へブル書11:2531                  2014.10.5

 

 

 

11:24信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、

 

11:25はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

 

モーセはファラオの娘の子として育てられた。

 

絶大な権力、富を持つ王の娘の子。場合によっては王位を継げるかもしれない。

 

それを拒否して歩んだ。

 

そういう意味でエジプトは、この世を象徴しているのではないか。

 

エジプトがこの世をさしているなら、エジプトの王の事などを拒否して、神の民と共に苦しんだ。  今で言えば、キリストを信じるがゆえの苦しみを甘んじて受けていく。そのような意味合いがある。

 

 

 

11:25はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

 

 

 

罪は神に逆らう。そこには一時的な楽しみがある。

 

しかし、クリスチャンの歩むべき歩みは、神の民と共に苦しむ事を選び取る。

 

聖書には「中間」「中立」が無い。言うなれば両極端。

 

一つは罪の楽しみ。 もう一つは、神の民のために苦しむ。

 

二択あるのみ。三択は無い。

 

我々は信仰を持って歩む者であるから、今の、目に見える楽しみを掴む人は多いかもしれないが、神の民のために苦しむ歩み、選び取る事に報いがある。

 

聖書は、この箇所に限らず、この様な個所がいくつかある。

 

例えば、ラザロと金持ちの喩え。  世においては、ラザロは貧乏人。  しかし、後の世では逆転する。その時になぜ、金持ちは、火で苦しむ所に入って行ったか。

 

その時にアブラハムが言った事は、「お前は、生前良いものを受けた」と言っている。

 

「よいもの」KJVでは、「お前のよいもので、生きている間は楽しんだ。」

 

言わんとしている事は、自分の楽しみ、自分のよい歩み、そういった歩みはこの世ではよいかもしれないが、後の世に必ず天の御国に入れるか分からない。

 

今の人生より、後の世の人生の方が永い。今の世の人生は、長くても100歳か120歳。

 

後の世は永遠。

 

神の民のために苦しむ歩みに入っている時に、段々と確信がわいて来る。

 

どの様な確信か、神の民と共に苦しむことによって、歩むべき神の御心の道を歩んでいるという事を聖霊によって与えられる。それと共に後の世は、金持ちコース(地獄)ではなく、ラザロコース(天の御国)に入って行く感じがする。

 

主の御心を行っていく時には、いやな目に遭ったり、苦しみを味わったりする。

 

若干苦しみがあっても、確信がある。  多少の苦しみは受けるが、成すべき神の御心を行っていく時、段々と、後に入るべき御国にはいる確信が段々、どんどん湧いて来る。

 

この世の楽しみと神の民のために苦しむ事、二つを選ぶのは不可能。

 

後の世が勝負。

 

 

 

11:26彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

 

 

 

モーセは、ファラオから、いろいろ大変な目に遭わされているが、報いとして与えられるものから目を離さなかった。ここに大きなポイントがある。

 

ギリシャ語で、アポグレポー。他の事を捨てて、それに目もくれず、一点に目を留める、そのような意味合いがある。

 

クリスチャンの歩みもそうである。

 

「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」

 

モーセはずっと目を離さないで、最後にえるべきものを得た。

 

我々もこの世の苦難ばかり見ていてはならない。

 

 

 

 11:27信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

 

 

 

王の怒りを恐れないという事をこのへブル書の箇所を見ていく時に、23度出て来る。

 

 

 

11:23信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。

 

 

 

この言葉から、語りかけを受ける。

 

これらはみな、出エジプトのことだが、世の終わりの時に再現されること。

 

御言葉は、それを明示はしていないが、暗示はしていると思う。隠された奥義。

 

黙示録を見ていく時に、出エジプトと関係するところが、いろいろ出て来る。

 

黙示録の11章には、「ソドムやエジプトと呼ばれる都」という言葉が出て来る。

 

これは、堕落した教会の事。  ソドムの特長は同性愛。これはこれから教会に入って来る。

 

教会がエジプト化(この世化)した時に、出エジプトが大事になって来る。

 

出エジプトは終末の世に起きる事の本番。それを理解するために出エジプト記は書かれた。

 

「王の命令を恐れませんでした」「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、」

 

ファラオは強引である。どうしてもイスラエルの民を出さない。10回くらい言葉を変えて、出そうとしない。

 

教会はエジプト化する。  我々クリスチャンはエジプト化した教会を出るという事をとどめられる。法律などで。

 

王の命令を恐れないで、エジプトを立ち去ることにポイントがある。

 

前提として必ず王は怒る。それで臆して出ないようではダメだという教え。

 

公の教会以外では集会を開いてはいけないという風潮がこれから出て来る。

 

逮捕されたりもする。すでにアメリカでは起きている。

 

これが、出エジプト記にある、「王の怒り」。「エジプト化した教会から出るな」

 

しかし、王の怒りを恐れて留まる事にはポイントがない。出る事にポイントがある。

 

別の表現で言えば、仮庵の祭。  仮庵は、自分の住んでいる家を出て、家の屋上に、仮庵をつくる。これも、出エジプトに通じるものがある。

 

「目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」とある。

 

これから艱難時代に入って行くという時に、大事なポイントは、目に見える法律や、目に見えるメディア(新聞など)ではなく、目に見えない方、キリストの、御言葉とか教えに注目して、忍び通していくこと。

 

目に見える世界は、どんどん信仰をとどめづらい方向に行っている。

 

ポイントは、現状が悪くなって行っても、主の御言葉に頼って行く。

 

 

 

11:28信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。

 

 

 

ここは、出エジプト記の時の過ぎ越しの祭の事を言っている。

 

エジプトには10の災いが下ったが、10個目の災いが、死の使いが、エジプト全土を回ると、ファラオの息子をふくめて、全ての家という家では、長男が、殺されて滅ぼされてしまった災い。  しかし、イスラエルの家に関しては、「家の鴨居と門柱に、子羊の血を塗りなさい、そこは、裁きを過ぎこすから」という主からの教えがあった。

 

日本もこれと似たような、祭がある。  ナマハゲ。

 

ナマハゲが来るのが、聖書の過ぎ越しの時と同じ。大晦日に来る。

 

日本はいろんな意味で、聖書に関係がある。

 

ポイントは、この事はやはり喩えがある。

 

子羊の血のもとに留まった者は助けられる。

 

血は聖霊に通じる。

 

エジプトの10の災いは、大部分は悪霊の災い。

 

ナイルの川が血に変わった。  この血は悪霊。

 

ブヨも霊的な喩え。   ブヨは、KJVでは蠅となっている。

 

蠅も悪霊と関係している。ベルゼブルは蠅の王。

 

ここで言わんとしている事は、ノアの洪水と同じ事。

 

ノアの洪水は、悪霊の洪水の中で、正しく道を歩まず、肉的な歩みをしている人達は皆滅んでしまうけれども、唯一、箱舟をつくった者(これは、契約の箱をつくる事に通じる)達は救われたということ。言わんとしている事は、契約の箱、すなわち神の臨在、聖霊にあって歩んだ人たちは救われるということ。

 

同じように、過ぎ越しの祭が語っている事は、悪霊の洪水が人を襲うけれども、この世についたクリスチャン、教会も、その災いの中に入って行くけれども、唯一、聖霊の下に留まった人たちは、滅びを免れる。

 

聖書は、いろんな表現を通して、世の終わりの時に、この世と言わず、堕落し、背教したキリスト教会と言わず、悪霊の洪水の中で殺されて行くという事をいろいろと暗示している。

 

その時に、正しく聖霊に留まった人達は命を得るという事を語っている。

 

賢いおとめ、愚かなおとめも、やはり、この類。

 

ポイントは、油がある事。聖書は、終末の事に関して、色々な表現をもって語っている。

 

ポイントはそんなに多くない。聖霊に留まっている事。 なので我々は、この事を繰り返し語っている。

 

レムナントは、祈りの事を言っている。

 

ゲッセマネの園にて、弟子たちが眠りこけている時に、「ほんの一時も目を覚まして祈っている事が出来ないのか」と、主は叱っている。この一時とは1時間のこと。

 

どんなにけずっても、1時間は祈らなければ、まともなクリスチャン生活は送れないのではないか。弟子の歩みに関してはね1時間では足りないかもしれない。

 

祈りに関して、聖書は曖昧な事は語っていない。時間のはっきりした概念を語っている。

 

祈りに関して、時間は大事。

 

それと共に聖霊の臨在と共に歩むかいなかが、世の終わりの時に明らかな区分になる。

 

 

 

11:29信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。

 

 

 

紅海という言葉も、喩えがある。  英語では、レッド・スィー。  すなわち赤い海。

 

これも、血に関しての喩え。すなわち霊的な事に関しての喩え。

 

悪霊の洪水が運命を分ける。悪霊の洪水がやって来るけれども、イスラエル人、主に正しく着いた人達はまるで乾いた地を渡るように、歩んで行った。

 

これは、ノアの洪水に通じる。  悪霊の洪水の中を、ノアたちはその身に全く害を受けずに、箱舟を通して救われたというのがおしえである。

 

しかし、エジプト人は、同じようにしたが、飲み込まれてしまった。

 

言わんとしている事は、これから出エジプトが再現するが、世界大のソドム化し、エジプト化した教会は、悪霊の洪水の中に飲み込まれて行く。

 

聖書は、繰り返し、この事を語っている。

 

世の終わりには必ず悪霊の大洪水が来るという事を語っている。

 

残念な事に、こういう事柄に目が開かれない人は、1つも理解しない。

 

聖書は表現を変え、書き方を変え、語り方を変え、同じことを繰り返し語っている。

 

そして、両極端な結末になる。  エジプトは溺れてしまうが、イスラエルは乾いた地を渡るように渡った。

 

真のイスラエル人として歩みをしていく時、我々も、乾いた地を行く。

 

レムナントも乾いた地を渡るようになって来ている。

 

 

 

11:30信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。

 

11:31信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。

 

 

 

「遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」

 

新改訳には問題な部分が所々にある。

 

この「不従順」は、正しくは「不信仰」不従順な人達→正しくは、不信仰な人々。

 

新改訳は飛躍してしまったり、行き過ぎてしまっているところがある。

 

エリコにいる人達は、皆等しく、イスラエル人がやって来るということ、滅びがエリコの城に来るという事を思っていた。

 

正しく神に立ち返らない限り、正しい神を拝まない限り、滅びが来るということを。

 

そのように警告や、偵察に来る人たちに対して、ラハブは、自分で信仰を持って、この人たちの言うとおりになるから、この警告を受け止めて、自分もイスラエルの民と一緒に歩もうと、この滅びるエリコの広場で、この人たちの言った通り滅びが来るから、自分は救いを選ぼうと思った。  他の人達はそのように思わなかった。

 

神が言われた通り、エリコには滅びが来た。イスラエルの人々が7度エリコの城壁を回った時。今の時代の我々に関しても語り掛けがある。

 

なぜなら、「角笛を拭きながら7回回った」と書いてある。

 

レムナントは「角笛ニュースレター」を出している。

 

我々は、警告して回っている。

 

しかし、ラハブみたいに素直に警告を受け入れる人と、受け入れない人がいる。

 

結果は、ラハブみたいになる。逆に警告を受け入れない人は、残念ながら、角笛の警告を受け入れないので、仕方がない。

 

エゼキエル書にも、警告の角笛を吹いた時に、歩みを糺さないなら、角笛を吹く者に責任は無い。しかし、角笛を吹かないなら責任を問われる。

 

ラハブのような歩みにポイントがある。

 

警告を受け入れて、入るべき歩みに入って行くこと。