ユダの手紙1節~10節             2015.8.1

 

1イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。

2どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。

 

KJVでは、「イエス・キリストによって保たれ」と書いてある。

言わんとしている事は、我々の信仰を保たれるのは、イエス・キリストであるという事。

なので、我々は、主に祈るのが正しい。  一見その様に見えない事もある。

人間的な事が大きく見えてしまったりする。

しかし、イエス・キリストを信じ、この方に頼る人は保たれる。

この方に、祈り求め、信頼して行けば「保たれる」し、増々、主の憐れみにて、正しい信仰に入る。

長いクリスチャン生活を送っていても、年配になり、いい加減になってしまったり、この世の人と変わらない事を言ったり、曲がってしまったクリスチャンは無きにしも非ず。

主に求める者は保たれる。この事は覚えておく。

 

3愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。

 

聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦う。これはクリスチャンの中では有名な言葉。

いったん伝えられた信仰を奪われるのではなく、保ち、また、必要に応じ戦って行くという、

聖徒が世々にわたって保ってきた信仰。

我々の世代で崩されてしまったり、奪い取られてしまうのは良くない事。

「ともに受けている救い」は、KJV、ギリシャ語の意味合いとはニュアンスが全く違う。

これは、「汚れた救い」について、手紙を書こうとした。

「汚れた」とは、ギリシャ語でコイノス。

 

マルコ

7:2イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、

 

この御言葉で使われている「汚れた」と同じ意味。

言わんとしている事は、「汚れた救い」とか「正しい救い」

何と、「汚れた救い」と呼ばれる「救い」もあるという!

そのような「救い」に異議を唱えようと、この手紙は書かれた。

同じ「救い」という言葉を使っていても、神の前には汚れた救いだったり、下手をすると永遠のいのちを得られないような「救い」というものがある。

実際ユダが非難ている人達というのは、教えを受けていくとそうなる。

4節でも「このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々」とか、6節では「大いなる日のさばきのために、永遠の束縛」とか、7節では「永遠の火の刑罰を受け」とか、裁きの事ばかり書いてある。

やはり、「汚れた救い」という類のものがある。

これは、教会用語なので、「これでもいい」と思い、受けてしまう可能性もある。

その結果は、ろくでもない事になると読み取れる。

ここでの教訓というのは、どの様な「救い」でも受け入れて良いというわけではないという事。

「汚れた救い」という事柄もある、ということをよく覚えておく。

例を挙げると、カトリック。 「マリヤはキリストと共同の贖い主」など。

なので、油断も隙も無い。

「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める」

ここでは、戦いを勧めている。

我々はクリスチャンとして、聖書の中で、勧められている。

戦うように勧められている。

勘違いをしてはダメ。 寛容になって、「愛をもって、あらゆる事を受け留めなければならない」とか、とんでもない「救い」に関しても、寛容を持って、決して反対しないで、一言も言わないのは、戦いではない。

そうではなくきちんと戦えという事に関して言われている事。

戦いとはどういう事か。

我々クリスチャンは、「おかしな教理」「汚れた救い」「違う救い」に関して、ひとたび伝えられた信仰のために戦うという態度は、聖書的。

イエス様は、個人には酷い目に遭っている。その時、個人のために戦ってはいない。

信仰に関して、または、神のために関しては、戦っている。

宮においても、「わたしの父の家は、祈りの家になすべきなのにあなたがたは強盗の巣にしている」

イエス様の態度は、あるべき姿。

レムナントは極端なように思われているし、エレミヤ牧師は「あほたれ」という言葉を過去に使ってきた。今は違うが。

信仰のために戦うというのは聖書的。

レムナントにおいては、昔から信仰のために戦っている。

「エレミヤの部屋」の中では、艱難前携挙は間違いだという事をずっと書いてきた。

終末の空想話とか、色々書いてきた。

終末の空想話について読んだら、程なくして日本で、「レフトビハインド」、シリーズは10

以上。 アメリカでは67千万部も売り上げた。

日本にも上陸してきた。

しかしやはり、戦って行ったのは無駄ではなかった。

聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うことは、無意味ではない。

どの様に用いられるか分からない。

御言葉にはこうある。

「水の上にパンを投げよ。後の日にそれを見出す。」

言わんとしている事は、戦って行くという事。

それでもって、正しく用いられていく。

それは、戦う時の、我々の信仰の表明でもある。

 

ユダの手紙

4というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。

 

ひそかに忍び込んで来たように、おかしな教えはひそかに入って来る。

ここで書いてあるように、おかしな教えとか、汚れた救いに入って行く人は、さばきに会う。

もう一つのポイントは、「神の恵みを放縦に変える」・・この言葉も、大事な事。

キリスト教は、愛の宗教、赦しの宗教。  それはそれで大事な事。

「あなた方の敵を愛しなさい」「ののしられても、ののしり返さず」・・・これは実践していきたい。

神は、恵みの神であり、我々が色々と罪を犯したにも拘らず、罪を赦して下さるのも事実だが、

それをいいことに、放縦に変えてしまうというのは、また別の問題であり、そういったクリスチャンに、教会に、傾向が入って来てしまうというのは、よくよく覚えておく。

神の恵みをいいことに、それこそやりたい放題になってしまい、クリスチャンが、あらゆる放縦、あらゆるこの世の事をどんどん持ち込んで、「これも神は赦す」「あれも赦す」と、とめどもなく放縦に入って行く今の時代。 今がまさにそう。

なんと、同性婚の結婚式を認める教会がある。

何でもありありになっている。

なので、音楽の領域においても、とめども無しにこの世的なものが入って来ている。

クリスチャンのゴスペルシンガー、また賛美をする人が、この世の歌をよく歌う。

この世の歌をカバーすることが、アメリカで流行っている。

アメリカのゴスペルシンガーは悪い意味で進んでいる。

刺青を入れている人が「私は福音歌手です」などと言っている。

ロックなゴスペルもある。 その様に、この世の事柄が入って来るけれども、結局は放縦に入って行ってしまう。

我々は、放縦には入って行かずに、正しく主の言葉に留まっていきたい。

同性愛に関しても、主の言葉に留まって行きたい。

放縦にさそう惑わしがあるという事は、覚えておく。

神の恵み、愛をいいことに、どんどんやりたい放題になって行く。

 

5あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。

 

民をエジプトから救い出された後、信じない人々が滅ぼされたのは、深い意味合いがある。

喩えの理解では、エジプトから出て来るというのは、この世から出て来るという事。

だから、エジプトから出て来たイスラエルの民は、この世から救い出されたクリスチャンの型である。  それであっても、クリスチャンは一度救われたら滅びに入る筈は無いのに、「滅んでしまった。」と、ここに書いてある。

エジプトの地から救い出し・・・これはクリスチャンの事。「救い」を受けている。

しかも、滅んでしまった。

多くのクリスチャンは、根本的な間違いをしている。

「クリスチャンは、一回救われたら、何が何でも救いから離れることは無い。滅びることは無い」と、当然の常識の様に教えられてきている。

しかし、聖書を繰り返し読んでいくと、その矛盾に気づく。

救いは素晴らしい事。神の霊が下る。しかしこれは、どこまで行ってもスタートに過ぎない。

しかし、パウロが言うように、我々は、やはり狭い門、狭い道に入って、既に得たものではないし、完成したわけでもない。得ようと求めているという事が、信仰的な立場。

 

Ⅰコリント

10:1そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。

 

「次のことを知ってもらいたい」と書いてあるのは、大事なポイントだから。

 

10:2そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、

10:3みな同じ御霊の食べ物を食べ、

10:4みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

10:5にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

 

これは、先ほどと同じような言葉が書いてある。

しかもここは、今の時代になぞらえて書いてある。

旧約の世界の事柄を我々に対しての教訓として読まないと、何のために旧約聖書を読んでいるのか分からない。

「モーセにつくバプテスマを受け」

洗礼を受けたクリスチャンであっても、同じ事を経験すると書いてある。

「みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。」とあるように、我々クリスチャンも御言葉のパン、御霊のぶどう酒(聖霊)を受ける。

同じような歩みをしているクリスチャンも滅びる事がありうる。

今起きる事かは分からないが、反キリストが立って、教会が、背教の教会になった時にはありうる。  書かれている事は、我々に対する警告として読んでいった方が良い。

そうすれば、惑わしから守られる。  ここは、救われているクリスチャンに対して書かれている。  救われているが歩みにおいてどこかで倒れ、滅びに入る人達に対しての教訓。

なぜ旧約の出エジプト記、民数記、申命記を読まなければならないか、荒野の民の事を21世紀の今、読まなければいけないか。何故なら教訓だから。

その為に書いてある。我々が警戒するための例として書かれているので、まさに我々と関係している事として書かれている。

 

10:6これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

 

悪を貪っているクリスチャンはやはり滅んでしまうという事なので、悪を貪らないようにしていきたい。

 

10:7あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。

 

偶像崇拝者・・・具体的には、金の雄牛を作って拝んだと書いてあるけれども、牛や羊はきよい動物なので、クリスチャンの喩え。

だから、素晴らしい器を崇めて、それをもって聖書からずれてはいけないという事柄。

素晴らしい聖徒を、ローマ法王をあまりにも崇めるが故に、ローマ法王の言う事が正しいと思い、「聖書にも誤りがある」とか、「進化論は正しいと言ってたから、私もそう思います」とか、そういう人が偶像崇拝者。  惑わしに入ってはいけない。

 

10:8また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。

10:9私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。

10:10また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。

 

つぶやきはやめた方が良い。

これらを通して、今のクリスチャンも同じ過ちに入って、滅びを掴んでしまう可能性があるからこの様に書かれた。

今のクリスチャンは、根本的な部分で結構間違いを持っている。

救いに関することは、我々は誤りから出て来なければならない。

明らかにこの箇所が言っているのは、エジプトから救われた。しかし、救われた後に滅んだと

あるので、我々クリスチャン生活で救われたのは救われたのだけど、これはスタート地点に過ぎないので、途中で滅ぼされないようにして行かなければならない。

それがここに書いてある教訓。

 

ユダの手紙

6また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

 

「おるべき所を捨てた」

だからクリスチャンでも、あるべきところからずれてはいけないという教訓。

我々も、ずれてしまう事が無いように戦って行かなければならない。

 

7また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。

 

好色にふけるとかは良くない。

 

8それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。

 

「権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。」

この言葉に関しては、覚えておくべき。

この世の権威ある人達を、天皇陛下でも呼び捨てたり、えばるのは良くないが、また、教会の中で、権威のある人を軽んじたり、バカにしたりそういうのも良くないが、ここに書いてある、

権威ある者とか軽んじ栄えある者という言葉に関して、言葉のニュアンスを見ていく時に、天的な権威、御使いの権威など、そういった事に関わって来る。

これは、御使いをそしるという事に通じる。  そういう言葉が使われている。

その後の事を見ると、

 

9御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。

 

ここで、唐突に御使いが出て来るという事は、しかも御使いのかしらなので、ミカエルは、御使いの中でトップ。

そしてサタンも御使い。

大天使ミカエルは、下の者であるサタンに文句を言われたが、相手を罵ったりせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言った。

大天使ミカエルは、反論をしたり、仕返しすることはなかった。

そうであるのに、

 

10しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。

 

ここでも、「そしる」という言葉が出て来る。

この流れを見て行く時に、ここで書いてある、「権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。」

そして突然天使の事が出て来るので、御使いをそしるという事に関係してくるように思える。

ペンテコステ系の教会でブームになっているのは、「強い者を縛る」

「悪霊、地域の霊を縛る」とか、色々な悪霊を縛るとかで、勇ましくあちこちの神社に出かけて行ったり、富士山へ行ったり、伊勢神宮に行ったり、京都では比叡山に行ったりしている。

「自分では理解できない事をそしり、」と言っているように、「霊の戦い」に参加しているクリスチャンは理解しないでやっている。自分が何をそしってやっているか理解していない。

ただ言われた通りにやっている。  リーダーも分からないでやっている可能性がある。

大元は、ピーターワグナー。「霊の戦い」や「聖霊の第三の波」など本を書いている。

こう言う輩は、クリスチャンを騙そうと、分かってやっている可能性がある。

裏の意図があるかも知れない。

しかし、この様に「御使いをそしる」という時に、滅びに直結する。

なので、終末の多くの惑わしというのは、例えば小さい子供を騙して、警官に石を投げつけさせる様なもので、こういった御使いに逆らったり、神が立てた権威に逆らって自滅させるというパターンがあると思われる。

なので、この事は気を付けること!      変なものを掴むことの無いように。

また、もう一つはやはり、聖書はやはりすごい本で、昔からそういう事を預言している。

ただ我々が理解できないだけ。

なので、あらゆる終末の日の災いとか、偽りとか、みな聖書に書かれてある。

聖書を読むことが近道。必要な事は全て書かれてある。

ただ、封じられていたり、喩えが使われているので、主が知恵を与えて下さるならば、我々も理解することが出来る。

そのあたりは非常に大事なポイントなので理解しておくこと。

世の終わりの時は、権威ある者(恐らく御使い)をそしる惑わしに入らないように理解していく。