Ⅱペテロの手紙2:10~22           2015.5.17

 

2:10汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。

2:11それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。

 

ペテロの手紙の中では、終末の日に起きて来る事柄が23書かれている。

前の週に学んだ、「自分を贖った主を否定する」との出来事も、これから起きて来る感じがする。 

今は、そこまで明白にイエス・キリストを否定する教えはキリスト教会の中では出ていない。

「ものみの塔」等は別として、キリスト教の正統派と言われる所では、まだ無い。

なので、少し未来の事。

今日の箇所でも、今起きつつあるけれども、未来の事であると理解できる。

今日の箇所のメインのポイントは、「御使いをそしる」

これから、これが大きなキリスト教会の罪になったり、災いになっていく。

悪い意味で、一つのトレンドになって行くと思うので、この事に目を留めておく。

10節の後半部分で、「尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」

ここに、「栄誉ある人達」という言葉が出て来る。

新改訳の注釈には、「御使いたち」と書いてある。

この箇所は、「御使いたちをそしる」とすれば、すんなり読み取れる。

何故なら11節で、「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。」

これからのキリスト教界に起きて来る、一つのトレンド、今起きつつあるトレンドは、「御使いをそしる」というトレンドであって、これを行なう人々には、ろくでもない事が起きて来るので、「こういった働きに入らないように」という事が一つ。

 

2:12ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。

 

この箇所が何を言っているのか。

それは、「御使いをそしる」という事が、これからキリスト教界で、大きなトレンドになって来る。今すでに起こりつつある!

そしる人達は、いろいろ理屈をつけているが、聖書が言うならば、彼らは、「自分の知りもしない事をそしる」という事。

ペンテコステ派、カリスマ派には、「霊の戦い」というトレンドがあった。

言っているのは、ピーターワグナー。

聖書を読んでいて分かるのは、旧約聖書にそういう箇所があるけれども、御使いが、それぞれの地域を、神様の権威の下で支配しているという事がある。

そういう意味では、日本を支配している御使いもあるかも知れないし、この国の地域ごとに支配している御使いもいる、これは、聖書的にありうる。

それは御使いが、勝手な事をしているのではなく、神から命令を受けてやっている事なので、それをそしりに行ったり、戦いに行ったりすると、戦いに行った我々が反逆者となる。

何も知らない子供に、「あいつは悪い奴だから石をぶつけて来い」とそそのかし、何も知らない子供が警官に向けて、石を投げつけるような事。その子はろくな目に遭わない。

子共が「知りもしないで」、騙されてやるのだが、「霊の戦い」も同じような事。

「知りもしない」事をそしるとは、神様がどのように、この国を、地域を支配しているか、そういう事を何も理解しないで、「さあ、やっつけに行こう」と言って、実際に行く。

それは、愚かな事。災いに遭う。

「霊の戦い」は怖い事。

ペンテコステ系の人は、おそらく知っている。

霊の戦いは、一時期有名だった。  今でも恐らくやっている。

あちらこちらの、神社、仏閣などに行っている。

前に、エレミヤ牧師が、散歩がてら祈っていた時に、ちょうど靖国神社の中を通った時、見慣れぬ集団がいた。アメリカ人と思しき230人の人達がいて、神社の端のベンチのあるところで祈っていた。見た感じで、「霊の戦い」だった。

「日本の国の悪い霊をやっつけよう」と、わざわざアメリカからやって来たのかも知れない。

彼らは、神の御心を行っていると思っているのだろうが、絶対に危険な行為。

どんなに、我々が、動機が正しいと思ったとしても、熱心であるとしても、無知であるのは良くない。御言葉をよく知らなければならない。

「御使いをそしる」のは、恐ろしい事。

10節に書かれている「栄誉ある人達・・・御使いをそしって恐れるところがありません」

「霊の戦い」をする人たちはみな、恐れる事が無い。「大胆不敵な、尊大な者たち」

「地域の霊を縛る」、これは、「大胆不敵な、尊大な者たち」

12節に書いてある事は恐ろしい。「自分が知りもしない事をそしるのです。」

それで動物が滅ぼされるように、彼らもまた滅ぼされる。

「霊の戦い」など、このような事を繰り返していると、ろくなことが起きないし、滅ぼされてしまう可能性がある。

熱心は良いが、無知は良くない。

 

2:13彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。

 

13節の途中に、「彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。」と書いてあるが、少し日本語の訳が違う。

KJVは、「飲み騒ぐ」事ではなくて、「反抗とか反乱」とある。

神が立てた、権威への反抗。

面と向かって、反乱を叫び、行なって行くので、ろくな目に遭わない。

我々は、場合によっては、主の立てた権威というのに、反乱したり、そういう方向に行くのは良くない。  見習うべきは、ダビデ。

ダビデの仕えていた、サウルは、とんでもない王。

罪のないダビデを追い回し、槍で貫こうとしたりした。

しかし、ダビデは最後まで、サウルに対して、反乱とか、暗殺しようと思えば出来たが、彼はそうしないで、最後まで主の裁きを待ち望んでいた。

それはやはり、見習うべき。なので「霊の戦い」の様に突然御使いに、バンとぶつかってみたり、喧嘩を売ったり、これらは良い事ではない。

この事は怖い事。

「あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。」

と言うように、霊の戦いに関しての色々な教理はみんな騙しごと。                

結局正しい真理からクリスチャンを惑わすような方向へ行っているので、これらの教えに従うとろくなことが無い。

損害を受けたり、滅ぼされたりしてしまう。

死んでしまう事もある。

理解しなければならないのは、我々が、たとえ騙されたとしても、霊的な世界の事柄は、やはり神のみ言葉にしたがって進んでいく。

たとえ騙されたとしても、聖書の原則は変わらない。

サタンの一つの方法は、全てを理解したうえで、インチキを持ってくる。

エバの時がそうだった。

サタンの騙しのパターンは、延々と繰り返されている。

油断も隙も無い。

しかし、御言葉について行くならこういう事も見えて来る。

 

2:14その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。

2:15彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。

 

バラムは、バラクに誘惑された。

「私の言う通り、イスラエルの民を呪うならば、宝に満ちた家をあげよう。」

ここは、喩え。

宝に満ちた家は、信者に満ちた教会の喩え。

バラムに関しては、そのように非難されているけれども、そういう意味では、我々はたとえ、

「この方法を行なえば信者が増える」と言われても、「霊の戦い」や「パーパスドリブンチャーチ」「リックウォレン(イスラム教もキリスト教も一緒などと言っている)」にくっついて行くべきではない。

バラムの事が、この様に書いてあるという事は、結構、欲に目が眩み、利得を追い求めて、結局は変な教理を掴むことがある。

ピーターワグナーは、あらゆるインチキなリバイバル、霊の戦い、聖霊の第三の波(実は悪霊の働き)等を推進する とんでもない男だが、彼は一面、教会成長などを語り、キリスト教界に影響を与えた人。教会が成長し、人があふれるという事をポイントにしていた。

そこで、結構引っかかる事がある。

しかしそれは、聖書的には、バラムの道だったりする。

正しい道を捨てて、「人が増えて、大きな教会になればいい」など。 しかし、そこは結構つけ込まれる。 バラムの道とは利得の道であり、自分の奉仕のために、正しい道を捨ててしまう事にポイントは無い。

こういった事柄も見て行くこと。

 

2:16しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。

 

こういった事柄があるという事は、覚えて行く。

バラムは、神様の御心の無い道に行こうとしていた。

バラクの方へ行こうとしていた。

その時、驢馬が、彼の行く手を阻んだ。本来なら真っ直ぐ行く筈の驢馬が、真っ直ぐ行かないで、壁に押し付けたので、その為、バラムの足が挟まれた。バラムはそのつど驢馬を打ち叩いた。そして、ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言った時、バラムの目が開かれたら、前方で御使いが剣を持っていて、「なぜ驢馬を叩くのか、もしこのまま進んで行ったらあなたは斬り殺されていた」と言われた。

その時、一つは、驢馬は聖霊の喩え。

バラムの教えから理解しなければならない事は、我々が、神の御心でない方向へ行く時に、しかも、目には見えないが、御使いが剣を持っていて、真っ直ぐ進んでいたら切り殺されてしまうという時に、聖霊によって、色々トラブルが起きて来る。

その時は、やはり再考した方が良い。聖霊によるストップが来ている可能性があるから。

やはり、祈ってみる。

もう一つの事は、驢馬はものを言わない。

しかし、驢馬はものを言わないが、人間の声でものを言って、預言者の狂った行ないを阻んだ。

ここには語り掛けがある。

聖霊も、直接我々に、肉声で語り掛けるという事は基本的には無い。

では聖霊は、語らないのかというと、そうではなく、人間の声でものを言う。

つまり、人を通して、ものを言う。

だから、我々の周りで語っている声、つまり人間の声で語られる事がある。

これは、クリスチャンに限らず、未信者の声の場合もある。

そういう声に関しては、耳を傾けていきたい。ちゃんと耳を傾ければ、遭うべき災いにも遭わなくて済む。あわや、という時に、主からの警告で守られたりする。

人間の声を通した、神からの語り掛けには、注意をはらう。

エレミヤ牧師の場合は、40歳を過ぎて、神学校へ行って、この道でやるべきかどうかを考えていたことがあった。その時に、年齢が近い人がいて、時々声をかけてくれた。

「主に仕えて行く、弟子の歩みを選んでいった方がいい」という事を23回言って来た。

これがもしかすると、主の声か、と思っていた。

時間はかかったが、最終的には弟子の歩みに入る事が出来た。

聖霊は、この時驢馬は、バラムにいう事がある。

普通驢馬は喋らない。でも、人間の声でものを言う。

これには語り掛けがある。

聖霊も、肉声では我々に語らない。

しかし、人を通して語る、という事がある。

それに、我々が耳を傾けていく時に、益になる。

逆に聞いても、馬耳東風でいる時に、痛い目を見たりする。

なので、聖書は結構喩えや謎である。

気づかなければそれきりだが、大事なポイント。

聖霊は確かに、我々に、肉声では語らないが、人の声を通して語る。

それは心の内側で分かる。

「神が、もしかしたらこの人を通して語っている」

そういう時は、注意を払い、耳を傾けること。

 

2:17この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。

 

権威、御使いに逆らう人達は、水の無い泉だから、聖霊の働きが無いということ。

真っ暗な闇だから、真理の光が無い。

 

2:18彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、

2:19その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。

 

虚しい大言壮語を吐いている。 確かに今、ペンテコステ系を始めとして、大言壮語をするクリスチャンが結構多い。「サタンよ、よく聞け!」など。

そのようなトレンドが、ペンテコステ系を始めとして多いと思うので、その様なものに引っかからないようにする。

「自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷」だというように、結局はその様な、おかしな教理に引っかかっても、罪から解放されるわけではない。

 

2:20主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。

2:21義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。

2:22彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです。

 

結局、良い話の裏には、何かがある。

惑わし、権威に逆らう事は、明らかに今のキリスト教界に起きている事。

この現象はとどまる事を知らないのではないか。

結論として、ろくな事にならない。

御使いをそしる、それは、神の権威をそしる事になる。

こういった惑わしにも気を付けていきたい。