Ⅰヨハネ5:1~10 2015.8.2
5:1イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
神から生まれるという事が書いてある。
キリストを信じる者は、誰でも神によって生まれた。
新生。誰でも新しく生まれなければ神の国に入ることは出来ない。
この、「新生」がまさにクリスチャンになる事。
クリスチャンになる事がまさに永遠のいのちにつながるが、クリスチャンになること自体のハードルは非常に低い。
「イエスがキリスト」と信じればこれでクリスチャンになる。
我々は一つは、ある意味では、神様が、我々が神の国に入るため、神の子となるために、物凄く高いハードルはもうけていない。
しかし、受け入れない人は受け入れないし、信じない人は信じない。
そういう意味では、神は公平に門を開いて下さっているけれども、ある人は受け入れ、ある人は受け入れない、そういう事柄が書いてある。
未信者がクリスチャンになるハードルは非常に低い。
もう一つ知っておきたいことは、「神から生まれる」という事柄。
「神によって生まれたのです」と書いてある。「生まれる」という表現を通して説明した方がいいという、そういった変化が、クリスチャンになった時に現れて来る。
何を言っているかというと、クリスチャンになると、確かに、神から生まれたとしか思えないような、性質が、徐々に徐々に出て来る。
犬の子は、犬から生まれたら、自然に犬として育っていくし、猫もしかり。
バケツの中に稲の種を植えこむと、稲が生えて来る。しかし、稲だけが生えるのではなく、雑草も生えて来る。初めは見分けがつかなくても、段々分かって来る。
稲は、稲らしく育っていく。
稲の種を蒔くならば、当然ながら稲が生えて来て、小粒ながら米が出て来る。
問題は、誰から生まれるか、稲の子として生まれるか、雑草の子として生まれるか。
言わんとしている事は、神の子として生まれるというのは本当の事なので、我々が神の子として生まれる時に、本当に神の子としての性質が普通に育って行けば、性質が出て来る。
この事は疑う必要は無い。
そういう意味では、我々は自然に、神の子として生まれた時には、神の子として育っていく。
エレミヤ牧師は、高校生くらいの時にクリスチャンになった。
高校一年の時に、イエス・キリストを信じるようになった。
そうしたら、それまでには無かった、性格、性質、思いが段々と内側に現われるようになり、変わって行った。
いくつかあるが、特に印象的なのは、当時、高校の柔道部に入り、柔道に力を入れていた。
クリスチャンになった後、色々な事に変化が起きたが、自分のやっているクラブに関しても、思いの中で変化が起きた。
格闘技というのは、一面、相手を倒すとか、相手をやっつけるとか、そういう気持ちにならなければ出来ないところがある。
ところが、クリスチャンになって、「相手を倒す」「力をつける」という事に、関心がなくなってきた。つまり闘争心が薄れて来た。
逆に、相手を倒すような気持ちとかが、段々なくなって来て、クラブから足が遠のいてきた。
そして、柔道をやめた。
優しい気持ち、思いやる気持ちが強くなり、「我こそは」という気持ちが薄れて来た。
自分でもびっくりする様なことだった。
生まれるというのは、本当に「生まれる」
だから自然に、稲が稲の形に育って行く様に、我々も、普通にやって行けば、やはり神の性質を持って行く。
「普通にやっていく」というのは、祈ったり、御言葉を読んだりという事。
そうしないと成長しない。
我々が、正常な成長をして行くならば、正常に神の性質を持って行く。
どんどん神に近い者になって行く。あまり意識しなくても普通に、神の性質を帯びて来る。
逆にそれを勘違いして、人間的な努力をして行くのは違う事。
神に信頼して我々は、神がその様に産んで下さったので、我々が普通に成長して神の性質を持って行くのだという事柄は、よく理解していきたい。
5:2私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
我々が兄弟姉妹として、愛し合うという事。
5:3神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
この事は、覚えておくべき。
我々は、「主よ、あなたを愛します。」という事がある。 言葉も大事だが、本当に大事なのは、神の命令を守るという事。 口と裏腹であってはいけない。
主の御言葉を守る事に力を入れて行きたい。困難な時もあるが、それでも主の命令を守って行く事が愛に留まる事。
色々と不信仰になる事がある。信仰が試される事もある。
常に喜ぶ事、絶えず祈る事、全ての事に感謝する事、 しかし、感謝が出来ない事もある。
そういう時でも、信じ続けていく時、それが、神の命令を守る事であって、それがそのまま神を愛することにつながる。
我々は、御言葉を守りづらい環境に多いに置かれる事もあるが、主の恵みによって、御言葉を
守る事を続けて行きたい。それが、他ならず、神を愛することに通じる。
神を愛するという事は、具体的に、神の言葉を守る事。
「力をつくし、心をつくし、精神をつくし、思いを尽くしてあなたの主である神を愛せよ」と言った時、要は「御言葉を守れ」という事。
5:4なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
神によって生まれたものは(我々は神によって生まれた者)、世に勝つ。
5:5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
ここでは、「世に勝つ」という概念がある。
なので、我々は、この事柄を守らなければならない。
「罪に勝つ」「サタンに勝つ」という事もあるかも知れないが、「世に勝つ」という事が書いてあるので、「世に勝つ」という事を学ばなければならない。
聖書を読んでわかる事は、我々がこの世についたり、この世の者になってしまったり、この世に負けてしまう時に、それは、ある意味では悪い者の下に入ってしまったり、場合によっては永遠のいのちが危ないという事柄があるという事を覚えておく。
世に関しては、
5:19私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
この世全体。新聞もテレビも政治も学校も含めて、悪い者の支配下にある。
だから、我々が、この世の常識に従い、この世の考え方に従い、この世の方法に従って歩んで行くなら、悪い者の支配下に入り、滅びる可能性がある。
なので、大事なポイントにおいては、我々は、世に勝って行かなければならない。
最も顕著な例は、アメリカ。
アメリカでは世とか政府がどんどん悪くなって、路傍伝道してトラクトを配っているだけで逮捕されたりする。また、クリスチャンのケーキ屋が、同性愛の人の為にケーキを焼かないからと言って、文句を言われ、つぶれてしまった店もある。
そんな時に我々が、そういった世の圧迫や方法に負けてしまい、それに従って行くのは間違い。
困難な状況に勝って行くというのが大事。
世に関しては、
2:15世も、世にあるものをも愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに、御父を愛する愛はありません。
2:16すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
2:17世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
「世も、世にあるものをも愛してはなりません。」
具体的に言うと、ここにあるように、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」
肉の欲・・・エバで言うなら、「食べるのにふさわしい」すなわち肉体に関する事。
そちらを優先し、礼拝に行かないというのはまずい事。
あと、目の欲、暮らし向きの自慢。
こういった事柄がみな、世の事なので、これに関して、これらに勝つ者はイエス・キリストを神の子と信じる者が、そうなのだという事。
また、神から生まれた者は、世に勝って行く。
なので、我々は、世に勝って行くという事を覚えておく。
逆に負けると場合によっては、永遠のいのちが危ない可能性がある。
世に勝つ者は、イエス様をキリストだと信じる者だが、世に勝った模範はやはりイエス様。
暮らし向きの自慢、要するに自分のプライド。しかし、主は、本当に過酷な所を通られた。
イエス様は途中までは、カリスマ的な人気者であった。エルサレム入場の時には、「ダビデの子にホサナ」と、熱狂的に迎え入れられた。
しかし主は、それで迎合はしなかった。 そして、律法学者、パリサイ人に対し、「蛇よ、まむしの末よ」と言って怒らせた。そうしたら、どんどん評判が変わって来て、最後には、「ペテン師だ。」という事になり、裁判で死刑と言われ、「十字架につけろ」と言われた。
イエス様はまっすぐ行かれた。
この事に教えられる。
自分の評判の良し悪しは、肉的な事に通じる。それに動じないで、最後は最悪の評判となった。
犯罪者として死刑にまでなってしまった。
この世の評判とかこの世が決める価値が、全く変わってしまった。
一時的には評判が良くても、最悪にまで落ちた。
それに対しても、主は勝って行かれた。 だから、永遠のいのちに至った。
そういう意味合いでは、我々は、この世の評判、価値観は変わって行く可能性があるが、主について行きたい。
5:6このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
イエス・キリストは、どの様にしてこの世に来られたか。
「水と血」によって来られたとある。
「水と血」は何かというと、聖霊の喩え。
この節の後半では「御霊」とはっきり書かれている。
言わんとしている事は、我々は、イエス・キリストが世に来て、我々がイエス・キリストを受け入れるとか、イエス・キリストがこの世で助けるという時に、それは御霊の事を言っている。
イエス・キリストは、聖霊として来られたとまさに言っている。
我々は、主が、聖霊として来られたという事をよくよく心に留めておく。
イエス・キリストが福音書でなされた事、助け主としてなされた事というのは、もう一人の助け主である聖霊の喩え。
だからイエス・キリストが肉体を持って来られた時に、生まれつきの盲人の目を開けた。
2000年ほど前に来られて、3年半ほどおられ、しかもユダヤ、エルサレムにいたイエス・キリストは、今、現実に肉体を持って目の前にいて我々を助けて下さるわけではない。
我々は、聖霊として来られたイエス・キリストに目を留め、そして聖霊は、我々が生まれつき盲目であっても、その目を開けて下さる。
この事に目を留めて行きたい。
我々が奉仕をしていく時に、主に、生まれつきの盲人の目を開いて下さったように、我々も、
奉仕をしていく時に、主が何とか目を開いて下さるように、また、必要な事を教えて下さるように、祈る。
我々は未信者向けの奉仕はやった事が無かったので、祈った。
何をどの様に書き、どの様に知らせて行くか、見当もつかなかった。
とりあえず教えられたのは「角笛ニュースレター」のように、ある程度の記事にして、毎月出していくというのが、アイデアとして分かった。
何を書いたら良いか、全然分からなかった。しかし主が語って下さるうちに、いくつかのことを教えて下さったが、やはり聖書自体に関して、未信者の方は、昔話、おとぎ話の様に思ってる人がいるかも知れないので、これが本当に神の言葉であり、信頼に足るものだという事をどの様に語ったらよいか、祈っていた時に、「聖書の預言は成就する」という事を語って行ったら良いのではないかと示された。
それを2、3書いていった。 その時に書いたことは、特に誰からも反応をもらわなかったが、
この間、どなたかお会いした時に、良い返事をいただいた。
聖書の預言の成就に関してびっくりされたようだった。
未信者であるが、聖書に対する真剣さが増していったという事。
それはまさに、エレミヤ牧師が祈っていたことだった。
何も分からず、どの様に語ったらよいか、祈っていた時に、「預言」の事を用いよと示された
事が、本当であった。
生まれつきの盲人の目を開いたのは、肉体を持っているイエス・キリスト。
しかし、イエス・キリストの霊が、聖霊として、我々の間に宿られた事は、明確に知らなければならない。何故なら、キリストが水と血によって来たとは、聖霊の事を言っている。
聖霊として来られたと言っている。だから、今我々が、目に見えないけれども、そういう方がおられるという事を信じて行かないならば、我々は、かつてキリストの初降臨の時に、キリストを通して助け主として受けた恵みを受けた人達と、同じ恵みを受ける事が出来ない。
しかし、信じて求める人には、答えて下さる。 助けを与えて下さる。
ヨハネが「水と血に」と言った時に、これは肉体を持って来られたイエス・キリストというよりは、聖霊として来られた方に焦点を当てよと言っている。
この事に目を留める時、我々は、今の時代に実際に助けて下さる聖霊として来られたイエス・キリストに目を留める。
それが尊いのであり、実際にもう一人の助け主として助けて下さるという事柄を見て行く。
5:7あかしするものが三つあります。
7節は、新改訳では、手抜き状態。書いてない事がたくさんある。
KJVではこう書いてある。
「天において、証する者が三つあります。父と言葉と聖霊です。」と書いてある。
この言葉に沿って見て行きたい。
証する者とは何か、これは証言。 何を証言しているのかと言うと、「イエスこそ、神の子であり、キリストであると証言している」ものが三つあると言っている。
旧約聖書を見ていく時に、「二人または三人の証人」
二人または三人の証人によって、証言された証言は正しいという事。
一人ではダメ。
三人共にイエス・キリストこそ神の子であるという事を証言、証するという意味合い。
父なる神が、イエス・キリストこそ神の子であると証言したことは、聖書の中に出て来る。
変貌山において、声が聞こえた。
ペテロが、モーセとエリヤとイエス様が3人で、変貌山で会った時に、天から声が聞こえた。
「これはわたしの愛する子、これに聞け」と書いてある。
イエス・キリストこそ神の子であるという事を父なる神が証言している。
「言葉」とは聖書の言葉。
色んな御言葉が、ナザレのイエスこそ真の救い主である事を証している。
聖霊も証しておられる。それぞれのクリスチャンの内におられる聖霊も証しておられる。
イエス・キリストにこそ救いがある。
聖霊は確かに証しておられる。
この様に、イエス・キリストこそ真の救い主であり、ここに救いがあるという事を、ヨハネの手紙の中で、繰り返し繰り返し、繰り返し語られている。
理解しておかなければいけない事は、これから教会が背教に向かって行く中で、必ずこのポイントが問題になって来る。
1番の攻撃のポイントは、「ナザレのイエスは実は復活もしていないし、聖書に預言されたキリストではない」
そして、多くのクリスチャンは背教のゆえに、正しい教えから手を離すようになる。
この世の色んな論理でグラつかされ、ひっくり返されるクリスチャンが大勢出て来る。
なのでこの事は聖書の中で、特にヨハネの手紙の中で、繰り返し強調されている。
ヨハネの手紙の一つの特長は、「反キリスト」
それと共にイエス様がキリストであるという事をこんなに主張しているという事は、明らかに
反キリストの働きの一つは、「イエスはキリストではない」という事を強調して来る。
ここは絶対にひっくり返されてはいけない。
「イエス・キリストこそ唯一の救い主であり、この方に救いがある」という事に徹して行った人たちは、栄光を見る。また、助けを見る。
あらゆる異端、あらゆる惑わしの教えというのは、イエス様に頼らせないという方向に行く。
「この人(イエスキリスト)は救い主ではない」と、別のものを強調して来る。
いい例が、カトリックのマリア。
ものみの塔も、「イエス・キリストは神ではなく天使だ」と言っている。
我々にイエス・キリストに頼らせないという敵の思惑がある。
なので我々はますますイエス・キリストに頼るという事にポイントがあるという事はよく覚えておく。
クリスチャンでもその所をひっくり返され、違うものを掴んでしまうことがある。
聖書が繰り返し強調しているように、証するものが三つある。
父も言葉も聖霊も、この方に救いがあり、この方に真の助け主である事を証しておられるので、
我々はこの方に頼って行き、この方を通して、恵みを受けていくのが正しい。
例えそれが器であっても、間違えてしまう時には真の恵みには入れない。
5:8御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
KJVでは、「地において証するものが三つあります。御霊と水と血です」と書いてある。
5:9もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
何を言っているかというと、我々でさえ人間の証とか証言は受け入れる。
まして神がその様に証言しているイエス・キリストこそ、ナザレのイエスこそ、キリストである、この方こそ、神の子であると、神ご自身が証しておられるので、その証言は本物だという事を言っている。
5:10神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
「キリスト・イエス」を信じないとか、イエスがキリストであるという事を信じないのは、かなりおそれ多い事。
神を偽り者として、「あなたの証言は嘘だ」とか、「あなたの言っている事は信用ならない」とか言っている事に通じる事。
これからどんどん反キリストがそういう事を進めて行くが、前もって御言葉は語っている。
「イエスはキリストではない」と軽々しく言うが、それはとんでもない事。
それは、神を偽り者として、嘘つきと定めている事だから。
「イエスがキリストである」という事に関して、ヨハネは大いに力を入れている。
この事が、世の終わりに大きな焦点になって来る。
レムナントキリスト教会
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