Ⅱテモテへの手紙4(722)      2014.2.16

 

 

 

4:7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 

 

 

勇敢に戦う事。

 

 

 

ルカ

 

13:23すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」という人があった。イエスは人々に言われた。

 

 

 

「主よ。救われる者は少ないのですか。」との問いに対し、主はこれを否定しておらず、むしろ肯定している。

 

 

 

13:24努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから

 

 

 

努力して=ギリシャ語で「戦う」という言葉と同じ。

 

努力して狭い門から入りなさい。というのと同じニュアンス。

 

はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから と、イエス様はダメ押ししている。入るべき所は狭い門であり、入れない者が多い。

 

 

 

13:25家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

 

 

 

とは狭い門のこと。

 

このように狭い門から閉め出される人が多くいる。

 

 

 

13:26すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

 

 

 

こう言い始めるのは、旧約のユダヤ人、また、新約の時代のクリスチャン!

 

食べたり飲んだりとは、聖餐式に通じる。

 

私たちの大通りで教えていただきました。これは、礼拝に毎週出席し、メッセージを聞いてきた、ということ。

 

教会に行っているということが、必ずしも狭い門に入る事につながらない。

 

 

 

13:27だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』

 

 

 

不正を行なう者たち。というのは、KJVでは不正な働き人。

 

例えば「空想話」を語っている働き人。

 

そのような人たちはこの日、主から、みな出て行きなさいと言われる。

 

「地獄は無い」や艱難前携挙、セカンドチャンスなどを語る者は、みな追い出される。

 

これらの事を求め続ける人達は、努力をしても入るべき所に入れない。

 

何故なら彼らは広い門から入った者たちだから。

 

 

 

努力をせず広い門から入らずに、努力して、狭い門から入ること。

 

:レムナントにおいては、御言葉の喩えを語っていく事、ニュースレターを出し続けるなど。いやな顔をされたり、非難を受けても続けていく。

 

 

 

13:28神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです

 

 

 

思ったより、広い門から入り、その日「こんなはずではなかった」と、泣き叫んだり、歯ぎしりしたりする人たちが多いのではないか。

 

 

 

Ⅱテモテ

 

4:7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 

 

 

使徒

 

20:24けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

 

 

 

私たちは、自分の行程を走り終えなければならない。

 

行程は人によって違う。

 

:マラソンでも、決められたコースを走らなければ、どんなに速く走れても失格になる。

 

 

 

パウロにはパウロのコースがあり、個々のクリスチャンにも、神様によってそれぞれに決められたコースがある。

 

問題は、我々がそれを悟らずに、神様によって決められたコースを走らず、違ったコースを走ってしまう事にある。

 

すると、得るべき冠、報いが受けられなくなる可能性がある。

 

自分の進む方向が分からない場合は、教会に言われている奉仕をやって行く。

 

やって行くうちに見えてくる。

 

また、分かるように求めていく事。

 

 

 

Ⅱテモテ

 

4:8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 

 

 

義の栄冠。

 

我々は、正しくなければ義の冠を得られない。

 

「義」とは、ギリシャ語の意味合いで、「法律的に正しい、律法的に正しい」。

 

簡単に言えば、「神の教えをよく守る」という事。

 

クリスチャンは神の言葉を守るべく召されている。

 

義の冠を受けるのは、神の言葉を守り、行なった人。

 

多くのクリスチャンの勘違い=「律法的になってはいけない」

 

パウロの歩み方、イエス様の歩み方は神の御言葉に忠実であった。

 

困難の中でも神様を信じ通し、従い通した。

 

 

 

4:9あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。

 

4:10デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。

 

4:11ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。

 

4:12私はテキコをエペソに遣わしました。

 

4:13あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。

 

4:14銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。

 

 

 

迫害を受けることもあるが、復讐するのは我々ではなく主。

 

 

 

4:15あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。

 

4:16私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。

 

 

 

パウロは法律的に訴えられた。その中で論告したり、求刑されたりしたこともあった。

 

その時、パウロの仲間だった人たちはみな、彼を見捨ててしまった。

 

この事から学ばされる事は、昔のクリスチャンも今のクリスチャンも、いくら神の前に正しくあっても、いざ自分の身が危なかったりすると、離れて行ってしまう人が多い。

 

 

 

艱難時代の心構えとして、いくらクリスチャンであっても、法律的に訴えられようとする時、

 

平気で裏切ってしまう可能性がある。

 

 

 

4:17しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。

 

 

 

弁明の時に主が力を与えてくださる。この裁判を通して、パウロは、イエス・キリストの事を述べ伝えることが出来た。その意味で益となった。

 

 

 

4:18主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

 

 

 

人からは見捨てられるかも知れないが、主の名を伝える人が神から見捨てられることはない。そういう人は、入るべき所に入って行く。

 

 

 

4:19プリスカとアクラによろしく。また、オネシポロの家族によろしく。

 

4:20エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。

 

4:21何とかして、冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。

 

4:22主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。

 

 

 

どんなクリスチャン生活でも我々には寿命というものがある。

 

ポイントは後の世。入るべき所に入って行くこと。

 

この世において何も受けられなくても、後の世で受けるべきものがある。

 

焦点を後の世に置くこと。