へブル書71020    2014.7.6

 

 

 

7:10というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。

 

7:11さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです。――それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。

 

7:12祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、

 

 

 

律法が変わるということ。

 

アロンの書かれた律法からメルキゼデク(王であるイエス・キリストの型)の律法へ。

 

文字で紙に書かれた律法から、心に書かれた律法に変わる。

 

律法という事に関して、聖書がどのような捉え方をしているか。

 

書かれた律法という事に関して、聖書はどのような事を言っているか。

 

旧約の人にとっては、モーセの律法というのは、方法はひとつ。一生懸命にそれを守る。

 

それによって神の前に義となる。それ以外の事は考えられなかった。

 

それで、律法学者やパリサイ人と、パウロの間で大きな論争が起きた。

 

しかし、聖書は別の事を言っている。   書かれた律法、モーセの十戒など、そういう律法に関して聖書的な正しい光で言うと、

 

 

 

ガラテヤ書

 

3:22しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

 

3:23信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。

 

3:24こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

 

 

 

書かれた律法に関しての聖書的な意味合いというのは、律法を通して我々は、自分がどれ程罪深いかという事をはっきり知る、そのために与えられた。  これら律法を全て100点満点に守れというためではなかった。  我々が、自分自身を真に知るために与えられた。

 

これは、書かれた文字、旧約の律法、場合によっては新約の律法もそうかもしれない。

 

「あなたの敵を愛せよ」とか。守れない、という葛藤を通して、我々は、自分自身の有様というものが分かる。

 

新約の律法も、本当の義、信仰による義に至らせるための養育係。

 

たとえばルターがそうだった。

 

文字に書かれた律法は、「養育係」だという事をよくよく覚えておくべき。

 

それをもって絶望するという類のものではない。

 

そういう意味では、律法は変わるという事が書かれていたように、文字で書かれた律法というのは、一時的なものであり、永遠的なものではなく、途中経過のようなものであり、最終形ではない。

 

 

 

7:13私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。

 

7:14私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。

 

7:15もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。

 

7:16その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。

 

7:17この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

 

 

 

ここで、へブル書の記者が言っている事は、モーセの律法とか、旧約聖書に書いてある、律法というのは一時的なものであって、永遠に守るべきものではない、本来聖書が言っているのは、

 

アロンの祭司は一時的なものであって、これが最終形ではない。

 

逆に聖書が言っているのは、メルキゼデクの方が、ずっとアロンよりも高い位置にある。

 

これは変わる事がない。  本来の、意としていることは、メルキゼデクにある律法など、この歩みに入って行くべきだという事を主張している。

 

しかし、旧約聖書しか知らない、読んだ事がないユダヤ人達に、これを言って、皆がこれを受け入れるかというと、受け入れない。

 

新約聖書を見ていく時に、その葛藤や争いが、ずっと出て来ている。

 

特に顕著なのがパウロが、こういった事柄を、モーセの律法が一時的なものに過ぎない、我々は完全なものではないと言っている時に、ユダヤ人の会堂にいて言っているために、ユダヤ人達は怒り出し、「そんなやつは生かしておけない」と言って、大騒ぎになった。

 

皆が皆、受け入れるわけではない。

 

パウロの言う事はもちろん分かるが、旧約聖書も繰り返し読んでいるので、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記にも出てくる。

 

みな、モーセの律法ばかり。

 

しかし、やはりパウロが正しかった。

 

神様は聖書をそのように書かれた。

 

これを通してわかる事は、聖書を書かれた神様の性格、方法を理解する。

 

神様の方法は、聖書を読んでいて時々わかる事は、「意表をつく」「どんでん返し」「逆転」など、そういう言葉でしか表現できないような、びっくりするようなどんでん返しを神様は用意される事がある。

 

聖書はそういう書である。

 

そして、どうして世の終わりの時に、どんでん返しが無いと言えるか・・・

 

レムナントキリスト教会では、角笛ニュースレターを出したり、セミナーで語っている事は、確かに、我々の言っている事は、いわゆるキリスト教会の常識とは違うけれども、しかしそれは神様が啓示されている事であり、そういうどんでん返しも含めて神様が、前もって聖書の中で、そのように語られていたという事。

 

我々の困難は、パウロの困難と似ている。

 

聖書的に正しい。神様はそのように聖書に書かれた。

 

そのように語っていたけれども、常識にとらわれているクリスチャンは、誰も耳を傾けないという困難。

 

今のクリスチャンは我々が見ているような終末の教理を見ない。

 

そもそも、教会に対して裁きが下るという事を全く受け入れられない。

 

だから、艱難前携挙など、とんでもない話を持ってくる。「教会は何があっても裁かれない」など。

 

確かにこれはどんでん返しの様に隠されている事だが、やはりこれは、それこそ初めの時から、

 

場合によっては創世記の初めから、この事は預言されていたこと。

 

問題は人々が盲目になって見えていないという事であって、神様はそれを書かれている。

 

我々の困難は、やはり、パウロが感じたような困難。

 

パウロの困難というのは、主がその福音を、パウロに託された。

 

福音の管理者として、忠実に、ユダヤ人にも異邦人にも語った。

 

それは、彼が啓示を受けたから。

 

その報いは、非難であった。場合によっては命まで取られかけた。

 

我々も似たようなものだという事を覚えておくべき。

 

あろうことか、終末の啓示がレムナントに来てしまった。

 

 

 

 

 

7:18一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、

 

7:19――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

 

 

 

文字に書かれた戒めは何も全うしなかった。それによって正しい者になったわけでもなかった。

 

他方、さらにすぐれた希望に導き入れられた。「私たちはこれによって神に近づく」

 

それは、新しい律法が導き入れられた。この事も見ていく。

 

 

 

8:7もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。

 

8:8しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。

 

8:9それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。

 

8:10それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 

8:11また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。

 

 

 

ここで言われているのは、新しい戒め。新しい契約。

 

それはどこが違うというと、最初の律法、すなわちモーセとアロンの律法は石の板に書かれた。

 

そして、新約の律法、新しい律法は、心に書かれた律法。

 

我々は、今の時代というのは、心に書かれた律法に従って歩む。

 

心に書かれた律法。

 

聖書の言わんとしている事は、文字で石の板に書かれた律法を守る、これは、神様が行おうとしている正しい方法ではない、一時的なものに過ぎない。

 

本当に神様が意図している事は、我々クリスチャンの心の中に、「これが正しい」「これは正しくない」という思いを律法として、神様が心の中に書きつけるという事。

 

なので、我々クリスチャンの歩みというのは、あるべき姿というのは、今の時代にあっても、

 

教団や使徒信条などいろいろ書かれているものがあるが、それは旧約の方法であって、今の新約の方法ではない。

 

我々は、守らなければならない事が一つある。

 

それは、我々の心に神様が律法を書いてある。

 

信じた人はそれを受け、信じない人はいつまでたってもそれを見ないと思うけれども、そのように、神様が言われたら、我々は、神が我々の心に書かれた律法に従って歩むという事をしなければならない。実践しなければならない。それが、新約のクリスチャンのあるべき歩み。

 

我々が信仰を持って歩む時に、それは、リアルなものとなって行くし、生きたものとなって行き、生活の中で律法が生きて働き、助けとなって行く。

 

信じて歩まなければ、何も実現しない。 信じて歩むべき。

 

信じて歩むなら、増々、この律法が、我々の中で、分かるようになって来る。

 

「これをすべき」「あれをすべき」

 

心の中で主が語って下さる所に従って歩む。そうすれば歩みがまともなものになって行く。

 

実践していくには「信仰」が必要。

 

主が我々の心に書きつけられた律法を理解し、実践し、習慣づけていく。

 

 

 

7:20また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。