ヤコブ書3:8~18 2015.1.4
3: 8しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
これには二重の意味合いがある。
我々はクリスチャンとして、自分の舌を制するという事は大事。
舌は、教師に対しての喩え。 教会はキリストの体。
舌は、体の一部分。
神のみ言葉は、辛辣ではっきりしている。
聖書の視点にしたがって、神のみ言葉の語ってる視点に従って、教師とか、牧師を見て行かなければいけない。
「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪である。」
こういう面がある。 教師、牧師を通して、死の毒(蛇の毒)が出る事がある。
蛇は、エデンの園でエバを騙したあの蛇に通じる。
エバは、その蛇の毒にやられて永遠の命を失った。
創世記において、アダムとエバが命の木から追放された。
これは、永遠の命を失う事の型。
蛇にやられて、永遠の命を失う。これは、主イエスが「蛇よ、まむしのすえよ」と言った、パリサイ人、律法学者、つまり教師の型。
この事は、イエス様の時代のことであって、現代には関係がないというのは、とんでもない間違い。
残念な事だが、今の時代も全く同じ。 教師を通して死の毒が行く。
典型的な例は、ローマ法王。
ローマ法王を通して、「地獄は無い」、さらに最近では、他の宗教にも救いがあるような教え「仏教、ヒンズー教にもその道を通して神に仕えることが出来、神は喜んで下さる。必ずしもクリスチャンになる必要はない。」
マザーテレサは、すっかりそれを受け入れてしまった。
これは、ローマ法王の舌を通しての「死の毒」。
カトリックのインチキは分かりやすいが、それだけでなく、プロテスタントでも、大いに死の毒が回っているけれども(たとえば艱難前携挙説)、理解していない。
聖書は警告として書かれている。しかし、「見るには見るが悟らず」なので、警告になっていない。しかし、我々にあってはそうであってはいけない。
主が「あなた方には御国の奥義を知る事が許されているが、他の人々にはそうではない」と言われたが、「御国の奥義を知る事」は許してもらった方がいい。
弟子の歩みの中で、奥義を知らされていきたい。 そうでないと、天の御国に入れない。
だから「御国の奥義」。
3: 9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
3:10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
賛美と呪いが同じ口から出て来る。
要するに、一人の器、すなわち、教師や牧師。
一人の器を通して賛美が出て来るので、「あれは素晴らしい牧師だ」「素晴らしい教師だ」「恵みばかりだ」と思うかも知れない。
聖書の奥義は、そんな単純なものではない。
牧師、教師のメッセージを100%受け入れてしまう時に、賛美だけではなく、呪いも来る。
結論としては、教師や牧師のメッセージは「吟味」しなければならないという事。
全面的に受け入れてしまう人は、危険なものを受け入れる事になってしまう。
同じ口、同じ教師を通して、祝福も来るが、呪いも来る。
残念ながら、これは現実。
例えばローマ法王にしても悪いことばかり言っているわけではない。良い事も言う。
3:11泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。
3:12私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。
ここでは「水」の事が書いてある。
これもまた、教師の事を言っている。 そういう意味では聖書は単純。
しかし、分からない人は分からない。
「水」なので、これは霊的な事柄に関しての喩え。
イエス様は「私を信じる者は生ける水の川が腹から流れ出る」と言われた。
生ける水の川とは、イエス様を信じる者に与えられる聖霊の事。
甘い水は聖霊だが、苦い水は悪霊だったりする。
あってはならない事だが、あるのが現実。
同じ教師の口を通して、ある日は甘い水(聖霊)が下り、ある日は苦い水(悪霊)が下ったりする。
「賛美とのろいが同じ口から出て来る」
あってはならないが、ある。 これは聖書に書いてある事なのできちんと理解しておく。
メッセージを受ける側が気をつけなければならない。 つまり自己責任。
それぞれの教会には、それぞれ神様の働きが来ている筈だが、教会によって、独自な、神からの霊でないような霊が流れている事がある。そういった事も見分けていきたい。
3:13あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。
知恵のある賢い人。
もし我々に、神の知恵、教えがあって、そして人に語るとかを示された時、またはそういう働きに入った場合、それをどのように示していくか、または表していくか。
その時は、「その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。」
一つは、柔和な生き方、その行いによって語って行く。
それを通して、見る人、聞く人が、真理を見て行く。
真理、正しい啓示があるのは事実だけれど、それをどの様に提示するかで変わって来る。
柔和な方法を主によって、示されて行く時に、効果的に用いられる。
3:14しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心」とあるが、これも、教師や牧師に関しての教え。往々にしてこのような事はある。
聖書はすべての人の心を見抜く。
「真理に逆らって偽りを言うように」なる可能性が、教師の一つの危険性。
教師のメッセージが、聖書の真理を偽って、偽りの教えを語ってしまう危険性。
この箇所は教師に対する注意。
3:15そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
3:16ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。
これらはみな、教師に関して言っている。
そんな知恵を用いる教師に関して言っている。
たとえ「すごい教えが来た」と言っても、地に属しこの世のものだったり、肉に属し人間的なものであったり、悪霊に属するものだったりする。
この様にヤコブが前もって、教師に関して悪霊に属するような教えだと言っている。
実体のない事をヤコブは言っておらず、現実に教会の中で起こると理解していくのが正しい。
悪霊の教えというのは、教会の中にあり得るし、実際にある。
「艱難前携挙説」は全く悪霊の教え。 カトリックの「煉獄」という教えも、悪霊的な、巧妙な惑わし。カトリックではこれを受け入れている人が多い。
教会の中に、悪霊の教えがあるという事を、ヤコブは預言しており、実際にそれは起きている。
これらの事を捉えて行きたい。
そうすれば、主の方法で、備えが出来る。
「地に属し、肉に属し、」つまり、この世的な教えが入って来る。
おそらくこれから、同性愛もどんどん教会の中に入って来る。それはこの世的な教えだから。
この世の人は、それを喜ぶ。「教会も話が分かるようになった」
しかしそれは、この様な日が来ることをヤコブ書で前もって言われた事。
そういうものを受け入れる事に御心は無い。
悪霊的な教えとか、この世的な教えは、多く教会に入って来るけれども、
3:17しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
それをもって、正しい教えか、そうでない教えかは見えて来る。
レムナントは警告の奉仕に召されているが、その場合、教えが来て、その教理に従って行く時に、なにか敵対的になったり、人を憎むような心になったり、平和がなくなったり、厳しいだけの教えになったり、人を憐れむことがなくなったりするのなら、神からの教えではない可能性がある。
平和、寛容、憐れみを通して、分かる人は、分かって来る。
3:18義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。
我々はかなり過激な事を語ってはいるが、そうであっても出来る限り、平和を持って語って行きたい。
全く受け入れない人には、つっけんどんに文句を言われるかもしれないが、そこは謙虚さをもって、平和のうちにこれらの種を蒔いて行きたい。
分かる人は分かって来る。
我々が、傲慢に語っていたら、分かる人も分からなくなる。
真理が真理であるが故に、増々、謙虚さを持って、必要な事を語って行きたい。
レムナントキリスト教会
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