Ⅱテモテへの手紙1(19) 2013.12.29

 

1:1 神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、

パウロは使徒の働きに任じられている、しかし人によっては神から任じられずに使徒となっている

「神のみこころにより」ということにポイントがある

私たちが働きや奉仕を担うのは聖書的に当たり前のこと、しかし奉仕を依頼するゲストの立場である神がどうして欲しいのか?が大事

Ex:レストランの店員は、お客がオーダーした通りに料理を出す→これは○、しかし店によっては、お客の要望に沿わないことをするところもある→このことはNG

神は奉仕に関連して御自身の注文や希望がある、それをよくよく理解しなければいけない、場合によっては神が言っていることと違うことをしていることがあるので、神の思いや考えを聞かなければいけない

しかし多くのクリスチャンや教会は、神の言うことを聞かない傾向にある

今のキリスト教会は自分勝手なことをしている、そうであるがゆえに・・・そんな中できちんと神の言うことを聞くならポイントが高い

多くのクリスチャンは、神のオーダー(注文)があるとは思っていない

きちんと神に聞いていき、的外れでないときに祝福を受けたり、働きが進んでいく

しかし多くの教会は的外れになっている、神が望んでいないことやピント外れなことを行っている

Ex:艱難前携挙説をメッセージする

パウロは主の御心をピシャリととらえて行っていた

レムナントがもし、主の御心をとらえるなら、パウロと似たような歩みに入っていく

「いのちの約束」について

この世の仕事でも、「報酬」という約束のもとに仕事をする

クリスチャンに関しても「報酬」を伴った約束にポイントがある

パウロは使徒の働きを「報酬」、すなわち「永遠の命」のために行った

奉仕に「報酬」がある

奉仕に関して、主が「永遠の命」を約束したら、それは守られる

奉仕を続けて「永遠の命」を確定されることが大事

奉仕をしていく中で、方向性がクリアになっていく

主が奉仕に伴って、「永遠の命」を約束されたら実現する

参照 Ⅱテモテの手紙4:8

4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

奉仕に伴って、だんだんと見えてくる、正しい方向へ軌道修正されてくる

クリスチャンはことばでは理解する、しかし実践する人は少ない

でも、行った人が神の約束(永遠の命)を得る、ゆえに行う、自分で決断して実践していく

 

1:2 愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。

1:3 私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。

私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては→これは祭司の型、旧約聖書に出てくるモーセやアロンがまさにそう

夜となく、朝となく、昼となく、祈っていくなら祭司

祈りを正しく行っていくなら、祭司

 

1:4 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。

1:5 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。

1:6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

「按手」に関しての神の語りかけ

「按手」を通して、霊や賜物は与えられる→6節で、パウロは与えられたと言っている

もし、賜物を持っている人の「按手」を受けたら、必ず霊の賜物が与えられる

賜物を持っている人が「按手」をすると、受けた人は与えられる、これは霊的な事実&法則

それに関連して気を付けなければいけないポイントがある

○霊的に健全な人の賜物を受けるのが大事

○相手を間違えて按手を受けると大変なことになる

Ex:トロントのビデオのベニー・ヒン、もし、彼から按手を受けるなら、「悪霊の賜物」が下ってしまう、ゆえにそういう器からは絶対に受けてはダメ!

「按手」は、よくよく気を付けなければいけない

参照 ヨハネの黙示録13:16

13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた

「右の手」「額」は、「按手」の組み合わせ

獣のしるしは「按手」をもって与えられる

直接反キリストからでなくても、反キリストに忠誠を誓っている人とかから、決定的なしるし(刻印)を受けてしまう可能性があるので、くれぐれも気を付ける

 

1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

「按手」をもって、神から与えられた霊は、「力と愛と慎みの霊」

慎み(KJV):健全

本当に神からの霊を受けるのは健全な霊、極端な霊ではない

極端な霊や不健全な霊がある

Ex:カトリックで言っている「地獄は無い」、「セカンドチャンス」を唱える、艱難前携挙説等→これらは健全な霊からではない

本当に神からの霊を受けるなら、健全な教えを受けるようになる

 

1:8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

主を証することを恥じないことにポイントがある

でも、往々にして、サタンによって主を証することを恥ずかしいという思いや抵抗する霊が来る

主を証することを恥としないことを、今のうちから(艱難時代に入る前から)祈り求めていく、そして実践する

参照 マタイの福音書10:33

10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

主を証することを恥じないという訓練をしていく

Ex:玄関のドアにみことばを貼る

どんな方法でも良いので、機会をとらえて行っていくときに免疫ができていく、繰り返していくうちに、自然に証ができるようになる

喫茶店とかで、聖書を読んでいるだけでも、無言の証になる

訓練をしていかないと、決定的な時にうまくいかない可能性がある

ことばの証を主が大事にされ、それが決定的なポイントとなる

たとえばクリスチャンは、いざ牢屋に入ってしまうと恥としてしまう傾向にあるのでは?

でも、「私が主の囚人であることを恥じてはいけません」とパウロが言っているように、そういうことに対しても正しい認識を持っていきたい

みことばを守ったための逮捕に対して、正しく対応していく

また、「福音のために私と苦しみをともにしてください」と言われているように、苦しみを共にするのが正しい

 

1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、

神の計画のもとに召されたことにポイントがある

働きの中に、神の厳然たる計画がある

しかしクリスチャンが、神と関係のないことをやっているという間違いがある

Ex:艱難前携挙説を宣べ伝える等

神の計画と一致して働きを担うなら、祝福を受ける

関係ないことをすると、妨害になってしまう