Ⅰヨハネの手紙5章7~21 2015.8.9
5:7あかしするものが三つあります。
日本語の聖書と、KJVでは大きく違う。
KJV・・・天においてあかしするものが三つあります。
KJV・・・父と言葉と聖霊です。これらの三つは一つです。
ここで、「あかしするものが三つ」とか、あかしに関して書いてある。
あかし、証人、証言という言葉がよく聖書の中に出て来る。
この言葉は、よく覚えておく。
我々が聖書を読んでいて知らなければならない事は、我々のクリスチャン生涯の中で、非常に大事な事が、へブル書の中に書いてある。
「人には一度死ぬ事と、死んだ後に裁きを受ける事が定まっている」
「死んだ後に裁きを受ける事」に関連した言葉が結構出て来る。
あかし、証人、証言という言葉は、裁判用語。
裁き、つまり、裁判に遭遇するという事。
この事は、我々の歩みの中で、聖書の中に度々出て来るので、ある程度の事は知らねばならない。
裁判というのは、裁判官がいて、我々は法廷に立つ。
我々は、被告になる。
どんなに正しい人でも、罪状を言われてしまう。
訴える者が出て来る。 その時に、裁判において、我々の大事な助けがある。
例えば交通事故などで、よく道に看板が置いてある。「平成何年の何月何日において、発生した・・・この事故を目撃した人は届け出て下さい」
要は証人、証言が必要。
「あかしするもの」とは証人の事。
「人には一度死ぬ事と、死んだ後に裁きを受ける事が定まっている」様に裁判を受ける時に、あかしする者、つまり証人が3人いるという事。
それぞれの歩みを、証言してくれる人がいる。 我々がその前に立った時に、我々の正しさだとか、云々という事を、あかしして下さる方が、父なる神であり、また、御言葉であり、我々の内側にある聖霊であるということ、その事を語っている。
「これらの三つは一つです。」
これには意味がある。
旧約聖書には、証言者に関して、よく出て来る。
「二人または三人の証言」 三人いると有効。
一人だけの証言では有効ではない。 意図的に悪い証言をする者がいるから。
我々が、裁判に遭った時に、我々の証言をして下さり、我々の義を認めて下さる証人になって
いただける。
父なる神も、それぞれ皆の歩みを義として見ておられ、また御言葉も、「義」として証言して下さり、聖霊も証言して下さる。
我々が裁判に立った時、力強い証人が必要になってくる。
その証人こそ、この三つ。
5:8御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
日本語の聖書はここも抜けている部分がある。
KJV・・・地において、あかしする者が三つあります。霊と水と血です。これらの三つは、一つに同意しています。
ここでも同じ事が言われている。
一つは、天において。8節では、「地」において。
天地は教会の喩え。
だから、教会においてあかしするものが三つ。 教会における我々クリスチャンを、あかしして証人となって下さる。
裁判においては、三人いれば全く有効。
我々が裁判の座に着いた時に、この三つの証言は有効。
そして、「霊と水と血です。」
霊は聖霊の事、別の表現では「水」またの表現では「血」
御霊を通して、これは、聖書的には三つと言っている。なので、「二人または三人の証言」
何故わざわざ三つと書いてあるか。
聖霊を「霊」「水」「血」と表現しているのか、それは裁判に関連して言っている。
それぞれの人に有効。
しかも、「これらの三つは、一つに同意しています。」
何を言っているのかというと、三人がバラバラに言っているのではないという事。
裁判を前提に語られている。
日本語訳は不親切。
なので、我々は、対策ではないけれども、やはりどんな人でも、必ず死後に神の裁きにおいて、
それを念頭に置いてクリスチャン生活を送れという事が、聖書を読んでいるとひしひしと伝わって来る。あちらでもこちらでも。
大事なのは、人の証言よりも、神の証言。なので我々はクリスチャン生活において、聖霊に従って行くということ。
5:9もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
人間のあかしは、証言。 しかし神のあかし、証言は万全。
しかし、あくまで聖霊に従っていればの話。 逆らうのは良くない。
アメリカにおいて、同性愛者を憎んでいるわけでもないが、御霊に従って、聖書に従って「同性愛者のためのケーキは焼けない」 それは、御霊も証して下さる。神の言葉も証して下さる。
父なる神も証して下さる。 なので、神の前に有罪とならず、永遠の刑罰には入らない。
ただ、この世では、「とんでもないケーキ屋だ」と罰金まで取られるかもしれないが、この世の裁判を気にしてはいけない。
我々は、来るべき、体をも魂をも火のゲヘナに投げ込む権威のある方の裁判を恐れなければならない。所詮この世の裁判では、ギロチンで首を斬られるくらいのもの。
肉体の命を奪っても、魂までは殺せない者達を恐れてはいけない。
しかりはしかり、否は否。
後に必ず行われる神の裁判を恐れなければならない。
こういうポイントを見て行く。
5:10神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
「このあかしを」とあるが、KJVでは「この証人」
神の御子を信じる者は、この証人を自分の心に持っている。
我々はすでに証人を与えられている。
永遠の運命を決める神の裁きの証人を、すでに内側に持っている。
これは聖霊の事。
強い味方がすでに個々のクリスチャンに与えられている。
三人おられる。「御霊と水と血。」
我々は、いざという時に、証言して下さる方がおられる。
人のあかしより、神の証言の方が、はるかに有効。
そういう事が書いてある。
聖書は、二重三重の事が書いてある。
一面は、証言という表面的な言葉だけれど、隠れた一面は、我々の、後の日の裁判の日においての証人が、すでに与えられている。
我々は、これらの事を通して分かる事柄は、御霊に従って行く事が強いという事。
なので、それがベスト。
人間の間で裁かれる事は大したことではない。
聖霊の声に聞き従って、「角笛ニュースレター」を今でも発行しているが、やはりこれも後の日に証言して下さる方がある。
「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」
なので証人を持っているという事。
「神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。」
神を信じない人は、証人を持っていない。 神を偽り者とした罪がその時に暴かれてしまう。
キリストを信じない事自体が、神を偽り者としたのでその罪がついて回る。
5:11そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
我々は、キリストを持つという事は、そのまま永遠のいのちを持つという事。
5:12御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
なので、永遠のいのちの根本はイエス・キリスト。
永遠のいのちに入りたいという人は、皆等しくキリストを信じるべき。
非常に単純明快な事が聖書には書かれている。
5:13私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
キリストを信じた者達は、永遠のいのちを持っている事を、我々はよく分からなければならない。
5:14何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
クリスチャンにとって大事な事というのは、願い、祈りを聞いて下さるという事。
神の御心にかなう願いをするなら、聞いて下さるという事。
それが「私たちの確信」であり、我々もその様に確信していくべき。
この様に思って、祈って行く。
レムナントでは、以前からしばらくの間、出版のために祈って来た。
人間的な目で見ると、思いもかけない事が起きて来た。 出版社がつぶれ、売り上げのお金も入って来ないし、本も差し押さえられるなど、とんでもない事になった。
我々はそのために祈った。この本を通して未信者の方々が真理を見る事が出来るように、また、
日本の人々が、自分の国がどういう国なのか、日本と聖書との関わりなど。
その本の中では、ほとんどまっすぐに、聖書の言葉を省かずに、神の言葉をそのまま語っているし、なぜ我々が日本に来ているかも含めて、これらの神の言葉からのメッセージも聞いてほしいというように思っていた。
しかし最近、祈りが答えられたかと思えることがあった。
「角笛ホームページ」において、10対7の割合で「ダビデ王朝」のところにアクセスがあった。 時間がかかり、我々が思ったような方向ではなかったが、祈りは答えられた。
我々が祈った祈りは、御心にかなっていた。
祈りは思いもしなかった方向から叶えられた。
増々確信して祈って行くのが大事。
ただ、一つの大事なポイントは、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら」聞いて下さる。
今は、惑わしの霊が働く時代。
ペンテコステ系を初めとして、おかしな霊のリバイバルがあり、多くのクリスチャンが、「神の霊」だと思いながら、別の霊に聞いている時代。
変な霊に導かれ、変な確信を持っているクリスチャンがいる。
そういう場合は、聞かれるとは限らない。
他の教団の人には、良い意味でも悪い意味でも教えられる。
別のものを捉えてしまうと、何の意味の無い事だったり、何の結果も出て来ないし、ただ、惑わしに入る可能性がある。
なので、何事でも神の御心に適う願いをする。 その時、神は聞いて下さる。
今は、多くのクリスチャンが、変な霊に導かれて、むなしい歩みをし、結果、神の前に何の意味もない事柄だったり、ただむなしく時間を費やしたり、霊的な力を費やしたりという事になってしまう。その事が、多いに起きている時代。
なので、正しく神の御心、適う、そういったポイントを捉え、それから奉仕に入って行くという事が非常に大事。
吟味は大事。
5:15私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
なのでこの様な確信も大事。
5:16だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
5:17不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。
是非、その様にしていきたい。
死に至らない罪を犯している人には、神に求めて行きたい。
しかし、死に至る罪もあるので、これに対しては、祈る必要が無い。
5:18神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
我々は、神によって生まれた者なので、基本的には罪を犯さない。
神から生まれた方が彼を守っていてくださる。
だから悪い者から守られて行く。
5:19私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。
我々クリスチャンは、この世に対して、聖書的な、神が言っておられる意味合いで理解していかなければならない。
クリスチャンであっても、世に接近してしまって、同化してしまい、神の声が聞こえなくなってしまう、そういう類の人が往々にしているので、我々は、この世に関して、神がどういわれているのかを正しく知らなければならない。
ヨハネの手紙の他の箇所では、「世をも、世にあるものも愛してはいけない。そうであるなら父なる神の愛はそこには無い」という事まで書いてあるので、我々は、この世に住んでいる者ではあるが、この世に関しての必要な態度をとって行かなければいけない。
例えて言うと、イスラエル人はエジプトに住んでいたけれども、エジプトに対して取るべき態度をとっていた。そんな意味合いで我々がこの世に関して、この世で生きている者だが、この世に理解すべきかという事を、正しく聖霊にあって理解して行きたい。
聖書が語っている事は、一つは、この世は、世全体は悪い者の支配からなる。
要するにサタンの支配からなる。だから、世はキリストの栄光自体を輝かせない。聖霊に関しても、無いものが如くし、全く受け入れようとしない。
この世は、悪い者サタンの支配にあり、サタンの心がこの世で行われていたり、最後にサタンと共に滅んでいくという事柄は、正しく見て行かなければならない。
イエス・キリストも、この世から排斥され、また有罪とされ、また、十字架で命を失ったように、我々も正しく歩んで行くならば、結局は世から排斥され、世から受け入れられなくなってしまう可能性も大いにある。 わざわざ悲観的にならずとも、普通にそうなってしまう。
福音も受け入れられない。21世紀になり、あらゆる事が省略化し便利になっているが、福音に関しては、そうは行かない。この世は、決して福音も、御言葉も受け入れられることは無い、という事を覚えておく。
この世の事に関しては、もう一つは、残念ながらいずれ滅んでいくという事も、よく知って行きたい。
Ⅱペテロ
3:3まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
3:4次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
この様な人達は今はまだあまり出て来ていないが、これから出て来ると思われる。
キリスト教会でも出て来る。
3:5こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
3:6当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
当時の世界は、ノアの洪水の時。そして、ノアの洪水というのは、今でも、その跡が残っている。高い山の頂に貝や魚の化石がある。こんなに高い山も洪水に覆われた。
聖書が言うのは、ノアの洪水の時に、最も高い山も水に覆われてしまったと書いてある。
その跡が化石になって残っている。地学を学ぶなら、洪積層というものがある。
これは、洪水の跡の層。だからこれは歴史的な事実。
洪水が歴史的な事実であるように、
これからさらに、ノアの洪水に匹敵するような事が起きる。
なので、
3:7しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
なので、世の終わりの裁き、ノアの洪水の裁きとは、ある意味では型にすぎない。
もっと全世界を覆うような、今の天地が滅びるような日が来るということ。
神は、今の不敬虔なこの世をこのまま永遠に残すとは言っておられない。
逆に、裁きの日が来る、ノアの洪水に匹敵するような火の裁きが来るという事が正しい。
「今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれている」と書いてある。
なので、今の天と地は、風前の灯。
その裁きとは、火に焼かれる事だと書いてある。
3:10しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
天の万象が焼けて崩れ去る時に、不敬虔な人々は皆一緒に滅びてしまうという事。
神を受け入れず、御言葉を受け入れない人達は、その日一緒に滅びてしまう。
だからこそ、「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」
敬虔な人でなければ、これらの裁きを免れて生き残る事は出来ない。
我々は、今の天と地にこのまま生き残るわけではない。何故なら太陽も地球も、火で焼き尽くされ、我々の住む所は無い。
3:13しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
今の古い天地は滅びてしまう。
これは喩えではなく、文字通りに起きるものと思われる。
何故ならノアの洪水は、実際に起きた事だから。
同じように、今の、太陽も地も滅びるという事が起きて来る。
神の言葉の通り、その日は来る。
そして、今、日本でもどんどん気候が暑くなっているのは、この日が近いのではないかと思う。
黙示録にも「太陽は人々を焼くことを許された」と、物凄い暑さだけれども、そこからもこの日が近いのではないかと思う。
3:7しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
ずっと保たれてきたのだが、それが無くなってきているような気がする。
毎年じわじわと熱くなってきている気がする。
このまま行くと、何年か後には、天も地球も焼けて来るのだろうが、前兆が起きている気がする。
我々は、良くも悪くも、この世に起きている事は、御言葉の通りなので、それこそ、今日の天気明日の天気も含め、今日の気温明日の気温を含め、御言葉からかけ離れた事ではない。
御言葉に沿った方向に来ている。焼け尽きる方向へ来ている。
Ⅰヨハネ
5:20しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
真実は、真理。
神の御子キリストによって、我々は、真理を知る理解力を与えられた。
真理にしたがうなら、今言ったような事柄が正しいと思う。
悪、悪い者の支配を、永遠に神が、許すという事はあり得ない。
また、神に対しての、あらゆる不道徳や不敬虔に対して、神の怒りが臨まないという事は無い。
ローマ書にあるように、「神の怒りが天から啓示されている」と言うのが正しい。
そういった事を理解するのが正しい。
5:21子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。
偶像を警戒していきたい。
偶像の、最も最たるものは、世の終わりに出て来る、反キリスト。
反キリスト的な前兆は今のキリスト教会に表れている。
器崇拝、そのせいで御言葉を離れてしまうという事が大いにある。
人を偶像視してしまってはいけない。
御言葉を優先して行くのが正しい。
レムナントキリスト教会
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