ヨハネの黙示録2章1~7           2015.10.4

 

2:1エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。

 

エペソは、「受け入れられた」とか「ゆるされた」という意味合いを持つ。

この教会は、今から見るなら、もう過去の教会。最初の教会と言うべきか。

その教会に関しての箇所。

「右手に七つの星を持つ方」これは、イエス・キリスト。

「七つの星」は、七つの教会の御使いたちの事。  御使いたち、または働き人か。

教会では、御使いを通して色んな事柄が起こるが、御使いの働きに関しても、我々は、聖書に書かれている範囲は理解しなければならない。

「御使いは仕える霊であり」と書いてあるように、色んな働きを成し遂げて行く。

御使いは、それぞれ主から遣わされる。

七つの星を持っておられるのは主ご自身なので、主の御心の中で送られて来る。

そこには、主イエス・キリストの配慮とか、治めておられる方があるという事。

教会というのは、ヤコブの夢にもあるように、「恐るべきかなこの所」そして、梯子が天からかかっていて、御使いが上り下りする場所。

きちんと祈っていれば、御使いが働いて、祈りが聞かれたりする。

御使いは、主の御心の内に働きを進める。

良い事も、悪い事も、主の御手の中にあるので、問題が起きたり、教会内部が大変な状況になった時は、サタンの攻撃の時もあるが、実は「悔い改め」時だった、という事もある。

悔い改める事は悔い改め、妨害の時は、祈りをなしていきたい。

「七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。」

主が間を歩くというのは、ちゃんと巡回しているという事。

だから、どんな教会にも主は来られる。

主は、歩いて来られるので、この事は決して疑ってはならない。

大事な事を示される。 終末の事など、主が教えてくださったりする。

 

2:2「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。

 

エペソの教会は、悪い所も良い所もある。

良いところは、「使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いた。」事。こういった事は大事。 偽使徒は来る。

「労苦」と「忍耐」

「労苦」という言葉、

 

マルコ

13:34それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。

 

ここで使われている「仕事」という言葉。これが「労苦」と同じ言葉。

しもべ達にそれぞれ仕事を割り当てる。

自分に割り当てられる仕事は、行なっていかなければならない。 何故なら、

 

13:35だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。

「家の主人は」再臨の主。

なので、概念として、我々には、再臨の時まで、主から任された仕事があるという事。

仕事は、任されたら、やっておかなければいけない。さぼってはいけない。

さぼって寝ていたりしたら、主人から怒られる。

我々は、クリスチャンの概念として、主から割り当てられている仕事がある。

「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。」というように、どういう風に、ちゃんと働いているから、「わたしは、・・・知っている」という事。

なので、教会に関して、基本的に教会に関連して、「働き」「仕事」とか、「働き」を任されたなら、仕事をする概念というのは、ちゃんと覚えておく。

今のクリスチャンは、色んな意味で、勘違いしている人が多い。

書いてある通り、本当にクリスチャンとして歩んで行く時、我々には何か、主からの仕事が来る。それをこなして行って、再臨の主の前に、仕事の報告をし、報いを得、後の世での報いを得て行くのが正しい、勘違いの無いクリスチャン生活。

教会を通して、我々はクリスチャンとしての召しだとか、主が与えて下さっている奉仕の一端を担って、行なって行くという風に思っているなら、まともなクリスチャン生活に入っている。

勘違いして、「奉仕など全くしない!」と定めているなら、後の世で何も得られない可能性がある。これは、よくよく捉えておく。

また、主から奉仕を担って行くという事は、当然だが、奉仕をすれば、テレビを見る時間が減る。遊ぶ時間も、映画を見る時間も減る。そういう意味では多少の犠牲はあるかも知れないが、

それに勝るような報いが来るという事も覚えておく。

聖書の色んな言葉は、逆説的。

イエス・キリストは、我々の信仰の模範。

ローマ法王はイエス様が十字架で死んだので、失敗者と見ている。

信仰の目を持ち、御言葉に沿って、我々の歩みを捉えて行きたい。

明らかに、仕事とか働きに関して聖書に書かれているので、それを行なって行く人に恵みがある。

エレミヤ牧師にも、神の前に無職の時があった。教会が定まっていない時だった。

行く教会では、多少奉仕はしていたが、行く教会が定まらないで、そこをやめると、次行く教会が無いので、無職、神の前に無職だった。

肉体的には楽だったけれども、クリスチャンとして、何の進歩もなかった。

また、惑わされた教理だとか、惑わされた教えを受けていた。

艱難前携挙説をも受け入れていた。

目も開かれていなかった。

逆に、弟子の歩みをするようになって、忙しくなった。

あの奉仕、この奉仕、警告の奉仕をし、また、レムナントの奉仕が最近忙しくなって来た。

奉仕をしていく時、霊的には、非常に健康的になって行く。

働きを担っていく時に、あらゆる事が見えて来た。

教会の崩壊、宮の崩壊についても、明確に見えるようになって来た。

獣の国はどこか、など、目や耳が開けて来た。

良い事ばかりになった。 しかしこれは、行なって初めて見えて来る。

行なわないと見えてこない事がある。

あらゆる、御言葉に書かれている聖書の真理は逆説的。 損なようで、実は得だったりする。

何の奉仕もしないで気楽にやっているクリスチャンは、得なようで、実は損。

忙しくなって来たけれども、良いことづくめ。

霊的にも、こういう奉仕に与っているから、他の人が見ないような事柄も見えるようになった。

大事な終末のポイントとかが見える。

奉仕をする中で、大事な事が見えて来たり、耳が聞こえたりして来る。

また、いのちに至る狭い門、狭い道にも入って行く。

後の日には、受けるべき栄光もある。

忙しいが、良い事ばかり。

さぼっているとろくな事が無い。

このあたりで勘違いをしているクリスチャンが多い。

御言葉を真理とする人は、得るべきものを得る。

この世の常識に従って、主の働きをばかにするのは、ろくな事が無いので、正しく見て行きたい。

 

ヨハネの黙示録

2:3あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

 

ここは大事。

 

2:4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

 

エペソの教会には「初めの愛から離れてしまった。」という問題があった。

 

2:5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

 

「初めの愛から離れてしまった。」

クリスチャンにしても往々にしてあるかも知れない。

クリスチャンになった当初は、一生懸命やってたけれども、途中でいい加減になってしまい、祈る習慣、聖書を読む習慣も無くなってしまうなど。

それは、良い事ではないので、悔い改めて、どこから落ちたのか思い出して、初めの行ないに戻って行くのが正しい。

ここで、厳しい宣告がある。

「もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」

燭台とは教会の事。

だから、もしエペソの教会が、悔い改める事をしなければ、主ご自身が、教会をエペソからなくなるようにしてしまうという事。

この預言は成就している。エペソには教会が無い。

黙示録の預言は、ものによっては既に成就している。

ここで学ぶべき事というのは、あらゆる御言葉は、成就する。

この時、エペソの教会が悔い改めて初めの行いをするならば、教会は今でも残っていた筈なのだが、結局は悔い改めなかったというのが現実。

なので、こういうパターンは覚えておく。

結構クリスチャンは、警告されるけれども、行なわない。

そういう考え方で見て行く時に、後の方で書いてあるサルデスなんかは、危ない。

 

3:3だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

これは、プロテスタントにおいて、結構成就するのではないか。

既に分からなくなっている。

艱難前にキリストが来ると、信じて待っている。

かなりの人が間違えるのではないか。

艱難前にキリストが来ると思い、艱難時代の終わりまでずっと待って、結局キリストの再臨が分からないという、そういう災いに入って行く可能性がある。

聖書のあらゆる言葉がそうであるが、黙示録の言葉も、皆これは正確に間違いなく、成就していく言葉だという事を改めて捉えて行く。

単に、読み物として与えられているのではなく、あらゆる教会に関しての言葉も、「七つの頭、十本の角を持つ獣」とか、あらゆる御言葉は成就していく。

何故なら神の言葉だから。

ポイントは、我々は、これらの言葉を守って、伝えて行くのが正しい。

ローマ法王の事を見ても分かるように、教会の崩壊は必ず来ると捉えるのが正しい。

望ましくは無いが、やはり教会のキリストの座に、反キリストが立つ日は、早かれ遅かれ来る。

既にアメリカのキリスト教迫害は凄い。すさまじい勢いで反キリストの統治に向かっている。

あらゆる言葉が成就するという事を理解する。

それで、我々は、そういう日が来るという事を前提として歩んで行くのが正しい。

 

2:6しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

 

黙示録の中には、ニコライ派という言葉が良く出て来る。

ニコライ宗の宗派はキリスト教の歴史の中には無い。

「ニコ」というのは、ギリシャ語で、「勝つ」という意味がある。

「ライ」というのは、ギリシャ語で、「民、会衆」

言わんとしている解釈は、一般の民衆、会衆を押さえつける人。別の言い方をすると、特別な、民の指導者とか、そういった人たちの事をさすのではないか。

実際、イエス様の時代を見ても、結局キリストの敵になった人達は、誰なのかというと、「民の指導者」    群衆は「イエス・キリストを十字架につけろ」と言うのだが、それは律法学者、パリサイ人に先導されて、色々説得されてしまった。

少なくともイエス様の生涯というのは、ニコライ(民の指導者)が仇になってしまったという事が一面言える。

そういった存在に、我々も注意を払って行かなければならない。

勿論、何でもかんでも指導者に逆らう、というのは極端。

民とかライは、「素人」という意味合いがある。「専門家」の意味合いもあるかも知れない。

しかし、専門家の名前を元に、民に対しておかしな教理を伝えて行くのは問題である。

正しい事を言っているなら良いのだが、御言葉とぶつかってしまったり、違う教理の場合には、

たとえそれが、律法学者であろうと、パリサイ人であろうとダメ。

イエス様はこの両者と、色々と論争をしている。

それは、ニコライ派の教えを憎み、それと戦っている。

我々も、そういう意味では、おかしな、民を圧迫する様なおかしな教えに関しては、戦って行くのが聖書的には正しい。

かつてエレミヤ牧師が高校生くらいの時、洗礼を受けた教会で、東京神学大学の神学生が来た時、「キリストは復活していない」とか、とんでもない事を言われた。

当時、救われて1年か2年だった。聞き捨てならないので言い争いをした。どのように、何を言ったのかは覚えていないが、相手の神学生が怒って、目をつけられた。

「お前を今度必ずやっつけてやる」と言われた。

エレミヤ牧師の当時の反論は正しかった。

そういう歩みの一環の中で、やはり、段々と主の奉仕の一端を担って、今では奉仕もそういった線で行われている。

キリストに関しての専門家を気取りながら、尚且つおかしな事を言う、ギリシャ語とかヘブル語を操りながら、わけの分からない事を言う。

素人を相手に色々とインチキを言う人がいる。

テサロニケの手紙で、背教という事が書かれている。

「背教」という言葉。「これはギリシャ語で、新しい出発を意味する」などと言う者もいた。そういった類はニコライ宗の教え。

正しく対応しなければならない。

レムナントはいろんな意味で戦いをしているが、それは、ある意味では、主の戦った戦いにそった働きをしている。

そういう意味では、正しいのだと思う。

行なって行く中で、ニコライ宗の教えを見逃さず、きちんと対応していく中で、真理が見えて来ている。

これを、「まあいいか」、「ローマ法王は歳を取っているから失言した」とか言って、見逃しにしていると、見えるものも、見えなくなってしまう。

ニコライ宗の教えに対応していくのが正しい。

 

2:7耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

 

「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」というのは、どの教会にも必ず書いてある。「御霊が語っていない教会は無い」という事。

そういう意味で言うと、七つの教会、全ての教会に、御霊が語っている。

レムナントも教会の一つなので、御霊が諸教会に語っている事がある。

問題は、「耳のある者は」という意味深な言葉があること。

耳が無いと聞こえないのは当たり前の事だけれども、霊的にも、耳が備えられないと聞けないという事もある。

黙示録において、「耳のある者は聞きなさい」と7度書いてある。

我々はやはり、「耳」を主にあって与えられていくというのが非常に大事。

キャッチする耳。これは大事なポイントだとか、主に聞いて行く中で、我々がそれぞれの奉仕に当たって、大事な事が聞けるようになって来る。

それは、それぞれの人の奉仕と関わって来る。

証にもあった通り、祈っているから大事な事が聞けるようになる。

我々は聞くべき耳を、主にあって与えられていきたい。

ローマ法王の発言、同性愛の問題など、かなり大事な問題。

主は確かに語る。

しかし、同じ事を聞いても、耳の無い人は、教会であっても、クリスチャンであっても、全く気にしない。

もう一つ。

「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」

いのちの木の実は、創世記にもある。エデンの園に。

エデンの園の、アダム、エバの話。

善悪を知る木の実とか、いのちの木の実。 これは喩え。

いのちの木の実を食べる。いのちの木の実は、永遠のいのちに通じる。

その事が、喩えで語られている。

勝利を得る者は、永遠のいのちを得る。 まさにその事を語っている。

クリスチャン生活のゴールは、明らかに永遠のいのち。

他のものに目をやってはいけない。

パウロが言ったように、「既に得たものではない」「完成された者ではない」

またイエス様は、「いのちに至る門は狭く、その道は狭い」と言われた。

永遠のいのちは明らかに目標。

それに関連して、永遠のいのちを得るための条件がここに書いてある。

その為には、「勝利を得る」という事。

逆に「勝利を得ないと永遠のいのちが危ない」と裏返して言っている。

表だけでなく、裏も見なければならない。

勝利を得るのと得ないのとでは大違い。

永遠のいのちの事を喩えで語っているので、この事は覚えておく。

ここではっきりしないといけない事は、エペソの教会に連なっている人は、たとえ皆勤賞であろうと、その人が勝利を得ないならば、結局、永遠のいのちは得られないという事。

なので、教会に行くというのは一つの事。

しかし、勝利を得るというのは別の事。

勿論、礼拝は来た方がいい。 レムナントの音声も聞いた方がいいのだけれども、それは一つの事。しかし、勝利を得るのはまた別の事。

やはり我々は、勝利を受けていかなければならない。

勝利を得るとは、具体的に何なのか。

罪に対して勝利を得る。 または、ヨハネの手紙の中で、「世に勝つ者はだれか、イエスを主と信じる者ではないか」

これから、この世は、牙をむく時代が来ている。

アメリカは特にそう。

クリスチャンの団体、メソジストの団体で、礼拝のサービスを殆どボランティア気分でやっていたが、突然同性愛の女どもが絡んできて、「我々にも結婚式を」と言って着た。

しかし、教会の牧師たちがやっているサービスだから、「聖書で定める結婚は、男と女がするものだし、そもそも同性愛は、聖書が認めていないから、お断りします」と言ったら、教会の団体が訴えられ、裁判に負けてしまったとか、ペナルティーを受けるとか・・・

これは、世の中が牙をむきだしているという事。

同性愛者らが、あらゆる言いがかりをつけて、あらゆる形で来ている。

しかし、この世と、神の教えが、はっきりと違いを見せるのが、終末の時。

これも一つの現われだと思う。

こんな時代だが、教会をやめてしまったり、クリスチャンをやめてしまうのは、違う。

それこそ世に勝つのは誰かというのを、正しく対応していきたい。

なので、我々としては、この様な時代であるからこそ、一つは、警告をなしていく。

逆に、この世の人でも、本当に救われるべき人はいる。

そういう人にも、伝道を進めて行きたい。

残念ながら、この世全体が、神から離れる方向に行くけれども、一喜一憂しないで歩んで行きたい。