へブル書10:1~10 2014.8.17
10:1律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
律法というのは、旧約聖書のレビ記、申命記などに書いてある、雄牛、羊などを捧げよという内容。旧約の人達は、この事こそが、厳守しなければいけない大事な事と思っていた。
新約の時代においては、神様が光を与えて下さり、こう言った律法にあるものは、影にすぎない。つまり、本体ではない。
律法に関しては、我々はこのように理解し、捉えて行きたい。
羊や牛は、クリスチャンの喩え。
全焼のいけにえは、聖霊によって肉の部分が焼かれて行くという事柄。
なので、そっちの方に力を入れるのが正しい。
影の部分に、強調や、思いや、ポイントを置いてしまわずに、本質的な部分を見て行きたい。
全焼のいけにえは、やはり、我々が、捧げ物、奉仕(奉仕のいけにえ)、賛美の奉仕、司会、証をするなど。 しかし、聖霊に焼かれた奉仕をしていく事。 これを実践して行かないと意味が無い。喩えの本質的な部分を実践していく事。
多くの事柄、旧約聖書に書かれていることは喩えであって、影である。
本質的な部分を主によって教えられ、行なって行く。
10:2もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
10:3ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
旧約の牛や羊の捧げ物が、神の御前に本当に効力のあるものであったなら、罪が清められるために一度捧げれば、二度と捧げる必要はない。 毎年のように捧げるのは、本当の意味で罪から清められていないから。
10:4雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
雄牛や、山羊の血は罪から清めることができない。
これには二重のニュアンスがある。
ひとつは、動物の血をもって、罪をきよめる事は無理だという事、もう一つの意味合いは、喩えで、雄山羊という言葉。山羊というのは羊と似ているが、あまり良い意味合いで使われていない。
主が再び来られた時、全ての人は、羊と山羊に分類され、羊は天国行きに、山羊は地獄行きを
宣告される。
これらの動物の血によって、罪が清められるとなっているけれども、何でもかんでも血が流されれば良いと言うわけではなくて、場合によっては、雄山羊など、ずれたものが用いられていく時には、その血によって清められるどころか、逆に、罪が年ごとに思い出される(3節)。
罪が蘇ってきてしまう。
血は、霊的な事柄に関しての喩え。聖餐式の葡萄酒は血。また、この血は、聖霊の型。
本来は、聖霊の血、葡萄酒は罪を取り除く。だから、我々は生産の葡萄酒を飲む。
しかし、全ての血が、有効というわけではない。 場合によっては、ここに書いてある雄山羊の血みたいに、罪を取り除くことができない、罪が蘇ってきてしまう、引かれて行ってしまう、
そういう類の血(霊的)もある。
なので我々はクリスチャンとして、色々な教会においてリバイバル集会が開かれるが、(ベニーヒン、ロドニーハワードなど)、罪が取り除かれないリバイバル、罪が増し加わるリバイバルなどがありうるということは、覚えておくべき。
何でもかんでも霊を受ければ良いというわけではない。
逆に増々罪に入り込んでしまう場合がある。
油断も隙も無い時代。似てもって非なるものに入って行くことの無いように気をつけなければならない。
10:5ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
10:6あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
「からだを造ってくださいました。」 「からだ」にポイントがある。
キリストの捧げられた身体が復活の身体として、キリストの身体を通して、我々はクリスチャン生活を歩んでいる。 それを前提として、奉仕は大事であるが、我々が、それのみをもって
神の全てをみたす事は出来ない。 神が本当に我々に望んでおられるのは、必ずしも我々が自分の力で奉仕をしていったり、無理ないけにえを捧げたり、そのような事のみで、必ずしも神を満足させたり、それらのみをもって、神の全てを満足させたりする事は出来ない。
奉仕が主にあって不本意であったり、全然神が用いて下さらないと思う事もあるかもしれないが、すべては益になって来る。
聖書には、「神を愛する者の為には、全ての事があい働きて益となる」と書いてある。
10:7そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
10:8すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
10:9また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
10:10このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
「前者」というのは捧げもの、今で言う奉仕。
「後者」とは、キリストのからだ。
「後者」の方にポイントがある。
「前者」は廃止。
我々が求むべきものというのは、クリスチャン生活してて、正しい方向に入って行くつもりなら、キリストのからだによって歩む事に力を注いでいく事が正しい。
逆に、旧約の捧げものや、奉仕などにずっと力を入れていく事は、ずれた歩み。
キリストの身体が捧げられたというのがポイントだが、いまいちピンと来ないかもしれないが、聖書とはそういうもの。
イザヤ書には、「ここに少し、あそこに少し」と書いてある。
聖書は、一つの箇所だけで全てを説明していない。
キリストの贖いという事に関しても、一つの手紙だけではわからない。
例えばへブル書、レビ記、創世記や諸々の書にヒントがあったりする。
聖書はそういう意味では、親切な書ではない。
しかし、求める者は与えられる。
「求めよ、さらば与えられる」「たずねよ、さらば見出さん」「たたけよ、さらば開かれん」
そういう意味で、聖書に関しても、本当に求めるつもりのない人は真理を見て行く事はない。しかし、本当に求めて行く人は、得られる。
我々にあっては、本当の意味で求め、主が言われている事柄を見て行きたい。
聖書は、本当に求めている人に分かるように書かれている。
本当に求めない人には躓くように書かれている。
ここだけを見ても、いのちの門は狭い。
いのちに至る事柄を理解して行きたい。
身体が捧げられる、キリストの身体が捧げられたという事を見て行きたい。
ローマ書
8:1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:3肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
この箇所が、神が、身体を用意して下さった、キリストの身体を用意して下さった。
「肉において罪を処罰された」。これは、キリストが十字架において死なれたこと。
キリストが十字架において死なれたのは、我々の罪の身体が死ぬ事が出来るために、代わりにキリストが十字架にかかられたということ。
8:4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
8:5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8:7というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8:8肉にある者は神を喜ばせることができません。
8:9けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
8:10もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
8:11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
8:12ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
キリストは身体を用意して下さった。
キリストが我々の罪のために十字架にかかって死なれた。
キリストがよみがえったのも我々のよみがえりのため。
キリストがよみがえられたので、そのよみがえりの身体は我々の為でもある。
我々の手は前は罪に勤しんでいたが、キリストがよみがえって、それを我々が信じる時に、我々の手は、かつては罪を犯すために用いられていたかもしれないが神のために用いられていく。思いや考え歩みに関しても、目に関しても同じ。 神のために用いられて行く様になる。
キリストの身体を神が我々のために用意して下さった。
かつては我々の思いなども罪の思いだったけれども、キリストが我々の思いをも変えて下さると信じて行くならば、そのまま実現していく。
キリストが身体を用意されたとあるように、確かに用意されて行く。
ある人達はそれを信じない。なのでその人の内には実現されない。
しかし、ある人達はそれを受けて信じるので、実現していく。
そうでないとキリストの死は無意味になってしまう。
キリストのよみがえりを自分で経験するような歩みに入って行きたい。
我々が、霊的に目が見えないとしても、キリストの目が与えられる。
そうすれば、見えないものも見えるようになる。
また、霊的に耳の遠い者であってもキリストの耳が与えられるので神の声が聞き分ける事が出来るようになる。
へブル
10:10このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
レムナントキリスト教会
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