Ⅱ歴代誌20章 2011.7.3

 

20:1 この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。

20:2 そこで、人々は来て、ヨシャパテに告げて言った。「海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」

20:3 ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。

色々な王がいる

ある王は正しく歩む

ある王は正しく歩まずに恥を見たり、殺されたりする

しかし、ヨシャパテは主により頼み、神の業や栄光を見て、勝利を得た

クリスチャンも一様ではなく、どのように歩むかによって、結果が異なる

ポイント:断食を布告して神様に求めた→神の業を見た

栄光を見る方法:この世の常識や方法とは異なる

ヨシャパテの方法にポイントがある→そのことが4節以降に書かれている

 

20:4 ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた。すなわち、ユダのすべての町々から人々が出て来て、主を求めた。

20:5 ヨシャパテは、主の宮にある新しい庭の前で、ユダとエルサレムの集団の中に立って、

20:6 言った。「私たちの父祖の神、主よ。あなたは天におられる神であり、また、あなたはすべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません。

20:7 私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜わったのではありませんか。

20:8 彼らはそこに住み、あなたのため、御名のために、そこに聖所を建てて言いました。

20:9 『もし、剣、さばき、疫病、ききんなどのわざわいが私たちに襲うようなことがあれば、私たちはこの宮の前、すなわち、あなたの御前に立って――あなたの御名はこの宮にあるからです。――私たちの苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、あなたは聞いてお救いくださいます。』

主の言葉に立ち、約束によって、祈り求めた

助けを祈り求めることが勝利を得るポイント

幼子のようになって求める者が天の御国を受け継ぐ

神の栄光を見るパターン:恐れて、頼った→これは、幼子に通じること

日常生活にも、このことを適用していく→ひたすら祈り求める

神の栄光を見る人は、ただひたすら求める人

このパターンをはっきりと理解し、身に付ける→主の栄光を見る

この世の常識と聖書の方法は違う

私たちにもヨシャパテのようなもの(試練や困難)が来る

しかし、神は絶望を与えるために、こういったものを持ってくるわけではない→私たちが、神からの助けを得て、神の栄光を見るため

絶体絶命のことを神はゆるされる、しかし、助けを求めていく

ヨシャパテのパターンに倣う

8,9節は、ソロモンの祈りに通じる(宮の意味合いについて)

宮の前で祈るときに、祈りを神は聞いてくださる→私たちへの教え

私たちクリスチャン一人一人は新約における神の宮

約束に基づいて求める人は栄光を見る→勝利を得る

信じて祈るなら、現実になっていく、そのために聖霊がクリスチャンお一人一人に宿っている

 

20:10 ところが今、アモン人とモアブ人、およびセイル山の人々をご覧ください。この者たちは、イスラエルがエジプトの地を出て来たとき、イスラエルがそこに侵入することをあなたがお許しにならなかった者たちです。事実、イスラエルは彼らから離れ去り、これを根絶やしにすることはしませんでした。

アモン人、モアブ人、セイル山(エドム)の人々は、イスラエルの親族(ある種のクリスチャン)

これらの人々(アモン人、モアブ人、セイル山の人々)は神が赦されない親類

クリスチャンと言ってもある種のクリスチャンがいる、ズレている民がいる→ゆえに、神が赦されない親類がいることを理解する

全く違う霊に導かれているクリスチャンがいる

そういう人たちとは分離したり距離を置いたりする

何でも教理を受け入れるのは聖書的ではない

聖書の原則は分離!!

 

20:11 ご覧ください。彼らが私たちにしようとしていることを。彼らは、あなたが私たちに得させてくださったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして来ました。

「所有地」に関してのたとえ

約束の地:後の日に入るべき地

イエス様は弟子たちに「場所を備えにいく」と言っていた

アモン人、モアブ人、セイル山の人々の問題点→神の民を約束の地からズラそうとしている、別の所へ連れて行こうとする

しかし、聖書に書かれていない教理を受け入れるなら、約束の地から外されてしまう

アモンの種類の教理や本がある

吟味もせずに受け入れないこと、そうでないと、約束の地から引き抜かれてしまう

Ex:キリストは復活しない

教会やキリスト教書店や神学校に偽りの教えが入っている

 

20:12 私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」

20:13 ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。

主にのみ頼っていった、他に方法は無い→栄光を見た

このことを習慣として身に付ける

 

20:14 ときに、主の霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタヌヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。

20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。

20:16 あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。

20:17 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」

20:18 それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、

20:19 ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。

主の霊がヤハジエルに臨み、預言を語った(賜物の活用)→主の勝利を見た

今も預言の賜物がある

新約においても預言の賜物を求める→聖書にも書いてある

 

参照 Ⅰコリント14:1

14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

 

参照 ヨエル書2.28,29

2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

 

参照 使徒の働き2:16-18

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

預言を用いて、適用するのが聖書的、聖書のパターン

吟味が必要であっても、時として、預言の霊を正しくとらえられなくても、預言をやめることに御心は無い

聖書に書かれているパターンに沿って歩む

 

20:20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」

預言者を信じてよい

神が預言の賜物を与えられることを信じる

神が預言の賜物を与えられることを信じないことは非聖書的

 

20:21 それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

20:22 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

20:23 アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。

20:24 ユダが荒野に面した物見の塔に上ってその大軍のほうを見渡すと、なんと、死体が野にころがっている。のがれた者はひとりもない。

戦いの中で賛美が用いられる→勝利を得る

賛美にポイントがある

戦いに出て行かなければいけない、信じて出発していく→信仰の行い

主に委ねるのは大切なこと、しかし、出陣していかなければいけない→実践していった結果、このときも、神が不思議な業を起こしてくださり勝利を得させてくださった

信仰を持って、戦いに出て行くことにポイントがある

ちなみにレムナントキリスト教会は戦いがメイン

Ex:獣の国がヨーロッパではなくアメリカであることを語っていく、艱難前携挙説は誤りの教えであることを指摘する、トロントのビデオ(悪霊のリバイバル集会)の公開等

現実は、多勢に無勢、しかし、出て行ったときに、勝利を得させてくださった→真理を見る人が起こされた

人数を気にしてはいけない

たとえ、人数は少なくても、御心の戦いなら神様によって、勝利を得ていく

ただし、どこかで戦いに出て行かないと勝利は得られないことも正しく理解する

 

20:25 ヨシャパテとその民が分捕りをしに行くと、その所に、武具、死体、高価な器具を数多く見つけたので、これを負いきれないほど、はぎ取って、自分のものとした。あまりにも多かったので、彼らはその分捕りに三日かかった。

20:26 四日目に、彼らはベラカの谷に集まり、その所で主をほめたたえた。それゆえ、人々はその所の名をベラカの谷と呼んだ。今日もそうである。

20:27 それから、ユダとエルサレムの人々はひとり残らず、ヨシャパテを先頭にして、喜びのうちにエルサレムに凱旋した。主が彼らに、その敵のことについて喜びを与えられたからである。

20:28 彼らは、十弦の琴、立琴、ラッパを携えてエルサレムにはいり、主の宮に行った。

20:29 地のすべての王国が、主はイスラエルの敵と戦われたということを聞いたとき、神の恐れが彼らの上に臨んだ。

イスラエルは他の国と違う→人数が少ない

しかし、主役は神様、神様が戦いに出て来られる、御心なら不思議な方法で勝利を得る

 

20:30 このようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏であった。彼の神は、周囲の者から守って、彼に安息を与えられた。

20:31 このようにして、ヨシャパテはユダを治めた。彼は三十五歳で王となり、エルサレムで二十五年間、王であった。その母の名はアズバといい、シルヒの娘であった。

20:32 彼はその父アサの道に歩み、その道からそれることなく、主の目にかなうことを行なった。

ヨシャパテの生涯→神の恵みを得ていた、道からそれなかった、ゆえに神の助けを得たり、栄光を見た

 

20:33 しかし、高き所は取り除かなかったので、民はなおも、彼らの父祖の神にその心を定めようとしなかった。

これは、NG

 

20:34 ヨシャパテのその他の業績は、最初から最後まで、イスラエルの王たちの書に載せられたハナニの子エフーの言行録にまさしくしるされている。

私たちの行いは書き記されている

 

20:35 その後、ユダの王ヨシャパテは、悪事を行なったイスラエルの王アハズヤと同盟を結んだ。

20:36 彼はタルシシュへ行くための船団をつくるためにこの王と結んだ。彼らはエツヨン・ゲベルで船団をつくった。

20:37 そのとき、マレシャの出のドダワの子エリエゼルがヨシャパテに向かって預言し、こう言った。「あなたがアハズヤと同盟を結んだので、主はあなたの造ったものを打ちこわされました。」そうこうするうちに、船は難破し、タルシシュへそのまま行くことができなかった。

ヨシャパテは例外的に2度も3度も失敗している

ここでも、イスラエルの王と同盟を結んだ

ちなみに聖書で言われている原則は時を経ても変わらない

イスラエル(新約で言うカソリック)と同盟を結ばないことを正しく理解する

プロテスタントはカソリックに対して確固たる対応を取る

神の原則:神の敵とは組んではいけない

ダメなものは、ダメ

神の意見は時代が変わっても変わらない、ゆえに、神と争ってはダメ

神がダメなものは、時を経ても変わらない

ヨシャパテの失敗から教訓を学ぶ

これからエキメニュカルが推進されていく、しかし、このことは神の前にNG、カソリックへの理解をとらえていく