ヤコブ3章1~10 20014.12.28
3: 1私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
教師に関する箇所。 神の言葉には耳を傾けるべき。
我々は、弟子の歩みの一貫として、御言葉のメッセージの訓練をして行く。
それと共に、御言葉の学び、祈りの訓練をして行く。
ヤコブは、「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」と言っている。
この事は、耳に留め、心に留めておくべき。
そういう意味では、教師というのは、危険な仕事。
物理的な危険ではなく、「格別きびしいさばきを受ける」危険。
教師の奉仕は、一面祝福だが、「格別きびしいさばきを受ける」奉仕。
主イエスが、律法学者やパリサイ人(今で言う教師)に対して、「ゲヘナの子ら」と言われた。
教師が偽善の奉仕をそのまましていくなら、間違いなくゲヘナ(地獄)に入る。
だから教師というのは危険。
そして、この奉仕には、サタンによる攻撃も強い。
しかし、本当に、主が、その召しに導いておられることがある。
その人にとっては、それしか召しが無いという事もある。
パウロは、「私は天からの召しに背かずに走るべき行程を走り終えた」と言っている。
しかし、パウロも教師をやっていた。主以外にはパウロ以上の教師はいない。
書簡の数も一番多かった。
でもそれが彼の召しであった。
3: 2私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。」と書いてある。
「失敗」という言葉。ギリシャ語では、「躓かせる」という意味合い。
言わんとしている事は、教師、牧師が、クリスチャンを大いに躓かせるという事。
そういう意味で、我々は、聖書的な意味合いを、教師、牧師に対して持たなければならない。
一つは、わざと躓かせようとして牧師や教師をしている者はいないが、結果として、教師や牧師によって、信仰を躓かせたり、歩むべき道に入れないという事がありうる。
この事を理解したうえで、クリスチャン生活を歩む事。
どんな牧師や教師も、一生懸命にやっているだろうが、結果として信者、クリスチャンを躓かせる事がある。
そういう意味では、そんなものだと思って、教会生活を送るのが正しい。
なので、一喜一憂しないこと。 教師、牧師は間違えるもの。
正しい所は受け入れても、「ちょっと・・・」という所は、あまり深刻に受けない事。
「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とある。
教師や牧師の失敗の中で、最も大きな部分というのは、「言葉」に関する事。
この「言葉」に関しては、二種類の意味合いがある。
教師や牧師に関して、一番の躓きの問題は、言葉に関する事。
はっきり言うなら、教理、教えのこと。
それによって躓かせたり、場合によっては、「自分に倍勝るゲヘナの子」にしてしまう。
それが一番大きな問題。 逆に言うならば、ここに書いてあるように、「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」
我々がもし、教師を目指していくならば、言葉で失敗をしない事。教理、教えで失敗しない事。
なぜならこれは教師として最も大事なところをクリヤしている。
「からだ全体」という事が書いてあるが、喩えでは、キリストのからだである教会のことを言っている。
なのでからだ全体を制御できる。教会全体をきちんと歩むべき道に導いていくというのがポイント。
教師、牧師として関連するのは、良くも悪くも、教理、教えに関して、ヤコブ書は、非常に重要視している。
残念ながら、今の牧師は、教理において多く間違っている。
ローマ法王は進化論は正しいと言っているし、創世記を否定する。
そういう意味ではその手の教理は話半分に聞いて行くのが正しい。
なので、御言葉、教理に関しても、大きな問題がある。
そして、教師が間違った事を言うと、その人が尊敬できる教師であればあるほど、皆、言葉に聞き入って、結果として躓いてしまう。
例えば、「福音の総合理解」」これは、御言葉に書いてある事を額面通りに受け取ってはいけないという、とんでもない教え。
例えば、よきサマリヤ人の教え。 祭司、レビ人、サマリヤ人の3人。
イエス様は、このうち最も傷ついた人の、隣人は誰かと言った。
一人が答えて、その人を助けた人だと言った。 「あなたも行って同じようにしなさい」と、主は言われた。
ところが、福音の総合理解を行っている人は、「ここに、行なえ」と書いてあるが、「それを文字通りに受けてはならない、総合的に判断しなければならない、福音は、信仰によるというのが総合的な理解だから、一言一句でその気になってはいけない、行なって行ってはいけない、信仰が大事だ。行ないを強調することに引っ張られてはいけない。」などと言っている。
だが今は、福音の総合理解より、もっとひどい教えがいっぱいある。
「言葉で失敗する」と書いてある通り、御言葉や教理においての失敗は大いにある。
「全てを吟味しなさい」と御言葉に書いてある通りに、教師を、その人格を信じて、その人の言う人をみんな受け入れてしまうというパターンがあるが、そうではなく、どんな教えであるか吟味していかなければいけない。どんな霊も吟味していかなければいけない。
盲目に受け入れてしまえば、根本的な教えが台無しになってしまう。入るべき所に入れなくなってしまう。
3: 3馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
そして、ヤコブ書3章は、教師に関しての喩えがいくつも出て来る。
例えば、3節で馬を制御するためにくつわをかける事が書かれている。
馬とは教会全体、くつわは教師。 ここは、教師に関しての喩え。
3: 4また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
船全体は、教会の喩え。
船は水の中を動くもの、これは聖霊の水の中を歩んで行くものとして、これは教会の喩え。
舵はそれを導く者として、教師、牧師の喩え。
3: 5同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
舌というのは、大きな体の一部、たった一つの器官。
身体には目も頭もあるが、舌は一つの器官、
体全体は教会を喩える。キリストの身体である教会。
舌は、言葉を語る器官として、教師の喩え。
ここに関して書かれているのは、教師に関しての喩えがいろいろ書かれている。
3: 3馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
馬の身体を引き回すように、教師によって教会全体がグッと引っ張られて行く。
3: 4また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
どんな大きな教会であろうと、牧師、教師によって、方向が変わって行く。
典型的な例では、カトリック教会。
カトリックで一番偉い教師は、ローマ法王。
カトリック教徒は日本の全人口よりも多い。
その人達が皆、マリア崇拝したり、進化論を正しいものとしたり、地獄は無いとかの教えに皆引っ張られてしまっている。 恐ろしい事である。しかし現実にカトリック教会で行われている。 ヤコブ書に書かれている事は現実に起きている。
教師が、どんな教師かという事は、教会全体に良くも悪くも、全体に影響を及ぼす。
ヤコブ書にもやはり表と裏に字が書いてある。
裏を見ていく時に、実は、教師に関して、災いという事が書かれている。
3: 5同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
誇るのは、良くない。それは罪であり、問題なこと。
あと、行き過ぎてしまう。
ローマ法王は、「キリストは確かに教会の主だけれども、それは生きている間だけ、今は、ローマ法王が、キリストに代わって教会全体を治める。」などと言っている。
3: 5同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
3: 6舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
舌は教師の喩えであるが、これは巻き物の裏に書かれている部分。
教師によって、あろうことか、ゲヘナの火によって焼かれて行ってしまう。
体全体が汚され、人生の車輪を焼いて、滅びに入って行く。
恐ろしい事が書いてあるが、この一面は読んでおくべき。
今の教会は喩えの理解をしないから、かなり大事な事が書かれているが、このあたりの事を
読み取れない。
教師と何の関係もないと思っている。
聖書は表と共に裏をも読まなければならない。
表の面としては、舌は不義の世界、我々の舌も不義の世界なので、やはり、言葉を気をつけなければいけない。これは教師に限らず、どのクリスチャンもそうである。
我々は、結局、言葉とか舌で罪を犯しやすい。
喩えの意味合いも理解していく。
5節には「ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。」
「火」は霊的な事の喩え。 教理によって、惑わしの方向へ教師によって引っ張って行かれる事はある。 これは一面。
教理、御言葉、パンに関しての事柄。
もう一面ある。
教師が語っている時に、霊的な面がある。
理解しなければならない事がある。
メッセージを語る時に、教理、教え、知識の事ばかり気にするが、語っている人から霊が下る。
こういう面もちゃんと見て行かなければならない。
「火」によって燃やされるというのは、霊的な面がある。
一つは我々が教師として勤めを果たしていく時に、この面はよく覚えておかなければならない。
教師としてメッセージをしていく時に、目には見えないかも知れないが、聞いている人々に霊的な影響を与えていく。 霊的なものを下す。
クリスチャンでも勘違いする人がいる。
教会のあらゆる奉仕は、その人の普段の歩みが全て関係してくる。
罪とか、汚れた者に触れ足りしたことが大いに関係してくる。
歩みを聖くしていくつもりが無いのなら、この奉仕をする資格は無い。
その場でやめてしまった方が良い。 災いに入ってしまうから。
わざわざ教師になって、災いに入って滅びに入ってしまっては意味がない。
この面は知っておかなければならない。
霊的な火で燃えるという事。
「あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。」
ロドニーハワードの集会に言った2千人ほどの人は、変な霊の「火」にやられてしまった。
変な霊は、教師によって来る。
6節の様に、「舌は火であり、不義の世界です。」
教会の中の偽りの教理は、教師を通して入って来る。
「舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」
教師が間違った教理を掴んだ時、その教理は教会全体を汚す。
「人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」
ゲヘナの火で焼かれるという事は、教会全体もゲヘナに導かれる。恐ろしい事。
この様に書かれている以上、これは実現する。
いい例が、カトリック教会。
マリアを拝んだり、「聖書にも間違いがある」「地獄は無い」
このままでは滅びに入ってしまう。
教師に関しては、吟味が必要。
人を見てはいけない(カリスマ的な器など)。
我々は聖霊にあって吟味していかなければならない。
そうしなければ、とんでもない所に導かれてしまう。
この様に書いてある以上、これは現実にある。
ゲヘナ(地獄)に導くような惑わしの偽りを語る教師、惑わしの霊を下す教師がいる。
カトリックは、あらゆる意味で、蛇の教え、惑わしの教えがあらゆる方向で用いられている。
煉獄の教え、セカンドチャンス、「イスカリオテのユダですら天国へ入る」
「人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」
この御言葉は教師に関していっている。
やはり、選ばなければいけない。
教会は「どこでもいい」と言うわけではない。
3: 7どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
3: 8しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
聖書の巻き物は、表にも裏にも文字が書いてあるが、裏に書いてある事は恐ろしい。
特に教師に関しては。
「舌を制御することは誰にも出来ません。」と書いてあるように、教会の中で、教師とか牧師
は制せられない。
「死の毒に満ちています。」
ローマ署
3:13「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「まむしの毒があり」とある。
これは蛇の毒、まむしの毒。
主は、律法学者、パリサイ人に対し、「蛇よ、まむしのすえよ」といった事に通じる。
それと共に「蛇よ、まむしのすえよ」という言葉は、創世記のエバを騙した蛇に通じる。
創世記の蛇は型。ポイントは、「蛇よ、まむしのすえよ」と言われた、律法学者、パリサイ人のこと。
今の時代で言うなら教師。
我々が教師によって間違った教理、教え、解釈を与えられてしまい、その毒にやられてしまうなら、命に影響が出て来る。
教師の毒は、まむしの毒に比せられる。
我々は教会に行って、教師、牧師の話を聞くという時に、どこかで、そういう事に関しての危険性を見なければならない。場合によっては蛇の毒にやられてしまう。
選びようによってはとんでもない教えとか、教師の教えを受けていく時に、命に係わる。
教会での毒は、すぐには目に見えない。即効性があるわけではない。
10年~30年経って、結局滅びへ入る。
我々は、教師とか教会に関して、聖書的な目で見なければならない。
「死の毒に満ちている」とまで書いてあるので、場合によっては滅びに入る。
そういう教えがある。
よくよく吟味しなければならない。
ヤコブ書
3: 9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
3:10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
我々が教師をしていく時に、正しい歩みをして行かないときに、祝福どころか、呪いの霊が出てしまうことが多いにあるので、この奉仕に関しては気を付けて行かなければならない。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
Tel
E-mail koukanojisan★yahoo.co.jp
(★の箇所を@に変換してください)
天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著