Ⅰヨハネの手紙4章1~10 2015.7.19
4:1愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
我々は、聖書が語っている事によるならば、クリスチャン、教会にとって大事な事は二つ。
聖餐式が、パンと葡萄酒から出来ているように、パン、御言葉と、葡萄酒すなわち霊的な事柄。
「教会であるから、聖霊が働いているのは当然だ。」と思うかもしれないが、しかし、ここでヨハネが言っているように、「霊だからといって、みな信じてはいけません。」
なので、言わんとしている事は、教会だからと言って、キリスト教会の集会だからと言って、そこで下される霊を何でもかんでも受けてはいけないという事。
そのようにヨハネは語っている。なので、我々は、特に終末の時代は、この言葉が大事な時代になって来るので、我々は、心しなければいけない事は、一つは、どんな教理でも、どんな教えでも、みんな受け入れれば良いというものではないという事。
インチキな教えが、いわゆる正統派の教会の中でも語られるし、立派な器とか、有名な器を通しても、艱難前携挙などの、非聖書的な教理が語られる時代。
もう一つは、「霊」、下される霊に関しても、用いられる霊に関しても、本当に、それらの霊が皆、神からの者とは限らないと言われている事を、理解しておく。
ベニーヒン、ピーターワグナーなど、おかしな器はキリスト教界に多くいるので、どんな霊でもそのまま吟味無しに受け入れるというのは非常に危険。
「霊をためしなさい」とは、「試験をしなさい」という意味。
例えば会社でも、試験をする。学校でも試験をする。
試験をしないと、その人がどれだけ常識を知っているかとかが分からない。
試験をして、本当にそれが神からのものなのか、問題なければその霊を受け入れる。
そういうパターンが正しい。そのように書かれている。
例外は無い。
どんなに「正統的」な教団だとか、どんなに有名で大きな教団であろうが、または、世界のクリスチャンの半分が属しているカトリックなど、その様な事は関係なしに、それがどんな霊か、神から来たものかどうかを試すことが聖書的。
そうでないと、「霊による害」というのは結構なものがあるし、場合によっては永遠のいのちを損ねる事も大いにある。
ただ、試験をすれば、本物かどうかが分かる。
吟味する方法は、申命記にあるように、来た預言が、神からのものかどうか分からない場合は、
その預言者の言った事が実現すれば、それは神からのものであるが、実現しなければ、神からのものではない。 それがどんなに深い預言であっても。
霊を吟味すること。
「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」
今は怪しい器が非常に多い。
ペンテコステ系の人達は「素晴らしい時代」と言って信じているが、事実は違う。
今こそ吟味する時。
つまり「試験」をする。
御言葉と違う事を言っていたり、全く預言が成就しなかったり、災いの中に入って行ったりするのは、聖霊ではない別の霊が語っていたりする。
「霊」は我々を動かす。我々に語り掛け、啓示を与えたり、歩みを与えたり、信仰生活にかかわって来る。
しかし、その霊が本当に神からのものか、正しく吟味し、見分けていく。
4:2人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
神からの霊は、人となって来たイエス・キリストを告白する。
4:3イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。
反キリストの霊。
レムナントは今、「角笛」のホームページでしきりに語っているように、今はまさに、近未来で、反キリストが起きるか、という時代なので、この言葉は非常に大事。
ヨハネの手紙の中には反キリストの事がよく出て来る。
反キリストの一つの特長は、「イエスを告白しない」ということ。
新改訳の方では、はっきり書いていないが、KJVでは、「肉体を持って来られたイエスを告白しない霊は反キリストの霊」と書いてある。ここは非常に大事。
反キリストの主な大きな特徴。
躍起となって反キリストが行なう事。それは、「イエス・キリストは、聖書に書かれたナザレのイエスは、キリストでも何でもない。ただの普通の人だった。十字架にかかって復活した事など科学的にありえないし、それはただの物語を福音書に書いただけにすぎない。ナザレのイエスと言う人は、結婚して子供も出来ていたし、その子孫もいる。」
今すでに、ダビンチコードにはそう書いてあるし、この教えが、どんどん広まって行くようになる。 これは、「肉体を持って来た神、キリストとして肉体をもって来られた」事を告白しない霊。そこが反キリストの大きな特徴。
残念ながら、世の終わりには、それがどんどん大きく広がって行く。
そして、「キリストの名のゆえに、あなたがたはすべての人に憎まれる」という時まで来る。
「歴史的なインチキを行なったイエスをしつこく信じて、原理主義的な事を行なって害を及ぼすクリスチャン」というような言い方をされる。 そういう時代が必ず来る。
反キリストの所以は「イエスを告白しない、否定する」
霊的なムーブメントとしては、今も大いにキリスト教界に広がって行っている。
イエス・キリストを信じる事が我々の最重要ポイントなので、動かされてしまわないように!
なぜこういった事が、前もって聖書に書かれているかというと、ヨハネの福音書に、「わたしが前もってこういう事を言うのは、あなたがたが躓く事の無いためである」
最後の晩餐の時に、主が言われた言葉。
これから逮捕され、有罪とされ、死刑にされてしまう。
普通、弟子たちとしては、びっくりするような事。
しかし、前もって主がその様に言われたので、ある意味、弟子たちにとって想定内の事だった。
イスカリオテのユダを別として、11弟子は、ゲッセマネにおいてイエス・キリストが逮捕されたからといって、皆信仰を捨ててしまったというわけではない。
なので前もって語られるという事は、つまり知っているというのは大事な事。
キリストの逮捕、十字架につけられる・・・衝撃的な事だけれども、前もって、主が語られたという事を通して、実は、神のご計画の一端なのだと彼らは理解した。
多くのクリスチャンにとって、思いもかけない事が、キリスト教界に起きて来る。
「福音書など物語にすぎない」というのが世界の常識の様になっていく。
福音を正しく信じている人が、カルト扱いされる時が来る。
その時、多くの「何も知らない」クリスチャンは、世のトレンドにさとい人ほど、速やかに信仰を捨てて行ってしまうかも知れない。
しかし、前もって主は語られた。
それでもとどまることが出来るか、試される時が来る。
我々はすでに「語られて」いるので「想定内」の事が起きて来る。
びっくりして、ひっくり返ってしまってはいけない。
前もって書かれている事なので、躓いてしまう必要はない。
4:4子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
4:5彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。
「あの者よりも力がある」というように、これから一つのトレンドとして、キリスト教会の中に、この世の論理とか、この世の考え方とか、この世の常識とか、方法が、大いに用いられてくる。
そういった人たちは、この世から受けが良くなる。
逆に、聖書に忠実な人達は、この世に受けないし、カルト扱いされる。
黙示録の中には、終末の背教の教会に関しては「ソドムやエジプトと言われる都」と書いてある。 ソドムは同性愛と関係があるが、エジプトはこの世と関係がある。
この世の論理が教会の奥にまで入ってしまっている、それが、「ソドムやエジプトと言われる都」すなわち教会。
そういう時が来る。
その時に教会の中で、この世の論理に迎合したクリスチャンが多いに出て来て、そういう人たちの声というのは、この世の人にも大いに受け入れられるようになる。
具体的に言うならば、例えば、ローマ法王。「宗教間の憎しみを持ってはいけない、互いに愛を持って、互いに受け入れ合いましょう。」これは、新聞やテレビでニュースになる。
しかし、純粋な聖書的なものは、マスコミは相手にしない。
「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。」
なので「宗教間の平和を目指していく」だとか、この世受けする。
この世の人は、ローマ法王のいう事を理解する。
同じキリスト教の範囲でも、「彼らはこの世の者です。」という類の人々がいる。
「ですから、この世のことばを語るんだ」 まさに、ローマ法王もマザーテレサもこの世の言葉を語っている。だから、この世の人々は理解する。「素晴らしいローマ法王様のお言葉」
この世もまた、彼らの言う事に耳を傾ける。
正しい信仰に立った人の声には耳を傾けない。
サタンはきちんと見分けている。この世についたクリスチャン。そうでないクリスチャン。
4:6私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。
一方、この世についたクリスチャンもいるが、神から出たクリスチャンもいる。
その場合ははっきりしている。
神から出た者は、「我々の言うことに耳を傾ける」。
そうでない人は耳を傾けない。
レムナントをやっていて、両極端の反応を受ける。
「角笛ニュースレター」に対してもそうであるし、「角笛ホームページ」を書いた時にも両極端の反応を受ける。
本当に神から出た人というのは、見事に理解する。
最近、角笛のホームページに警告の文章を載せている。
主に示されているので、いくつかの警告をアップしているが、あるメールが来た。
「公の教会が、背教の教会になった時に、どうしたら良いか。」
分かる人には分かる。
「神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾ける」という事。
「神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。」
そういう意味ではっきり言うと、「角笛ニュースレター」を色々な教会に発送しているが、怒って電話をかけて来る人もいる。「こんな物二度と送って来るな」
逆に歓迎して献金まで送って下さる方もいる。
両極端だが、ヨハネは辛辣な事を言っている。
「神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」
これで、そのクリスチャンが、本当に真理の霊に従っているのか、偽りの霊に惑わされたクリスチャンなのかが分かる、と言っている。
本当にレムナントの「角笛」などの警告が神からのものであるなら、二つの反応、両極端の反応が出るのは仕方がない。
両極端の反応。「私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」
真理の霊に従っている人は、今まで聞いた事が無いが、ここに真理があるという事で、理解する。
ヨハネは言っている。
この両極端の反応を通して、そのクリスチャンまたは牧師が、どういう霊に導かれているかが明確になると。
残念ながら、教会に通っているのだけれども、場合によっては聖書のメッセージをしたり牧師だったりするのだけれども、偽りの霊に導かれてしまっている人がいる。
「艱難前携挙が正しい」と思い込んだり、「神は愛だから我々を艱難に遭わせるはずがない。」
など、これらは偽りの霊。
だから、「艱難後携挙」や「教会が背教して反キリストを拝むようになる」などの教えは、彼らにとっては話にならない。 偽りの霊に導かれているから彼らは理解しない。
否定的な反応があったからと言って、気落ちする必要は無い。
まさに我々はこのみ言葉を実践している。身をもって体験している。
4:7愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛は神から出ている。
やはり、隣人を愛したり、神を愛する愛は、神から出ている。
4:8愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
クリスチャンでも、全然愛が無かったり、人を裁きやすかったり、それは神を分かっていない可能性がある。 何故なら神は愛だから。
4:9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
なので、神の愛というのは、我々が罪を犯し、罪の結果、第二の死(火の池)に行かなければならなくなったが、神は、我々を愛しておられるが故に、我々が火の池に投げ込まれないように、罪の赦しのために、イエス・キリストを遣わしたという事。
至れり尽くせりの道がある。
しかし、あろうことか、イエス・キリストが初降臨した時のユダヤ人は、救いの君を捕まえて、十字架で命を奪ってしまった。 その結果、永遠のいのちを得るどころか、滅びを受けてしまった。
今のクリスチャンも、そうなる可能性がある。 それは、イエスキリストは聖霊の型だから。今のクリスチャンも、自分の考えに従って、聖霊に聞き従わないために、滅びに入って行く可能性があるけれども、我々にあってはそうであってはいけない。
神は、我々を愛しておられ、我々のために、御自分のひとり子をその命を失わせてまでも、我々の罪が赦され、決して火の池に入ることの無いように、道を開いて下さり、誰でも信じる者には、救いの道を用意して下さったので、決して惑わしの霊に惑わされて、イエス・キリストを否定してしまったり、「キリストの復活は無かった」と言ったり(これからこういうクリスチャンが増えて来る)そういった惑わしに入る事が無いように気を付けて行きたい。
レムナントキリスト教会
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