの名のゆえに、人々があなたがたを迫害する時、あなたがたは喜びなさい。喜び踊りなさい。」と書いてあるように、
キリストの名のゆえに迫害されるという事は、天において我々の受ける報いは大きい。
そういう意味では、我々は、キリストの名のゆえに辱められると言うのは、考えてみると早々得られる祝福ではない。他の箇所では、「キリストの名のゆえに辱められるにふさわしいものにされた事を喜んだ。」とある。
滅多にキリストの名のゆえに迫害されないという事。
それにふさわしい人でなければ受けられない。
もし、そうなればしめたもの。 天において受ける祝福は大きいから。
Ⅰヨハネ
3:14私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
我々が、兄弟姉妹をを愛するようになったら、我々は、死からいのちへ移ったという事。
そうでなければ、死の内に留まっている。
3:15兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
なので、兄弟を憎む者は、聖書的な視点で言うなら、「人殺し」であると書いてある事には目を留めておくべき。
「人殺し」に永遠のいのちがとどまっていることはない。
兄弟姉妹を憎むとか、それを実行していると、永遠のいのちが危なくなってしまう。
黙示録
9:20これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
9:21その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。
これらは喩えを用いて、クリスチャンの罪に着いて語っている。
21節には、「殺人・・・・を悔い改めなかった」と書いてある。
これはまさに兄弟を憎む、という「殺人」
聖書の言葉はどんなような、何気ない部分も無視してはならない。
何故なら、そのまま罪に適用されてしまう。
20節で「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像」
これは器の事を言っている。金というのは金の器を持った信仰 例:ベニーヒン
悪霊どもとは、例えばペンテコステ派などが「聖霊の第三の波」と称するもの。
なのでこれらはキリスト教会で行われている事柄。
その殺人や、魔術や、不品行。
魔術というのは、「ヤベツの祈り」など。
不品行や、盗みは、御言葉を盗んで、艱難前携挙を説いたりする事。
これらは、クリスチャンの罪。 真剣に考えて行きたい。
Ⅰヨハネ
3:16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
3:17世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
3:18子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
我々は、言葉だけではなく、実際の身をもって人を助けるという事。
こう言う面では、カトリックの奉仕というのは、確かに尊敬する。
我々も大いに見習うべき点はある。
「兄弟のために命を捨てる」とまで書いてあるので、少しでも、我々の兄弟姉妹の益となる事をして行きたい。
3:19それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
3:20たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
3:21愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
3:22また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
感謝な事は、神に祈って、祈りが聞かれるという事。
しかし、どんなクリスチャンでも祈りが聞かれるとは書いていない。
「なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」
我々が、神様の命令を行ない守り、喜ばれる事を行なっている時に、我々は祈るとき、どのような祈りも聞かれて、神の祝福を見るというパターンは覚えておきたい。
クリスチャンは、確かに祈りが聞かれる。 例:ジョージ・ミュラーなど
我々も、主の言われた事を守る。「兄弟を愛する」とか。
神に喜ばれる事を行なう。
レムナントにおいても、少しずつ祈りが聞かれている。
大きな願いも聞かれる。
3:22また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
レムナントにおいては、ホームページに対する妨害に対応することが出来た。
主の御言葉を行なって行けば、どのような祈りも聞かれるようになって来る。
3:23神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
ここでも「愛し合う」事が言われている。
3:24神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。
神の命令を守る者は、神のうちにいるという事。
神もその人の内におられる。
御言葉を守り、行なうような歩みをするクリスチャンの中に神がおられ、我々は神にある歩みを続けて行く事が出来る。
しかし、神のみ言葉を何も守らずにいると、ずれた歩みに入ってしまう。
どの様な御言葉も守っていきたい。
レムナントキリスト教会
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