テトス.への手紙1章1~8      2014.2.23

 

 

 

 

 

1: 1神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ――私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。

 

 

 

「真理の知識」

 

「知識」はギリシャ語では、エピギノスコ。

 

ここで言う「知る」「知識」とは、直接的に手で触ったり、目で見たりだとか、そんな風に知っている、具体的によく知っているという意味合い。

 

パウロは、真理に関して、ただ知識で知ってるという事ではなく、直接的に知っているというニュアンスがある。

 

真理を知るという事にも段階的がある。

 

:「イエスキリストは、神の子である」とか、そういうレベルだけでなく、やはり手で触れるような、肉親を知っているような意味合いで「知る」というニュアンスで真理を知ることがある。我々も、このような意味合いで、リアルに真理を知っていくということが、神の働きにたずさわっていく時に非常に大事。

 

リアルに真理を知るときに語って行く、という気になる。メッセージが出来るようになる。

 

浅はかな知識では、神様に任じられない可能性がある。

 

 

 

世の終わりには悪霊の教理、働きがどんどん教会の中に入ってくる。

 

「真理を知る」という事は、浅いとか、言葉の上では分かっていても、いざ少しでも惑わしが来た時、殆ど真理を掴んでいなかったり、見ていなかったり、というのは問題がある。

 

見て、触れるような意味合いで、真理に密接して理解する。

 

これが、働きの基本であり、根本である。

 

このような奉仕をしていく内にだんだん見えてくる。

 

そしてリアルに見えてくる。  そういったポイントが大事。

 

 

 

1: 2それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。

 

 

 

「偽ることの無い神。」KJVでは、「偽ることが出来ない神」「偽りのない神」「偽りを行うことがない」ということは、聖書の中に度々繰り返し書かれている。

 

 

 

逆に人の行ないや言葉というのは、空しかったり、実現しないということが多いにある。

 

聖書を読む中で大事なポイントというのは、神様がどのようなお方か、神様の言葉が、どれもこれも、神様が一度語られたことは偽りがなく、全て成就する、という事を身をもって聖書を読んで理解する。

 

人づてのものではダメ。

 

「偽ることのできない神」そのことに関して神様は、度々ご自分を証されている。

 

偽ることの無い神が永遠の昔から約束して下さった、永遠の命をもたらすこと。

 

正しく行なって行くのなら神様が約束して下さるので心配ない。

 

偽ることのできない神の言葉は我々にとって未来の事。

 

:艱難時代、再臨、再臨の時に挙げられる(艱難前ではない)

 

今は言葉の上だけでも、「偽ることとのできない神」という事を我々の霊の深みにおいて理解していく時に、揺るがされることはない。

 

だから今きちんと御言葉に触れ、その中で、神様ご自身が「偽ることのできない神」という事を自分の霊で確認するという事が非常に大事。  何故ならこれからは、世の中は増々クリスチャンを惑わしたり、揺るがす方向へ行くから。

 

神様ご自身が「偽ることのできない神」という事を自分の霊で確認するという事は重要なポイントとなる。

 

聖書は読むべきものであり、祈りはして行くべき。

 

 

 

1: 3神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです。----このパウロから、

 

 

 

宣教とは、言葉で話すこと。神様はこの方法に非常にこだわっている。   礼拝で言うならメッセージ。

 

 

 

第一コリント

 

1:21事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

 

 

 

ちゃんと話せるように祈り求めていくこと。  これは大事なポイント。

 

いろいろな戦い、妨害、惑わしが来る。 ここを退かないで語って行く。

 

それを通して多くの人が真理を見たりする。

 

宣教というのが非常に大事なポイントであり、神様の働き。

 

 

 

1: 4同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。

 

テトス

 

1: 5私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。

 

 

 

町ごとに長老を任命する=現代で言うなら、各町に牧師を任命するという事。

 

教会の発展、開かれる事は、長老にポイントがある。

 

 

 

1: 6それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。

 

 

 

長老に関して言われていることは、教会を管理したり、働きを担って行くという場合には、ひとつのポイントは、子供にある。子供の状況次第で、その人が教会で長老としてやっていけるか判断せよという事。

 

 

 

不品行をギリシャ語の意味合いで見ていくと=不信者。救われてない人というニュアンス。

 

大事なのは、自分の家で子供が救われていなければ、教会において人を救いに導くのは難しい。

 

子供が権威に従わないのはよくない。

 

 

 

1: 7監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、

 

1: 8かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、

 

1: 9教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。

 

 

 

御言葉をしっかり守っている。

 

こういった人たちが教会の中心になり、それをもって教会、地方の教会は強められて行く。

 

それによって教会の土台は築き上げられる。