へブル書12:1~10 2014.10.19
12:1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
多くの証人。 バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルなど。
我々も同じように歩んで行く。
楽々、身軽に歩むわけではない。 一切の重荷。色々と重荷は来る。
生活の重荷、家族の重荷、仕事の重荷など。誰にでも来る。
重荷にめげずに、必要な祈りをして行きたい。
まつわりつく罪。 原語では、「すぐに周りを取り囲む」という意味合い。
罪はすぐに周りを取り囲む。 ちょっとした事ですぐ罪に入って行ってしまう。
「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」とある。
競争という言葉。 競争。競争とか、戦いとか書いてあるが、「アゴン」というギリシャ語が使われている。英語の「アゴニー」という言葉に通じていて、苦しみとか苦難、悩む、という意味合いがある。
競争という言葉を通して聖書が語っている事柄は、楽々走る事ではない、競争して勝利を得るというのがクリスチャンの歩みだけれども、「忍耐をもって走り続ける」
どんな奉仕も、クリスチャン生活の歩みを通して、得るべきものを得ようとしているが、どんな奉仕も歩みも、戦いも、決して楽なものはない。 苦難が来て普通。
全力を尽くして敵と戦って行く、それで初めて勝利を得る。
苦しみを伴う競争を忍耐をもって走り続ける。片手間は出来ない。
真に永遠の命に通じている。だから尊い。
真に狭い門、命に至る競争は、このパウロの言葉通り。
敵も本腰を入れて来る。
12:2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
信仰の創始者・・注釈では、指導者。
我々の信仰のリーダーは、イエス様。 リーダーの言うとおりに行かなければならない。
指導者であるイエス様が、いろんなことを皆に教える。
何を信じて、どの様に行うかは、主に聞いて行くべき。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とある。
完成者 = 模範
我々の信仰の、最もあるべき姿、パターンというのは、イエス・キリストの生涯においてなされている。 信仰の歩みに関連して、最も模範的な歩みというのは、イエス・キリストの歩み。
いろいろ迷った時に、その時に主の歩みを思い出していく。
多くの場合、我々は、この世の人や、不信仰なクリスチャンを見てしまったり、主イエスから目を離すと我々も不信仰なクリスチャンになってしまうかもしれない。
クリスチャンの歩みとして、最も模範的なのは、イエス・キリストの歩み。
基本的にイエス・キリストの歩みを模範として行くなら、我々も主が得られたもの(永遠の命)
歩みとして100点満点ではないものの、高得点の真似をしたら、行くべきところに行くかもしれない。この箇所では、そんな風に読める。
一見すると、イエス・キリストの歩みというのは、かなり特殊な歩みに見えたりする。
逆に、イエス・キリストの歩みというのは、自分の事を殆どかえりみていない。地上での自分の評判や、地位や、収入や、名声など、全く考えていない。
しかしこれが最も信仰であると言われている事は、よくよく捉えておくべき。
我々は、人間的な歩みになりがちな事はよくある。
御言葉こそ全く正しいので、イエス・キリストのような歩みが、クリスチャンとして全く正しい。
レムナントも主の奉仕を優先する時、やはり、語らなければいけない口調だとか、用いなければいけない口調だとかは必要。 旧約の預言者を見てもそうである。
例: エゼキエル、イザヤ、エレミヤ
彼らははっきり言っている。
その時に、見るべき人は見る。
その結果、イエス・キリストは地上での命は失ったが、神の右に座した。得るべき永遠の命をきちんと得ている。
我々は、そのあたりもはっきり心を定めなければならない。
奉仕の結果、いろんなものを失ったとしても、場合によっては肉体の命を失ったとしても、得るべきものを後の世で得る。主がそのように歩まれた。 このあたりが、まったくの模範。
「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
辱めをものともしないという事は、恥などというものを軽蔑するというニュアンス。
これが、我々の信仰の模範であり、完成者であられると言われた者の歩みであるという事をはっきりと覚えておく。
人間にはプライドがある。しかし、辱めをものともしなかったイエス・キリストの歩みが模範。
本当に我々が永遠の命を得るか得ないかという時に、サタンは、あらゆる形の攻撃をして来る。
我々がイエス・キリストに関して特筆されている、辱めをものともしないかどうか、そういうところから足をひっかけて来る。
人間のプライドや、恥をかきたくない、自分の名誉を守りたいとか、そういったところをサタンが最後の最後に、永遠の命を得るか得ないかという時に、ずっと狙って来るというパターンがありそう。
イエス様の生涯を見ていると、そうだとわかる。
しつこく人のプライドをくすぐって来る。
しかしそれは、競争の一部。
「辱めをものともしない」と書いてあるのは我々の学びのためでもある。
我々は、人からの評判が悪くなるという事に関しても、その事に動じない気持ちを、こころの奥底で持って行くという事が大事。
主ご自身も裸で生まれて来たので、裸でかしこに帰ろう・・・・ヨブ記
我々も地上のものはみな失って行くというように思うと、納得できる。
12:3あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた」
罪びととは別にヤクザやごろつきの事ではない。
イエス・キリストに反抗した罪びとは、パリサイ人や律法学者だった。
神に仕えると言いながら、実は罪の中に入っていて、色々と反対してくる。
クリスチャンの中からも、反抗とか、我々が本当に主についた奉仕をして行く時に、妨害をして来る人がいる。
少なくてもイエス様の時がそうだった。
人からの反対だとか、評判を悪くしようだとか、反抗して来る事など、これらはあるんだという時に、イエス様もそういうものを受けていた、という事を認識し、意気消沈せずに、たとえクリスチャンであろうとなかろうと、本当に主の御心に従ってない人というのは、御心の働きを妨害してくるものだという事を頭に入れておけば、そんなに意気消沈しない。
12:4あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
12:5そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」12:7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12:9さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
特に6節、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
ここを通して知らなければならない事は、我々には霊の父がおられるという事。
基本的には、我々が悪い事をした時、叱ったり、鞭打ったりされる。
父親は、何でもかんでも鞭打つわけではない。あくまで必要に応じて。
クリスチャンが知らなければならない事は、我々には、霊の父がおられるという事。
人間の父には限界があるが、霊の父には限界はない。
霊の父は鞭打ちをする、しかも忠実にするという事。
悪い事をしたら、霊の父の鞭打ちがくる。
人間関係や、仕事関係などで嫌な事が来たりする。
その他、嫌な事が起こる。 このような鞭打ち。
思い当たる事は、主に聞けば分かる。
我々が知らなければいけない事は、「これは」と思ったことを、なおして行くこと。
そうでないと、また同じ鞭が飛んでくる。
我々も神から見れば子供。 我々は、すべてが見えているわけではない。
我々が永遠の命に必要なのがどれくらいの聖さなのか、我々の思っている事と、神のお考えが違う場合がある。どう考えても神が正しい。
神は、天の御国の基準、我々の益になる基準を持って鞭打つ。
主からの鞭打ちが来た時、反抗したり、ぶつかったりせず、素直に従って行く人が益になる。
しかし、多くのクリスチャンは神から鞭打たれても分からないという状態がある。
それは、御言葉を信じていない、神がそういうお方であるという事を信じていない。
我々の歩みの中で色々な鞭打ちがある。
その時歩みを糺す時に益になる。
レムナントキリスト教会
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