エペソ人への手紙2章 2012.12.2,12.9

 

2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」:この世の人は、皆そう

「死」について言われている→そのままの歩みをしていくなら永遠の命を得ることができない、クリスチャンとして歩まないのなら救いから外れていく

そしてクリスチャンになったら、この世の歩みと変わっていかなければいけない

2:この世の人はこの世の流れに従う、この世に支配者に従っていく

この世には、この世の支配者「サタン」がいる

クリスチャンは例外的に、その流れに逆らって上っていくように歩んでいく

たしかに「この世の流れ」というものがある Ex:新聞

「この世」はどうでもよいことを強調、そしてもっとも大事なことは書かない&言わない&意識させない、ゆえにポイントがズレているとも言える、そしてそれが「この世の方法」

クリスチャンでも、この世の霊に引っ張られ、この世のことを気にしている人がいる

そうしていくときに、クリスチャンであっても永遠の命とはまったく関係の無い方向へと歩んでしまう

クリスチャンはこの世の支配者の霊に逆らって歩まないとダメ

この世の流れに従うときに滅びを招き、サタンと同じ裁きに入ってしまう

こういった点に関して、もっとも肝心なポイントを押さえておく

ポイントポイントにおいて、この世の流れに逆らい、神のほうへと向くこと!!

後の世に目を向けて、そっちのほうに力を注ぐ

この世に引っ張っていくという「霊」があるので気を付ける

そういった「霊」をどこかで断ち切り、祈りや御言葉を読むことに励む

根本的な部分で「霊の土台」を築く

「今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」:このことは未信者だけではなく、旧約のイスラエルを思い出す、ゆえに今のクリスチャンと決して無縁ではない

このことはクリスチャンであっても不従順の歩みをしていくときに、サタンの霊が働くということを言われている

Ex:イスカリオテのユダは12弟子の一人だったけれども不従順だった

これは他人事ではない

あれもこれも従わないときに不従順な霊が働き、サタンに用いられる器になってしまうので気を付ける

そして不従順だとサタンの思惑をみごとにおこなってしまう Ex:パリサイ人、律法学者

このことはまじめに受け止める

一生懸命おこなっていても、正しい方向が見えなくなってしまう

従順にやることをやっていく

あれもこれもおこなっていくときに聖霊に導かれる→啓示が開かれ、歩みの方向が見える

第一に、まず自分自身が従順になる

そしてその流れにおいて、他の人のことをも見きわめていく

参照ヨハネ2:24

2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、

2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

神の前に従順になっていくときにイエスさまのように人のこと、すなわちあらゆる霊についても見分けていくようにもなる

 

2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

この世の人は神の御怒りを受けるような歩みをしている

この世は神の怒りを招くような歩みをしている

ゆえに再臨のときには神さまを知らない人々や不法をおこなう人々は滅ぼされる

参照 Ⅱペテロ3:7

3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

ゆえに例外的に歩みを変えて、神の怒りを受けないような歩みに入っていくことにポイントがある

この世の人は自分の肉の欲に歩んでいる Ex:お金や名誉を得る

クリスチャンであっても、こうしたいという「欲」がある

本来クリスチャンは肉の歩みではなく、十字架を負った歩みに入っていくべき

クリスチャンになっても、自分の評判や名誉が大事というのがある

ポイントポイントにおいて、主が歩まれたように歩んでいくことに御心がある

キリストは評判が悪くなっても神の御心を優先した、その結果名声を失い、カルト扱いをされ、逮捕され、命を失った

名声のこととかも含めて、すべて十字架を負っていくときに、肉と心の望むままではなくなっていく

「肉と心の望むままを行ない」→神の御怒りを受ける歩み

「自分の欲」を優先するのではなく、主が歩まれた歩みをしていきたい

 

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

実際の肉体はともかく、霊は天に座すような恵みにあずかっている

 

2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

8「救われた」→キリストを信じること、命が助かること

本来は滅びるところ、奇跡的に救われるというニュアンスがある

本来はこの世の方法に従って皆が滅びに入るところ、例外的に救われる

ゆえに例外的な歩みをしなければいけない

神が例外的に正しい方向を示してくださったので、それに従っていく

 

2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

神の作品→ユニークな言い方

私たちは神に作られていくような作品

作品は時間がかかる

時を経るにしたがって、まともになっていく

しかも神さまの作品だから、どんどん良くなっていく

ただし本当に神さまに任せるなら・・・

主に従っていくときに、だんだんと入るべきところに入っていく

しかし逆らうとロクなことにならない

主の働きに任せていきたい

「神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださった」:もし本当におこなうつもりがあるのなら、やるべき奉仕やおこないは、神さまが与えて用いてくださる

クリスチャンの成長に関して・・・「行いと奉仕」は、切っても切り離せない

聖書のあらゆるところで「奉仕」のことが書いてある

クリスチャンは神のしもべ

奉仕をしないときに、クリスチャンの本質的なことが学べなくなる

奉仕に関して惑わされた考えがあるなら、どこかで変えられていったほうがよい

奉仕をする中で啓示が開かれる Ex:セミナー

啓示が開かれることと奉仕とは密接な関係がある

奉仕は神さまに用意されている、しかし、「やらない!」と決めているなら、備えられない

弟子の歩みをしていくときに大事なポイントをつかみ、成していく

弟子の歩みをしていく中で、本来の召しや本格的な召しが示され、与えられていく、そして忠実におこなっていく

 

2:11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、

2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

異邦人(未信者)とイスラエル人(クリスチャン)の差は大きい

 

2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

(11,12節の続き)そうかといって、異邦人(未信者)とイスラエル人(クリスチャン)の区分をずっと続けることには御心は無い

主の時には異邦人にも救いが及ぶ

参照 ローマ人への手紙11:11

11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。

イスラエルが御言葉を拒否したことによって、異邦人へと救いが及ぶ

今まさに、そうなりつつある

クリスチャンが聞かなくなっている、しかし未信者が耳を傾ける時代がきつつある

「キリストの血によって近い者とされたのです」:まったくの未信者であっても、キリストの血(聖霊)によって近くされる

私たちを神に近付けるのは聖霊

神からずっと遠くに離れていても、聖霊によって非常に近い者になっていく

知識よりも聖霊を求める、そうしていくときに必要な啓示が与えられたり封印が開かれたりする

 

2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

「二つのもの」:異邦人(未信者)&イスラエル人(クリスチャン)

「一つになる」というのは、聖書の一面の奥義

参照 黙示録11:3,4

11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」

11:4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。

「燭台」とは、「教会」のこと、そして「二つの燭台」とは、「異邦人(未信者)&イスラエル人(クリスチャン)から成る教会」について言われている

「二本のオリーブの木」について

参照 ローマ人11:24

11:24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。

「野生種」:異邦人

黙示録に戻ります

「ふたりの証人」:異邦人&クリスチャン

世の終わり、異邦人の中からも、クリスチャンの中からも、御心の教会ができてくる、そして、ひとりの人のように神に仕えていく

 

2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

「神との和解」について

神を知らない=神と敵対関係にある、ゆえに神との和解は大事

神と和解しないときに、いつ滅びがやってくるかわからない

Ex:シロアムの塔

参照 ルカ13:4,5

13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

未信者の人は皆、神の怒りの下にある

神と戦争状態だと大変→爆弾が雨あられのように落ちてくる

しかし私たちクリスチャンは、主の十字架の血によって和解されている

神と和解するかしなかによって、天と地との差がある

けれどもクリスチャンであっても、このことに関して「どうでもよい」と思っている人がいる→これはNG

「和解」についても、決して惑わされることなく受け入れていきたい

 

2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

異邦人もクリスチャンもだんだんと差が無くなる

 

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

神の家族になる

 

2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

「教会の土台の石」は、使徒とか預言者等、キリストの教えによって成り立っている、それが「教会」

土台石:キリストの言葉、使徒と預言者に与えられた言葉

Ex:エゼキエル、エレミヤ、使徒パウロ、ペテロ等の書簡

家は土台から崩れる、ゆえに土台が大事

キリストの言葉は変わらない、しかし土台に攻撃を仕掛けたり崩そうとしたりする働きは、今でもずっと続いている

私たちの信仰の土台は揺るがされたり、ぐらつかされたりする、特にカソリックがその代表例と言える、もちろんカソリックだけでなくプロテスタントもそう

土台を揺るがそうとする働きはゆるされる、それについての問題点→今のクリスチャンは聖書をちゃんと読んでいないため、揺るがされたときに倒されてしまう

その最たる例は創世記に出てくる「エバ」

彼女のことを見習ってはいけないし、また他人事と思ってもいけない、誰でも「エバ」のように失敗する可能性はある

エバは御言葉に対してあやふやだった、そのことをサタンは知っていたのでくらつかされ、永遠の命を失ってしまった、ゆえに聖書をよく読むこと!!サタンはそういうところを、ついてくる

土台を固めることにポイントがある

キリスト教会は土台を揺るがす方向、しかし逆方向へ行くことを常にこころがける

御言葉を益々読んでいく

メッセンジャーも時として間違えるので、自分の目でちゃんと読むこと、そして自身が教えられたことこそがもっとも強い

聖書をちゃんと読んでいない人は、サタンにつっこまれる

しかしきちんと読んでいれば、跳ね返すことができる

 

2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

「宮」に関しての語りかけ

私たちは教会として「神の宮」になる

「宮」(教会)に関しては、Ⅰ列王記のソロモンのところに詳しく書かれているのでよく読んでおく

「宮」では「香」を焚く

「宮」のメインは宮の祭壇で羊や牛を捧げる、これは「全焼のいけにえ」のこと、すなわち「聖霊にある奉仕」を捧げていく

Ex:賛美のいけにえ

「神の奉仕」はかけがえのないこと、ゆえにきちんとおこなっていくときに「恵み」がある

奉仕を通して、それぞれの人の「信仰」はたてあげられる

「歩み」において「宮」を尊重していく

祈り&奉仕を捧げていくときに、霊的な成長や益をもたらす

知識、悟り、啓示を得ていく、こういった面に関しても、聖書の言葉を尊重していくときに恵みに入る

 

2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

教会は神の住まいになる

教会には神が住んでいる

このことも信じることに恵みがある

参照 創世記28:12

28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

場合によっては教会に「天使」が働いてくれる、そのことを期待していきたい

教会を通して色々な事柄が開かれる

Ex:獣の国がアメリカであるとか出版の働き等