へブル書3章9~19           2014.5.11

 

 

 

3:9あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

 

3:10だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

 

3:11わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」

 

 

 

これは旧約の時代の荒野を歩いて行った民の事。

 

だがこれは、第一コリントで見たように、これらの事は、世の終わりに臨んでいる我々に対する教訓。  この事を素直に受け入れていくのが、恵みと助けになる。

 

安息に入るのが非常に大事な事。

 

 

 

申命記

 

12:9あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。

 

12:10あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなた方を休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、

 

 

 

これが安息の地であり、安息。

 

御国の奥義という類のものがある。「あなたがたには御国の奥義を知る事が許されているが、他の人にはそうではない」と書いてある。

 

安息という言葉にもどんな奥義が隠されているか分からないので、主の知恵を持って、御言葉を見ていった方がよい。どんなところに奥義が隠されているかわからないが、それが鍵になっていたりすることがある。

 

このところを意味合いで言うと、安息の地というのは、神様が目指している、しかもそこが、

 

約束の、相続の安息の地であるという事。

 

喩えの意味合いとか、御国の奥義で言うならば、我々が、受け継ぐべく天の御国のこと。

 

安息の地の意味合いというのは、「主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなた方を休ませ、あなたがたが安らかに住むようになる。」   これが安息の地の定義。

 

その意味合いで言うならば、今のクリスチャンで言うならば、敵との戦い、狭い道に入らせまいとするサタンとの戦いが、そういった敵の働きや妨害といったものが、取り除かれる、そういう地を、神様が約束して下さっているという事。

 

これに関連して、主の怒りを買った人は、この安息の地(敵がどんどん取り除かれる地)に入る事が出来ない。

 

我々クリスチャンの歩むべき姿というのは、神による安息に入れるように求めていくのが正常であり、またこれは、相続、天の御国という事に通じる。安息の地がまだ残っているのだから、一人もそこに入れない事が無いようにと言われている。

 

ある人は入るが、ある人は入らない。(不従順になって神の怒りを買う人)

 

 

 

へブル

 

3:11わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」

 

 

 

神様の怒りを買ってはいけない。

 

安息に入るように力を尽くして求めよ、などいろいろ書いてあるので、これは大事な事。

 

徐々に徐々に安息に入って行く。

 

我々が安息なクリスチャン生活に入れるかは、神様次第。

 

そういう意味では、我々は、ポイントは、我々の歩みを祝しておられる時に、安息に近づき、入って行く。

 

 

 

3:12兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

 

3:13「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

 

 

 

罪の惑わし、という事が書かれている。  この事は、我々にとって注意点として書いてある。

 

分かりやすい例では、最初の女性であるエバ。彼女ははっきり神の言葉を聞いた。

 

「善悪の知識の実だけは、決してこれを食べてはいけない。必ず死ぬから」

 

そういう意味では、我々と同じ御言葉を与えられたのだけれども、サタンが誘惑した時に、エバの罪の誘惑というのが起こった。すると彼女の中で、神様の言われたことがどこかへ行ってしまい、「食べてはいけないといった」木の実が「見るに良く、食べるに良く、また、賢くなるにふさわしいように見えた」・・・・これがまさに罪の誘惑であったりする。

 

これは他人事ではない。この事も我々の教訓として書かれている。

 

我々が、神様の言葉よりも、自分の罪とか欲に引っ張られて行く時に、神様の言葉がどこかへ行ってしまい、全く違うものを掴んでしまう事になる。

 

具体的に言うなら、艱難前携挙説や、地獄は無い、煉獄の教理など。

 

変な教理を掴んでしまう。これが罪の惑わし。

 

 

 

3:14もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

 

 

 

「キリストにあずかる」という言葉、原語の意味合いとしては、「キリストの分け前にあずかる」

 

 

 

へブル

 

1:4御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。

 

 

 

主は地上では、人間として、御使いよりも低い位置にいたけれども、後の世に栄光を与えられ、

 

御使いよりも高い地位を得た。

 

この事を言っている。  それに我々もあずかるという事。

 

 

 

「キリストにあずかる」には、条件が書かれている。無条件ではない。

 

それは、

 

 

 

3:14もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

 

 

 

これが、難しい。

 

聖書のみ言葉というのは、書いてある注釈だとか、一緒に読まなければならない。意味なく書いてあるわけではない。

 

聖書は正確に読まなければならない。  条件も言って、祝福も言って、初めてまともなメッセージになる。

 

ここは大事なポイント。 途中で倒れる人は多い。

 

イエス様の初臨の時がそう。

 

最後まで残った人はキリストの11弟子を含め、ほんのわずかな人々。

 

初めの確信を最後まで保った。   彼らはキリストに与る者となる。御使いよりも優れた栄光を後の世で受ける事となる。

 

人数的に言うならば、やはり振るわれてしまう人が多い。

 

それが聖書の語っている事。

 

始めの確信を失ってしまう人は多い。

 

模範は12弟子。 彼らはユダヤ教の会堂に入れなくなってしまった。

 

揺るがしは必ず来る。 揺るがしというのは、荒野の人達が偶像礼拝なと色々な揺るがしを経て、尚且つ留まった者にポイントがあったように、我々においても来るという事を覚えておくべき。

 

揺るがし、惑わし、試練のクリスチャン生活を送っているなら、普通のクリスチャン生活。

 

それに留まった者にポイントがあり、留まった者と共に御国を継ごうというのが主の方法。

 

それは、イエス・キリストが在世された時も同じ。

 

最後の晩餐がひとつのいい例。「わたしはあなた方に場所を備えに行く」と、12弟子には約束しておられる。

 

我々も留まるならキリストの栄光を受けるようになる。

 

男女、国など何の区別もない。   ただ、留まった者にポイントがある。

 

 

 

3:15「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

 

 

 

神は御声を持って語る。

 

神は語られるが、ある人達は、心をかたくなにしてしまい、神の怒りを買う。結果として。受け継ぐべき所に入って行く事が出来ない。

 

この事は、クリスチャンは、よくよく、リアルに経験して行かなければならない。

 

何を経験すべきか・・それは神の御声を聞くという事。

 

肉声ではなく霊的に聞く。そこにポイントがある。

 

神の声は、場合によっては人の声とは違う事がある。

 

その時に、選択という事がある。   神の声を選ぶか、人の声を選ぶか。

 

心をかたくなにせずに神の声を聞くときに、大いに祝福がある。

 

「御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」というのは、神様の御声があるという事が前提。

 

神の声が聞こえないという事はないが、問題は心がかたくなになる事。

 

そしてもしそれが、人の声と違うとしても、神の声を聞いていく事に恵みがある。

 

神の声を聞くなら、徐々に聞く力も上がって行く。

 

神の声を聴く時には、かたくなになってはいけない。

 

 

 

3:16聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。

 

3:17神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

 

 

 

この事も新約のクリスチャンの型。   得るべきものを得られないクリスチャンは多い。

 

我々にあっては、そうであってはならない。

 

 

 

 3:18また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。

 

3:19それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

 

 

 

御声を聞いても、従おうとしなければ安息に入れない可能性がある。

 

やはり素直に腰を軽くして従って行きたい。