ヤコブ書5:1~7 2015.1.25
5:1聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。
5:2あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、
5:3あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
ヤコブ書は、金持ちに対して厳しい事を色々書いてある。
これらの事を、神様は意味を持たせて書かれているという事を見て行かなければならない。
ヤコブ書は、あらゆる所に喩えや隠された意味合いを持つ書。
喩えや、謎の理解をしていきたい。
金持ちという事に関連して、聖書の言う金持ち、その喩えの意味合いを見て行く。
金持ちに関して、やはり災いを語られている所がある。
聖書には、度々金持ちに対しての災いが語られている。
「金持ち」という言葉が使われている、聖書の他の箇所を見て、そこから金持ちに関しての、
聖書が語っていることを見て行く。
黙示録
3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
まさに、ヤコブ書の言っている金持ちが、これに当てはまる。
そして、ラオデキヤの金持ちというのは、神の視点と、人間の視点が全く違う。
「自分は富んでいる。乏しいものは何も無い。」
本人には、聖霊の賜物が来て、「自分はすごい器になった」、「癒しもある」、「奇蹟も行える」「天国では特等席だ」などと見えるが、神の目には全く違う。
これは、明らかに霊の惑わし。
神の視点からは、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
なぜそんな違いが出来るのか。簡単に言うならば、悪霊の洪水の中でそういう事が起きている。
世の終わりの事を考える時に、色々なキーワードがあるが、一つは、主が言われた言葉、「世の終わりは、ノアの時のようである」
洪水以外何もない。この洪水は、悪霊の洪水。
マタイ
24:37人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
24:38洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
箱舟に入るその日まで、「人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」
「飲んだり食べたり」を、今の時代に喩えるのは、教会において、クリスチャンが、聖餐の葡萄酒を飲んだり、パンを食べたり、「めとったり、とついだり」とは、キリストの花嫁になるなど、その様な意味合い。
39節で、「彼らはわからなかったのです。」というのは、非常に意味深。
「洪水」は、分からないように来る。
今の時代の霊の洪水というのも、分からないように来る。
結構、洪水に巻き込まれている人がいる。
24:40そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
24:41ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
「その時」とは洪水の時。
これを「携挙」だと言うクリスチャンが多いが、全くの勘違い。
問題は、「畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」
「畑」というのは、神のみ言葉を蒔くところとしての喩え。教会、宣教のこと。
クリスチャンの一人は取られ一人は残される。
「取られる」ということは、文脈から見れば、明らかに洪水によって取られる。
「一人は残される」残される者にポイントがある。
「ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」
「臼」も教会と関係がある。臼は、麦をひく物。麦は御言葉と関係がある。
御言葉と関係している事をしている女(教会)。
悪霊の洪水のリバイバルで残る者にポイントがある。
ラオデキヤの教会を通して、金持ちの問題点というものを見たい。
要は、今の「聖霊の第三の波」、「トロントブレッシング」、「ペンサコーラリバイバル」などのリバイバルの流れの働き。これらはね悪霊の洪水のリバイバル。その中で、みんなリッチ(金持ち)になっていく。「賜物を得た」「すごい器になった」「いろいろ奇蹟を行なえる」など。
しかし、それは神からの霊ではないので、ラオデキヤの教会であるように、
「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
つまり悪霊に惑わされているだけである。
主が言われたように多く偽キリスト、偽預言者が現れ、しるしと不思議な業を行なう。
問題は、はっきり分かることは、黙示録の中で、「私はあなたの行いを知っている」「人の心を見分ける方」と書いてあるように、サタンも人間の痛いところや本音を突いてくる。
トロントやペンサコーラなどの、わけの分からないリバイバルに入って行ったり、そういうものに惑わされてしまう人の問題点は、一つは、その人自身の肉的な歩み。
なので、素晴らしい神の霊が来たのではなくて、肉的であったり、この世についてたりするために、悪霊に惑わされたという事。
テサロニケの手紙には、神が、惑わす力を送り込まれるのは、「彼らが真理への愛を受け入れようとしないから」だとある。
そういった、悪霊の力を、場合によっては神様から率先して送り込んでくるのが今の時代。
だから、勘違いをしてはいけない。
その中で、クリスチャンの本音が問われる。
「神の御心」と言っても、実は、「自分が他の人よりも賜物がある」とか、「教会の中で偉くなりたい」、「大きな教団にしたい」などの本音が問われたり、サタンから惑わされたりしていく可能性がある。
そのような霊でもって、「自分はリッチ」、「すごい賜物の器」だと思うとしても、また、他の人から崇められたり、たくさんの人が集会に来るようになったとしても、神からの宣告ははっきりしていて、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」という状態になっている可能性が大いにある。
「自分がみじめで」という言葉。ギリシャ語で同じ言葉が、
ローマ
7:24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
死の中に入っている。罪の中に入っている。みじめにもそこから抜け出していないという事。
その先は滅び。罪から全く解放されていないし、同じように留まっているのであって、ただ、悪霊によって惑わされて来たのであって、肝心の永遠の命を受ける事は出来ないと言っている。
マタイ伝では、「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
不法とは罪のこと。
この様な愚かな歩みをしてしまってはいけない。
黙示録
3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
「哀れ」という言葉。
第一コリント
15:17そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
ここに書いてある「哀れな者」というのは、信仰は虚しく、自分は罪の中にいるという事。
ラオデキヤの人達というのは、すごい賜物、癒し、奇蹟もあると言われているけれども、神の御目の前には、哀れな者であり、相変わらず罪の中にいるという事。滅びに行ってしまう。
全くの勘違いが起きているという事。
「盲目で」という言葉。
マタイ
15:14彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
この穴は、ゲヘナの穴。
盲目で裸の者である事をラオデキヤの人々にいう時、「自分はリッチで、ものすごい御霊の賜物に満ちている、癒し、奇蹟がすごいものだ」といっているが、神の御前では、盲目であって、ゲヘナに落ち込むという事。一緒に聞いている人も共に落ち込む可能性がある。
「裸の者」
黙示録の16章15節で、「裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。」
義の衣が無いということ。 裸の者は神の御前で義とされない。なので永遠の命が危ない。
ここに書いてある金持ちというのは、賜物に浮かれて、肝心の罪の赦しが無いし、ゲヘナの穴に落ち込んでいく。
「たとえ全世界を得たとしても、自分の命(永遠の命)を損じたら何の得があろうか。何を持ってそれを取り戻すことが出来ようか」と、主は言われたように、すっかり惑わされて、何の贖いも行なわれていないという、そのようなクリスチャンの事を言っている。
しかし、本人が、金持ちだと思う根拠がある。本人がそう思うだろうし、周りの人達もそう認めるかも知れない。「すごい器」「奇蹟の起きる器」などと。
しかし、神の宣告は、明確なものであり、はっきりしている。
「愚か者にすぎない。」
こういう箇所は、聖書の中で、いくつかある。
聖書は喩えの書なので、喩えの表面だけ見ないで、裏をも見なければならない。
ラザロと金持ちの話もしかり。
金持ちは毎日遊び暮らした・・これは、クリスチャンの事を言っている可能性がある。
金持ちの行き着いた所は火の池。
他の箇所では、「もうたくさんで、しまっておく所が無い、倉を作ろう。魂よ喜べ。」
これに対し神は、「あなたの命は今夜にも取り去られる」
「自分の前に富んで神の前に富まないのは愚かだ。」
リバイバルブームが世界中に起きている。
なので浮かれている人が多い。
「聖霊の第三の波」、「トロントブレッシング」、「ペンサコーラリバイバル」
これらは、悪霊の洪水にすぎないと理解する。
その中で確かに不思議や奇蹟は起きているが、そのような器はみな、ラオデキヤの金持ちにすぎない。
悪霊は、意味もなく、それらの人間の器に癒しや奇蹟を起こさせているわけではない。
この世の詐欺師は、人からお金をだまし取るが、サタンや悪霊は、人間の詐欺師よりもひどい。
そのような、賜物や癒しを起こしているのは、ただ、クリスチャンに良い事をしていると思ったら大間違い。クリスチャンから最も大事な永遠の命を奪う事を意図している。
結局そのような悪霊の惑わしに入っている人達は、ラオデキヤの金持ちみたいに、結局、罪の贖いを得ないし、得たようなつもりになったり、天国へ間違いなく入れると思っているけれども、それは空約束であって、実際には入れない。
神の言われる事が正しい。「哀れで貧しい者に過ぎない」と言われる神が正しい。
しかし、今のわけの分からないリバイバルに浮かれている人達は、聞く耳を持たない。
しかし色々な実質が物語っている。
これらのリバイバルに入っている人達は、道徳的にまともにならない。
スキャンダルは、ペンテコステ、カリスマ派の教会でよく起きる。
何故なのか。答えは簡単。 悪霊に導かれており、まともなリバイバルではないから。
木は、その実によって知られる。
賜物という形での惑わしには気をつけなければならない。
そうでないと、最も肝心なもの(永遠の命)を受けられない可能性がある。
金持ちは、これから災いに入ってくる。
ヤコブ書
5:1聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。
今、金持ちになって、キリスト教会がリッチになって、賜物がある、癒しが起きている、不思議が起きている。 これは何かというと、悪霊によっての賜物ならば、これから起こる事は、聖書の言葉を読むならば、「悲惨」がやって来る。
神の国の特等席に座るのではない。
実が証明している。
日本のペンテコステ、カリスマ系の人はみんな、何かというと、韓国のチョー・ヨンギを尊敬している人が多い。
彼は、訴訟沙汰になっている人であり、妻以外に愛人がいるという話もある。
彼は、ペンサコーラとかでリバイバルの預言をしているが、あれは悪霊のリバイバル。
そのような人の追っかけをしていると、後でロクな事にならない。
結局、そのようにして、神からのものでないものでリッチになって、確かにこの世では金持ちになるかも知れないが、神の御前では「悲惨」が覆っている。
「金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」と、ある通り。
神の御前の現実は全く違う。
クリスチャンでも往々にして間違える。
肉の目に見えるところを見て行く。「教会が大きいのがいい。多人数がいい」など。
それでは見るべきポイントを違えている。
そういうことばかり見ている人は、結局変なものを掴んでしまう。
永遠の命を損じたら何の得があるだろうか。
5:2あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、
これは、さっきの言葉に通じる。
義の衣があるが、虫に食われているので、義の衣ではないと言っている。
なので「裸の恥」が現されてしまう。
つまり、義の衣が、義の衣になっていないということ。
5:3あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
金銀は信仰に関しての喩え。
すごい信仰の器で、悪霊も追い出したと言えど、神の目の前にはその信仰にさびが来ているということ。神に喜ばれる信仰ではない。
「あなたがたの肉を火のように食い尽くします。」
「火」は霊的な事柄。
火によって食い尽かされるので、やはりこの霊は、神から来た霊ではない。
悪霊であるので、やはりその人を滅びに誘う。
そのような霊による賜物で有頂天になっている。 よくよく理解したい。
「肉を火のように食い尽くします。」とあるので、肉的だったりする。
5:4見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
5:5あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
地上で贅沢に暮らす。こういった悪霊のリバイバルで、賜物を受けた人は、この世では歓迎される。
「快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」
最終的には神様に殺されるのであるから、どう見ても永遠の命を得られない。
キリスト教会は甘いものではない。
二つ良い事はない。
5:6あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。
その様におかしなリバイバルの人達がキリスト教会で増えてきているが、問題点というのは、いずれその様な惑わしの霊の中に入っている人というのは、結局、霊に動かされるので、正しい人達を憎むようになって来る。最後には正しい人達を迫害したり、殺すようになってしまう。
「正しい人を罪に定めて、殺しました。」・・・このような事が起きて来る。
何故かというと、霊と霊のぶつかり合いであるから。
黙示録
6:4すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。
「火のように赤い馬」 火は霊的なものの喩え。それによって、地上から平和を奪い取る事が許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。
これは、キリスト教会の事を言っている。
これは、霊のぶつかり合い。 おかしな霊に惑わされている人々は、正しい聖霊に導かれている人々を憎むようになる。
6:9小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
殉教者が起きて来る。
霊のぶつかり合いというのは、教会の中で争い、そして最後には、訴えて死に至らせるようなそういった事柄をもたらす。
今起きている、「聖霊の第三の波」、「トロントブレッシング」、「ペンサコーラリバイバル」を軽視してはいけない。こういうおかしなリバイバルに惑わされている人達は、正しい人達を憎むようになったり、訴えるようになる。
物事は、両面ある。「すごい賜物が来た」と喜んでいるが、実は、惑わしの霊に入ったに過ぎない。 いずれその霊に惑わされて、人を憎んだり、訴えたりするようになる。
ルカ
12:49わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
12:50しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
12:51あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
12:52今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
12:53父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
この時に主は、「地に火を投げ込む」これは明らかに聖霊のこと。
聖霊の火が投げ込まれ、リバイバルが起き、神の働きが進むのだが、良い事ばかりではない。
その日が下された後には、平和ではなく分裂が起こる。
「一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになる。」
何故聖霊の火が下されたのに分裂が起きるのかというと、「古い葡萄酒」「新しい葡萄酒」に喩えられるように、霊が違う。
聖霊が下る時に、悪霊に惑わされている人達もいるので、そこでぶつかり合いが出て来る。
世の終わりの時も、今、トロントやペンサコーラ、聖霊の第三の波などの惑わしの霊に入って行くのも霊による。また、聖霊の雨が下るという事もある。
これは、霊が違うので、必ずぶつかり合いになる。
その結果、正しい人は、罪に定められ、殺されてしまう。
その時、正しいのは、殺される人々。イエス様の時もそうだった。
イエス様の時にもこの言葉は成就している。
イエス・キリストを中心にして、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれて争うようになる。
正しい人であるイエス様は、捕えられ、殺されてしまった。
我々が聖霊によって歩む時に気をつけなければいけないのは、おかしなリバイバルに出て、おかしな賜物ですっかりいばっている人達のこと。やがて聖霊によって歩んでいる人達を迫害してくる。彼らは賜物と引き換えに変な霊を受けてしまっている。
なので、世の中良い事二つは無い。
5:7こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
「貴重な実り」と書いてあるが、これは「実(み)」
ここで大事なのは「実」
我々は、クリスチャン生活をしていく時に、特に我々が再臨の主に迎え入れられる事を本当に望んでいるならば、「御霊の実」を結ぶ事に大いに力を尽くさなければならない。
ヤコブ書はあらゆるところで喩えで書かれているので、喩えで理解しなければ何も分からない。ここでは、御霊の実について語られている。御霊の実を結ぶ人は、再臨の主にまみえる。そして入るべき所に入る。 逆に、御霊の実を結ばない人というのは、明らかに、再臨の時に迎え入れられない。
マルコ
4:26また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
4:27夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
4:28地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
4:29実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
ポイントは、「かまを入れる」という事。
かまを入れるのは、再臨の主。
かまを入れるというのは、神の国に入るための携挙。
神の国とは教会のこと。
教会は、初めに苗、穂が出てくる。
この辺りでは主の再臨は来ない。 携挙もない。
次に穂の中に実がはいる。
その実が熟すると、人はすぐにかまを入れる。
これは、御霊の実に通じる。
御霊の実がちゃんと出て来たクリスチャンが出てきた時に、「人はすぐにかまを入れる。」
その時に再臨が来る。
かまは、実を刈り取る。根は刈り取らない。
刈り取るのは実、穂だけ。
黙示録
14:14また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
14:15すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
14:16そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
ここはまさに、実を刈り取るという事。
再臨の主はかまをいれて、実を刈り取る。
逆に実以外の所は刈り取られない。
我々が御霊の実を結ぶクリスチャンにならないならば、刈り取られない。
具体的に、携挙されない可能性がある。
地に残されて、獣と一緒に滅ぼされてしまう可能性がある。
この辺りは御国の奥義。
実が熟すと、人はすぐにかまを入れる。
御霊の奥義を知る耳があり、目があるなら、この事が理解できる。
ガラテヤ
5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
我々は、御霊の実を結んでいきたい。
しかし、少し前の箇所で、肉の行ないの事も書かれている。
御霊の実と、肉の行いは反している。
5:19肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
我々は、生まれつき肉の者かも知れないが、どうか御霊によって、御霊の実を結べるように求めて行く。
御霊の実と肉の行ないの差は大きい。
なぜなら、御霊の実が熟しているものは刈り取られる。
我々が、御霊の実をきちんと結んでいるかどうかは、再臨の主に刈り取られて、携挙されるかどうか、大いに関係している。
そうでないと、刈り取られない可能性がある。
御言葉は、明らかにそれを語っている。
我々は、耐え忍んで御霊の実を結んでいきたい。
レムナントキリスト教会
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