ヨハネの黙示録1章13~20 2015.9.27
1:13それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
七つの燭台は、七つの教会。
教会時代は七つ。 七つに分けられる。
ディスペンセンション主義は、時代を七つに区分する。
教会時代は明らかに七つ。
人の子のような方は、イエス・キリスト。
黙示録の時代、世の終わりの時の一つの大きな特徴は、人の子であるイエス・キリストが、かつて2000年前にオリーブ山から昇天されたが、その方が、もう一度帰って来るという事に大きなポイントがある。
「人の子」は、見ていて分かる事は、「人の子」であられるイエス・キリストが、裁きを行なう。 裁判官。 このパターンは覚えておく。
聖書で、裁きに関して、一つの特長というのは、同じ経験をした人が裁くというパターンがある。そういう意味では、父なる神が裁くわけではない。「人の子」であるイエス・キリストが裁きを行なう。
イエス・キリストは、12弟子達に、「あなた達も、位について、その日にはイスラエルの12の部族を裁く」と言われた。
なぜ12弟子が裁くかというと、イスラエルの人達は、多くの人は、イエス・キリストを目の前で見ながら、受け入れず、それどころか、異端として捕えて殺してしまった。
しかし、同じ経験をして、同じ時代を生きて、同じイエス・キリストを見て、尚且つ正しくキリストに従った12弟子は、座して、キリストと共に、イスラエルの部族を裁くことになる。
そういう意味では、我々も、これから来る時代を正しく通過すれば、裁きの座に立って、裁くような地位に座る可能性がある。
なので、「人の子」、人間そのものであられたイエス・キリストは、裁きの座に立つ。
そういう意味では、主は、我々と全く同じ条件で生活をして、祈るべき事は祈り、従うべき時に神の声に従って、するべきことをし、地上の信仰生活をしておられたので、裁く方になられた。 そういう意味では、我々は言い訳がきかない。
なので我々は、悪い意味で裁かれるのではなく、良い意味で認められるような歩みをして行きたい。
1:14その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
聖書は、黙示録に限らず、神の知恵によって書かれた。
特に黙示録は、明らかに封印されたり、謎や喩えが使われている書なので、一言一句、意味のある言葉。それを見て行きたい。
「白い羊毛のように、また雪のように白く」
なので、「我々の罪が緋のように赤くても、雪の様に白くなる」
白い。要するに「義」、正しい方であるという事。
だから我々も、キリストにまみえるように、雪の様に白くならせていただきたいと思う。
もう一つは教えられることは、「白」「頭と髪の毛は白い」と書かれている。
イエス・キリストは歳を経たお方。
イエス様は、昇天されてから2000年も経っている。
「その目は、燃える炎のようであった。」
1:15その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
「炎」とか、「炉で精練されて」とか、こういった言葉は、他のところでも使われているが、
14節の「燃える炎」
ルカ
16:24彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
要するに地獄の火と同じ。 イエス・キリストが来られた時、良い事ばかりではない。
再臨の時に、全てのクリスチャンが天国へ入るわけではない。
残念ながら、金持ちとラザロの話の様に、地獄の炎に入って行ってしまう人もいる。
そこで使われている炎と同じ言葉。
「金持ち」の箇所。
ここは、我々に対しての教え。
「金持ち」は未信者の事ではない。 アブラハムも答えている。
金持ちが、「私の兄弟たちが、こんな所へ来ることの無いようにしてください。」といった時、
アブラハムは、「彼らには律法と預言者がある。それらに聞かないならば、たとえ、死んだ者が甦っても聞かないでしょう」と答えた。 律法、預言者。 クリスチャンと同じ。
しかもアブラハムの子孫だから、イスラエル。
我々も、新約のイスラエルだから、金持ちとラザロの言っている個所が言っているメッセージは、アブラハムの子孫も滅びの火に入るという事。
旧約のイスラエルが入っているのだから、新約のイスラエルも入って当然。
絶対に入りたくはないが、「入らない」というのは間違い。
「入る可能性は大いにあるから、気を付けましょう」というのが妥当なメッセージ。
そういったところは見て行きたい。
「その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり」
「炉」という言葉も、全く同じ言葉が他の箇所で使われている。
マタイ
13:41人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
13:42火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
42節の「燃える炉」が、黙示録に書いてある「炉」と同じ言葉が使われている。
だから聖書は、私的解釈をしてはいけないと書いてある。
聖書のその一か所のみから解釈するのが「私的解釈」
聖書はいろいろ参照する人が正しい解釈をする。
ここでは何と、「御国から取り集めて、 火の燃える炉に投げ込みます」とある。
「御国から取り集めて」という事は、「御国である神の国である教会に属している」
良い麦はめでたく倉に入る。 しかし、それだけではないというのが聖書のメッセージ。
ここの「炉」と同じ言葉が、黙示録のイエス・キリストを表現する、「その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり」とあるから、イエスキリストの再臨というのは、こういう事も含むという事を暗示している。
そういう意味では、謎とか、喩えとか、隠された意味合いを、封印を解いて行かなければならない。「読んで」行かなければならない。なので、この黙示の言葉を「読む」者は幸い。
明らかなメッセージがここで語られている。
どういう人が炉に入るのかは、入るべく人が入る。
「つまずきを与える者や不法を行なう者たち」
教会の中で、兄弟、姉妹につまずきを与えてはいけない。
教会に来て、人の信仰をひっくり返そうとするメッセンジャー、神学生がいる。
とんでもない事。 明らかに、間違いなく、火の燃える炉に入ってしまう。
それでは、何のために牧師をやっているか分からない。
メッセージするたびに、人の信仰をひっくり返す者は、間違いなく炉に入る。
あと、不法を行なう者。要するに、正しくない教理を言ってしまう者。
我々は、正しく御言葉を語れるように求めて行きたい。
一生懸命やっていても、聞いている人が次々にゲヘナの子になってしまう。これは「不法」。
黙示録
1:16また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
ここも、キリストの事を表現している。 その一つの特徴は、七つの星を持つという事。
これは、七つの教会の御使いたちという意味。
御使いは、それぞれの教会で働き、主の言われた奉仕をなしていく。
御使いは、我々にとって良い事もするが、我々が正しく歩まなければ、厳しい目にも遭わせる。
黙示録を見ると、御使いを通して、たくさんの災いが来ている。
七つの鉢の災いなど。 御使いは我々から見て、良い事ばかりするわけではない。
我々は、正しく歩まなければ、御使いを通して色々な災いが来る。
ここで言われている事は、教会に起きて来る、良い事も、悪い事も含めて、全て御使いを通して来る。「右手に七つの星を持ち」というのは、イエス・キリストご自身なので、全てはキリストから来る。
我々の歩み方次第で、良くも悪くも主から来る。
「口からは鋭い両刃の剣が出ており」
剣は、御言葉に関しての喩え。
剣は、穏やかな物ではない。 命にかかわる言葉。 御言葉に関しての事柄。
言わんとしている事は、主は、御言葉に関しての、我々の奉仕に対して、良くも悪くも、報いを持って来られる。 場合によっては奉仕が災いになってしまい、次いで永遠のいのちを取られてしまう者も出て来る。 その様な事を語っているように思う。
何故なら剣は命にかかわる事柄であるから。
主が再臨される時に、明らかにわかる事は、我々の奉仕に関して、報いを持って来られる。
我々が正しく、主の御心に沿った奉仕をして行けば、大いに祝福を得るようになる。
逆に、御言葉と違う事を言ってしまったり、(福音の総合理解など)
主の口から剣が出ているというのは、意味の無い言葉ではない。
1:17それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
「最初であり、最後であり」と書いてある。 他の所では、「アルファであり、オメガである」と書かれている。
黙示録で強調されている事。「初めであり、終わりである」等の表現は、黙示録ならではのもの。これは、言っている事は、オメガはギリシャ語のアルファベットの一番最後であるから、世の終わりにもおられる方。
そんなことをいう事が出来るのは、イエス・キリストしかいない。
したがって、この方の言われた未来に関しては、この方の言われた事が正しい。
特に黙示録は、終末の教会について、終末のこの世について書いてあるけれども、明らかにメインは教会に関する事。
世の終わりに教会がどうなるか、明らかに書かれている書であり、まさにそのために書かれている書なので、ここに書いてある未来が正しい。
我々が、正しくこれを読むならば、未来を悟る事が出来る。
その為の備えをなしていく事ができる。
なので、この事は必須。
「生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」とある。
「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」というのは、ご存知の様に、イエス・キリストは十字架にかかられた。そして死なれた。 「死」を経験しておられる。
しかし、その後に復活をして、いつまでも生きておられるという事。
言わんとしている事は、「いつまでも生きておられる」と書いてあるが、「いつまでも」というのは、「永遠」というニュアンスがある。
実際にそう。
イエス・キリストは、初穂として甦られたので、「復活」という事をこれらを通して理解しなければならない。
イエス・キリストについては、我々の「長子」とか「初穂」という呼び方をしている。
長子という事は、次男、三男があるという事。
要するに、次男、三男も、長子と同じ道をたどるという意味合いがある。
我々は「復活」を、キリストの復活を通して理解しなければならない。
キリストはある意味では特別ではない。
我々は、確かに今の地上の生活を大事にしているし、我々が今見えるものは、今の人生しかない。 信仰の目をもって、「復活」の事をも見て行かなければならない。
我々が、主の憐れみによって受けるようになるならば、永遠に続く命を得る。
「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」
「いつまでも」の原語の意味合いは「永遠」というニュアンスがある。
そういう命を我々は得る。
「わたしは死んだが、見よ」
キリストは、神の御心に従って、十字架で、殉教した。
十字架の死は、決して楽なものではないが、それだけを見ないで、その後に、永遠のいのちを得るという事がセットで来る。
我々は、今の見えるいのちの事だけではなくて、右往左往してしまわずに、信仰の目を持って、
御言葉に従って、人生とか、後のいのちを見て行きたい。
くれぐれも、この世の命だけで、この世の損得だけで、早まって反キリストを拝んでしまい、後で大後悔してしまわないようにして行きたい。
「見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」
死とハデス。
ハデスとは、地獄の事。「金持ちとラザロ」の「金持ち」が入った所。
イエス・キリストは、「死とハデスとのかぎを持っている。」
英語で言うと、キーパーソン。
我々が、永遠の死に入るか入らないかは、死を滅ぼして永遠のいのちに入るか、または誰が地獄へ入るか入らないか、全ての鍵は主が持っておられる。
この事は、改めて捉えて行きたい。
鍵は、反キリストが持っているわけではない。獣の国アメリカが持っているわけでもない。
なので、恐れるべき方を恐れて行かなければならない。
色々複雑に考えてしまうと、間違えてしまう。
それで、全然違うものを掴んでしまう人がいるが、「然りは然り、否は否」でなければならない。
我々が、後の世の事を考えて、我々は何があってもハデスには入りたくはない。
結論としては、恐れるべき方を恐れるという事。
死とハデスの鍵をお持ちなのは、イエス・キリストお一人だけ。
いくら獣の国に忠実だからといって、後の世で、ハデスから免れるわけではない。
地上では大変な目に遭うかもしれないが、然りは然りで、誰を恐れて行けなければならないかをはっきりすべき。
1:19そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
1:20わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」とある。
書いて、そして2章の1節に書いてあるように、「エペソにある教会の御使いに書き送れ」と
あるように、何故書いて送るのかというと、教会は、これから、自分の教会がどの様になるかが分からないから。書かれた手紙を読めば、これからなにが起こるかという事が分かるという事で、教会で、聞く耳のある人は備えをするし、聞く耳を持たない人は備えはしない。
だから「書き送れ」という事だと思う。
そして、主は、ヨハネに、この後に起きる事を語られた。
黙示録は実際にそういう書。
この書は非常に特別な書。 未来に関しての預言の書。
特に新約の教会である我々に対しては、非常に大事な書。
後に起こる事が、まさにこの書に書いてある。
ヨハネはそれを聞いたので、また「見た」ので、彼はそれを各教会に書いて行った。
こういうひと手間が、ヨハネを通して、黙示録の中で言われている。
そして文字通り、黙示録にて、ヨハネはそういう手紙を七つの教会に書いて行ったと思うが、これはある意味型であると思う。
我々も、もし、未来、これから起きる事に関して、「見たなら」また「読んだなら」、それは、この後起こる事を、教会に対し、書いて行かなければならないので、試される。
と言うのは、書いた人、送られた手紙を読まなければ、教会の人は何も知らない。
能天気になって気楽に過ごしてしまうかもしれない。
しかし、そこに警告が書いてあれば、耳を傾ける人がいるかも知れない。
レムナントの一つの使命は、明らかにこれから起こる事に関して、主から啓示の示しがあるので、それを教会に送って行くという事。
実際に我々はそれをやっている。 「角笛ニュースレター」を各教会へ送っている。
ある人は真面目に受け取らないし、ある人は、歩みを糺すかも知れない。
どちらにしても、我々にはそういう使命があると思っている。
何故なら、誰かが書かないと、分からないから。
そして、これから起こる事に関しては、どんな人間の未来に対する予測よりも、唯一、神の書かれた、聖書、特に黙示録の中に、教会に対しての未来が、書かれた通りになる。
問題は、色々書かれた謎とか、喩えとか、封印があって読みづらい。
しかし、封印が徐々に解かれているので、書かれた通りになる。
なので我々は、この奉仕を忠実に成し遂げたいと思う。
我々の理解では、キリスト教会は崩壊していくという、主が言われた、宮の崩壊は、必ず成就していくと思われる。 一つの石も、他の石の上に残さないという日が来るだろうと思う。
その時には都にいる者は、山へ逃げる。 そういう時が来るという事を前もって我々は警告している。
「角笛HP」もそういう事が書いてある。
まさに聖書的な事をやっている。
「教会に、警告を書き送れ」という事。
何故送るか、やはり、警告の手紙がその教会に届かないと、何が起きるかという事が、教会が分からないから。
そういう意味合いで、大事な奉仕。 ある人は耳を傾ける。
レムナントキリスト教会
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天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著