へブル書3:1~10           2014.5.4

 

 

 

3:1そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

 

 

 

天の召しという言葉が出てくる。英語では、calling=呼ばれるという事。

 

聖なる兄弟であるなら、神様の呼ばれる声に従って、出て行ったり、仕事したりという感じ。

 

同じように、主が我々に関して、呼びかけが来るという事が、聖書に書いてある。

 

肉声では聞こえないが、確かにある。

 

ひとつは神様が一人一人に、声がかかってくるという事。

 

もう一つは、その声に忠実に反応して、歩んでいく時に、入るべき天の召し、恵みに、そしてクリスチャンとして入るべき道に入って行く。このポイントは良くとらえておくべき。

 

そうでなければ虚しいクリスチャン人生を送ったり、下手をすると、天で何の報いも無かったりする。

 

 

 

3:2モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。

 

 

 

主も神様の声を聞き、神様が立てられた働きに対して忠実あったと書いてある。

 

そういう意味では、我々も、自分が、神様に召された仕事に対して、忠実であるという事を通して、恵みにあずかって行くという事を、よくよく覚えておくべき。

 

我々は何かしらの召しがある。

 

忠実という言葉は、聖書の中で時々出てくる。  不忠実はダメ。

 

クリスチャン生活の非常に大事なポイントは、忠実。   忠実の反対語は、気まぐれ。

 

 

 

3:3家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。

 

3:4家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。

 

 

 

家は、主イエス・キリストが建てられる。

 

 

 

エペソ

 

2:20あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

 

2:21この方にあって組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

 

2:22このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

 

 

 

神の住まい= 家

 

聖書に書かれている一つの教会、クリスチャンの集まりの表現というのは、「家を建てる」という言い方をしている。  また、土台には、使徒、預言者。 イエス・キリストご自身もその土台石。

 

我々も、神の宮、神の家の一部をなしていく。

 

ポイントは、我々も、この一部を担うという事。

 

ペテロはペテロとしてなすべき事を果たし、パウロもしかり。イエス様もしかり。

 

同じような意味合いで我々も、その働きの一部を担い、そして家の一部となって行く。

 

 

 

へブル

 

3:5モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。

 

 

 

モーセは忠実であった。

 

 

 

3:6しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

 

 

 

神の家が建てあがってくるという意味合いで、主は奉仕をなされている。

 

我々が、自分の果たすべき分を果たしていくなら、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家となり、神の家としての一部をなしていく。

 

あくまでも、しっかりと終わりまで、確信と、希望による誇りとを持ち続けていくなら。

 

途中や、最後の最後で倒れてはダメ。

 

まだ、家は完成していない。下の土台は出来ているけれども、上の部分がまだ出来ていない。

 

レムナントに関連した働きでは、ダニエルは確かに、旧約の預言者として、預言書を書いた。

 

ヨハネも新約の預言者として黙示録を書いている。

 

終末の獣の国はどこか、など、預言の啓示の部分の働きというのは、まだなされていない。

 

それを我々が、正しく最後まで確信を持ち、正しく行なって行くなら、我々もその一部に入るべき部分が、どこかにある。

 

家は、いくら土台だけあっても、屋根瓦1枚抜けていれば雨漏りしてしまう。

 

我々も大事な奉仕に入って行く。

 

注意点は、終わりまで忠実であること。途中や最後の最後で倒れない事。

 

へブル

 

3:7ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、

 

3:8荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

 

 

 

荒野での試みの日のように、我々は、心をかたくなにしてはいけない。

 

かたくなさは神の怒りを買う。われわれは、そのような事がないようによく覚えていきたい。

 

 

 

第一コリント

 

10:1そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。

 

10:2そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、

 

10:3みな同じ御霊の食べ物を食べ、

 

10:4みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

 

10:5にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

 

 

 

荒野の教訓というのは、新約のイスラエルとしてのクリスチャンに対しての型。

 

同じパターンを受けるという事。

 

我々に関する喩えであり、型であり、教訓である。

 

「大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」これは、聖書に書かれている事。

 

10:6これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

 

10:7あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。

 

 

 

偶像崇拝の誘惑や惑わしが来る。

 

 

 

10:8また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。

 

 

 

クリスチャンに対し、姦淫の惑わしが来る。

 

 

 

10:9私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。

 

 

 

神を試みるという惑わしも来る。

 

 

 

10:10また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。

 

 

 

つぶやく者は滅ぼされる。

 

 

 

10:11これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

 

 

 

「世の終わりに臨んでいる私たち」というのは、終末の我々の事。

 

我々に対しての教訓。

 

荒野に対しての記事は、旧約の出エジプト記やレビ記、申命記に記されていることはすべて、

 

昔の人達だけの問題ではなく、我々も同じ轍を踏んでいく時には、我々も滅んでしまう。

 

 

 

へブル

 

3:8荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

 

 

 

ここに書いてあるのは、試みの時のこと。 つまりテスト。

 

クリスチャンは、入るべき狭い門、狭い道に行き、永遠の命を獲得しようという時に、誰も彼もみな、例外なく試みを受けるという事。

 

旧約のイスラエルもそうであるし、新約の我々もそうであるという事。

 

残念ながら旧約の殆どの民は、滅んでしまった。

 

この意味でも滅びに至る門は広い。新約の我々に対しても同じだという事。

 

黙示録においても、「全世界に来る試みの日」の事が書いてあるので、やはり必ず試みは来る。

 

公平に来る。なので我々は備えなければならない。

 

滅びるのはいやだが、滅ばなかった人もいる。

 

もし、偶像崇拝や姦淫、つぶやきなどに陥ったら、悔い改めていきたい。

 

このポイントは覚えておくべき。

 

イエス様が信仰の模範。

 

我々の勘違い、それは、「自分は悪い意味で特別なクリスチャン。自分だけが酷い目に遭い。他の人が皆気楽なように見える」・・・これはサタンの惑わし。

 

その中で滅んでいく人が多い。

 

試みを経て、留まる事にポイントがある。

 

 

 

へブル

 

3:9あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

 

3:10だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

 

 

 

主の道を悟るという事が我々には非常に大事。

 

その道は狭く、見出す者は稀。

 

道がわからない事には入るべき所には、入れない。