へブル書5章7~14    2014.6.7

 

 

 

5:7キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

 

5:8キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

 

5:9完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、

 

 

 

イエス・キリストに関して聖書が語っている事は、イエス様は特別な人ではなかったという事。

 

我々は往々にして「イエス様は、特別な人」と思いがち。

 

我々人間と同じ方であった。

 

イエス様も必要に応じて、神に叫び、祈った。   その敬虔のゆえに聞き入れられた。

 

イエス様も我々と同じように、困難や、問題の中を通った。

 

そして、祈りの中で神の助けを受けていった。

 

まして、我々に特別扱いはない。そのように聖書は語っている。

 

イエスキリストの生涯の中で、「救い」という事に関連して、生涯を通して、いろんな問題、苦しみ、迫害などを通して、そのような中で、神に示された歩みに関して、従順に歩んでいくという事を学ばれた。

 

そのクライマックスはゲッセマネの園。「父よ、願わくば、この杯を私から取りのけてください、でも、もしかなわないなら御心の通りにしてください。」

 

これは、我々に対しての模範。

 

8節の中では、イエスキリストに関して、「従順」という言葉が出ている。

 

「従う」という言葉が入っている。  原語のギリシャ語でも同じ。

 

9節では「とこしえの救いを与える」という言葉。

 

言わんとしている事は、我々が、イエス・キリストを模範として正しく、このクリスチャン生涯の、神の示された方向、歩みに関して、正しく従順に歩んでいくという事を学ぶか学ばないかによって、救いと関係してくるというニュアンスに取れる。

 

クリスチャン生活というのは、救いの喜びもあるが、困難もある。そして、従順を学ぶ。

 

従順を学ばなければ、救いは危ない。

 

サタンは反逆者。この道を入って行く者は救いから縁遠くなってしまう。

 

サタンは反逆者なので火の池に入って行く。

 

サタンに従う者たちも、同じく火の池に入って行く。

 

クリスチャンでも、神、キリストに逆らい、不従順な歩みに入って行くなら、やはり、救いが危なくなっていく可能性がある。

 

我々が、本当に真の救いに入って行くつもりがあるなら、「従順」は、学ぶべき事。

 

 

 

5:10神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

 

5:11この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。

 

 

 

ここで、へブル書の著者は変わったことを言っている。

 

「話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっている」

 

ある種のクリスチャンに対しては、ミルクしか飲めないような、柔らかい物しか食べられない類の人達、そしてまた、耳が鈍くなってしまい、語られても理解しない人達がいる。

 

レムナントは固い食物を求めてきた。

 

黙示録は固い食物。  謎が書かれていたり、難解。

 

レムナントの場合は、これを好んで出している。    黙示録セミナーなど。

 

今の時代は固い食物を食べられない人がたくさんいる。

 

聖書には終末に関して、「その日悲惨なのは、身重な女と乳飲み子を持つ女」だと書いてある。

 

終末のあらゆる言葉というのは、固い食物。

 

せっかく聖書を読んでいても、ミルクばかり飲んでいる人は終末の時代に何が起こるか分からない。  

 

終末は、固い食物を食べる人々と、ミルクばかり飲む人々の2種類に分かれる。

 

 

 

5:12あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

 

 

 

聖書の色々なメッセージや教えの中で、乳(ミルク)、柔らかい食物、簡単な教え、そういう類の教えがある。

 

今の時代の教会ははこればかりである。  一年中、初歩の教えばかり説いている。

 

明らかにへブル書の記者は、固い食物を食べるように、非難している。

 

この辺りは、レムナントが日々行っている事。

 

固い食物を食べることに関しては大いにこれを志している。

 

聖書自体を多くのクリスチャンが誤解している。すなわちミルクだけでできていると思っている。固い食物もあるのに、それにチャレンジしようとしない。

 

だから奥義とか、終末に関する事柄が見えない。

 

たとえば、姦淫の女の箇所がある。  イエス様の前に捕えられてきた。

 

律法学者らがぶつけてきた問題であった。「あなたは姦淫の女をどうするか。モーセはこういう女を石打ちにせよと言っているが、」と言っている。その時に、主は不思議な行動をされた。

 

指で地面に何かを書かれ、「ではあなたがたの中で罪のない者が最初の意思を投げよ」と言って、もう一度地面に指で何かを書かれた。

 

はたして、何を書かれていたのか。  おそらくは固い食物。

 

英語の聖書では、「一本の指で書く」とある。

 

旧約聖書にて、「一本の指で書く」というのが一か所だけある。

 

モーセの時に、神様が石板に一本の指で、十戒を記した。

 

だから、その時にイエス様は律法を書いていたと思われる。

 

律法学者は次々と退場して行った。

 

その女はイエス様を通して赦された。

 

モーセの時に石板に「一本の指で書かれた」方は、イエス様ご自身である!

 

 結局、柔らかい部分ばかり見ていると、それらの部分が見えない事がある。

 

固い食物を求めていく時に、聖書のさらに深い理解とかイエスキリストの深い理解とかが見えてくる。

 

なので、へブル書の5章が言っているお勧めというのは、いつまでも柔らかい食物、つまり表面的な理解だけでなく、喩えや謎を通して語られている奥義に関して求めて行く様にという事。それらを求めて初めて見えてくる事柄というものがあるという事。

 

これらのものを求めていきたい。

 

 

 

5:13まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです

 

 

 

乳ばかり飲んでいるとは、表面的に見える事ばかり、表面的な記述しか読めない人というのは、義の教えに通じていないという事であり、神の前に幼子。(たとえ牧師であっても)

 

この時に、柔らかい食物しか食べていけない時に、何が問題かというと、「義の教えに通じない」という事が書いてある。

 

我々が固い食物を食べて行かないときに一番問題になってくるのは、「義」「神の義」という事に関して、聖書が本当に言っていることが見えなくなること。

 

ここには、「義」という事は書いてあるが、「愛」という事は書かれていない。

 

義というのは神の裁き、神はどのように裁きを下すかということ。

 

これらは喩えとか、固い食物で書かれているので、表面だけ読んでいても何もわからない。

 

だから、艱難前携挙など、全然的外れな事を言うのは、柔らかい物しか食べていない、または、喩えも何も理解できていないという事の明らかな証拠。

 

たとえばダニエル書にも、世の終わりの裁きの事が書いてあるけれども、「義」に関して書いてあるが、そういう理解がない。

 

固い食物を理解しないで、終末の裁きを理解するというのは矛盾。

 

「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。」

 

逆に言うと、そういう柔らかい物しか食べられない人は、ニュースレターを送られても理解がないのは無理がない。

 

 

 

5:14しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

 

 

 

ここで言われている事は、感覚を訓練するという事。

 

そのことはね固い食物と関係してある。

 

我々が本当に固い食物をとり、喩えやいろんな謎を理解して行こうという時に、感覚を訓練するという事は、非常に大事。

 

神様は聖書の中にいくつもの謎を隠しておられる。

 

終末の事でイエス様が「天から星が落ちる」と言われている。

 

アブラハムの子孫は星に喩えられている。

 

新約のアブラハムの子孫はクリスチャン。

 

聖書の中にはぽつんぽつんとヒントが隠されていたり、喩えも隠されているけれども、そこにはパターンがある。

 

 

 

ホセア書

 

14:9知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。

 

 

 

悟りを理解するという事を聖霊にあって訓練していく時に、感覚が鋭敏になって、やっていることがわかるようになってくる。