Ⅱテモテへの手紙4(19)      2014.2.9

 

 

 

4:1神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。

 

 

 

我々は。どの様に御言葉に携わるか。

 

我々の全ての言葉は裁かれる。

 

正しく御言葉を語って行くなら入るべき所(御国)に入れる。

 

 

 

4:2みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

 

 

 

我々が歩んでいく時、メインとして「御言葉をのべ伝えなさい」、とはっきり命じられている。御言葉を伝えることが出来る奉仕者になって行くことにポイントがある。

 

この事を実行できるように、主の御前に祈り求めて行く。

 

きちんと対応していく時に、御言葉は、人を変えていく。

 

これは、どんな奉仕よりも尊い奉仕。

 

御言葉を正しくのべ伝えるなら、主の方法で語って行くなら、人を救う。

 

滅びに向かって行った人も、命へ入って行く。

 

御言葉には力があり、我々はそういう奉仕者。

 

きちんと奉仕をするならば、それは人を生かす。

 

レムナントの奉仕は、全て御言葉をのべ伝える事に関係している。

 

: 黙示録セミナー、ニュースレター(宛名を書いて、貼るなども奉仕)

 

自分自身も御言葉をのべ伝えるようになるのが目標。

 

書いたり、話したりして、み言葉を伝えていく。

 

 

 

4:3というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

 

4:4真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

 

 

 

健全な教えに耳を貸そうとせず---KJVでは、真理に耐えられなくなる

 

この意味合いはすごく大事。

 

楽しい話、嬉しい話には耳を傾けるが、自分の欠点を突く様な事や厳しい話には耳を傾けなくなる。

 

聖書に書いてある赤裸々な真理、

 

: 滅び、ゲヘナ、命に至る門は狭い、その道も狭い、それを見出す者は稀であるなど。

 

そのような真理に耐えられなくなって来る。

 

 

 

まさに、健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集めるようになる。

 

 

 

聖書に聞くとか、礼拝で聞くとかのパターンは残しておきたいのだが、厳しい話は聞かないなど。

 

それゆえに気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集める。

 

そのような要望に応えられるかのように空想話が広がって行く。

 

: 艱難前携挙説、セカンドチャンスなど。

 

カトリック------ 地獄は無い、または煉獄←聖書と矛盾している。

 

聖書と関係のない空想話に走って行ってはいけない。

 

 

 

4:5しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。

 

「自分の務めを十分に果たす」とは、御言葉に書いてある事をそのまま言うということ。

 

人々に迎合しない。

 

 

 

4:6私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

 

 

 

我々が、パウロ、イエス様のような歩みをしていく時に、場合によっては奉仕によって肉体の命を失うことがある。

 

パウロと似たような奉仕をしていく時、パウロと同じような目にあう。

 

これは、聖書のパターン。

 

注ぎの供え物、殉教で肉体の命を失うということは、神様に捧げものをするという事であり、神に喜ばれる。

 

 

 

ヨハネ

 

12:23すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

 

12:24まことに、まことに、あなた方に告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 

12:25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 

 

 

この箇所は殉教とか、肉体の命を失うと語っている。しかしこの事は永遠の命をゲットする事につながる。

 

 

 

ここにある「栄光を受ける」とは人間的にみれば「恥」に見える。聖書とは逆説的なこと。

 

テモテ

 

4:7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 

4:8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 

 

 

パウロが、世を去る最後の時を語っている。

 

パウロは、自分のクリスチャン生活、生涯を語って、「勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した。」それが故に義の栄冠が待っていると語った。

 

これが我々の信仰の模範である。

 

我々も信仰の戦いを戦って行くべき。

 

走るべき道のりを走ること。

 

我々も個々に神から与えられた走るべきコースがある。  きちんと走り終える事。

 

「信仰を守り通した」

 

我々に与えられた信仰を守り通すか否かによって、義の栄冠を得られるか、得られないかが変わってくる。

 

 

 

クリスチャン生活では、ヨブのように、あらゆる形で信仰を揺るがされるような事が、サタンによって許される。

 

エバのように揺るがされてはダメ。

 

どんなに疑いが来るような状況でも信じ通していく事が必要。

 

 

 

4:9あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。