ヨハネの黙示録11章1~6 2016.2.21
11:1それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
11:2聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。
黙示録は、七つの封印で封じられている。
そして、あらゆる謎、喩えが使われている。
旧約聖書の創世記から、出エジプト記など、それらのあらゆる神の知恵、謎とか喩えを理解して初めて、この黙示録は理解出来るのではないかと思われる。
この書は、読んでいく事に大きなポイントがある。
「この書の言葉を聞く者と、朗読する者は幸いだ」と書かれている。
主の知恵をもって、聞いて行きたい。
神の聖所と祭壇と、聖所の外の庭とが書かれている。
この事には、意味がある。
この箇所を見て行くには、旧約聖書の「神の聖所」とか、「祭壇」とか、また、「庭」など、この辺を理解しなければ分からない。
旧約聖書の、聖所の構図とか、そういったものを見て、初めて分かる。
神の宮の構造というのは、日本の神社の構造と似ている。
黙示録11章の、1節、2節で書いてあるのは、測らなければいけないのは、「聖所と祭壇と、そこで礼拝している人」
聖所の中で礼拝している人というのは、レビ人。
レビ人=くっつく
祭壇で礼拝している人というのは、この中にいる。
測る部分というのは、この辺り。 庭は例外。
測られる人というのは、神に選び別たれる人々。
数えられる人。 または、特出される人々。
例えば黙示録に出て来る14万4千人のように、神に選ばれた人々。神の印を押された人々。黙示録の他の箇所では、都の大きさは、何万キュビトとかがあるが、そういった単位と同じ。これは明らかに神の前に特出される人々、神に赦された人々とか、選びにあずかった人々。
ここで言っている事のポイントは、これは旧約聖書に出て来るが、喩えが語られている。
一つは、今の新約で言うなら、主の弟子の歩みをしている人。あとは、群衆のような歩みをしている人の区分。聖所で仕えている人々は、弟子の歩みをし、主に仕えている歩みをしている人々。しかし、「外の庭」は群衆の歩みをしている人々、旧約で言えば、レビ記とか、出エジプト記とか、申命記とかで分かるのは、「庭」というのは、一般の人々でも近づくことが出来る。新約で言えば群衆。
黙示録は、終末の事に関して書いてあるが、問題は、「聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」
多くのクリスチャンの、群衆的な歩みをしている人達が、みんな異邦人になってしまうという事。クリスチャンの価値観が、群衆、異邦人の様に変えられていってしまうという意味。
この事は、イエス様の時にも行われたと思う。
新約聖書の福音書を見て行くならば、主に本当に仕えて行く、弟子の歩みをしている弟子たちは、ペテロがイエス・キリストを、「本当にあなたこそ、あなたは神の子キリストです」と理解していた。 しかし、群衆の歩みをしていた人々は、ピラトがたずねた時、「十字架につけろ」と叫んだ人々。救い主を十字架につける者はねもはや異邦人。
本当の意味で、神の民とは言えなくなってしまう。
その時は、群衆の歩みをしていた人たちは、神の民とは言えず、異邦人のようになった。
キリストを十字架につけた人々は、群衆の歩みをしていた人々は、神の民と言うより、異邦人の歩みをしていた。
同じ事が、世の終わりの時に再現されると思われる。
聖所の外の庭は、群衆の入るべき所。
神の前に認証されないし、神の選びの中に入らないという意味合い。
「彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」
黙示録に書いてある事は、暗示であり、謎であり、難しいが、それを解いていく時にわかる事は、あらゆる形で、一つのポイントは、残念であるが、教会は背教して行くという事が書いてある。聖書のいろんな結論というのは、決して楽観主義的ではない。
それは、良くも悪くも現実。
旧約の民であるユダヤ人の結末というのは、イエス・キリストの初降臨の時に、十字架につけてしまった。 これは、旧約の神の民の歴史の終わり。
11章にも書いてある。8節で、「彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」
新約の教会の終わりにも、キリストの十字架が再現するという事。
この辺りを理解しなければ、基本の基本が理解できないので、黙示録は何が何だか分からない書になってしまう。
群衆の歩みをしている人達は、みな、異邦人すなわち信じていない人と同じ価値観になってしまう。「聖なる都を四十二か月の間踏みにじる」とある。
四十二か月は三年半。なので、これは大艱難時代の事。
11:11しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
三日半は、一週間の半分。
一週間は七日であるから、その後半が大艱難だと言われているが、それを三日半と言っているが、これは三年半の事。
いろんな表現で三年半の黙示録の時代の事が書かれているが、艱難時代はいくつもあるわけではない。一回だけである。
黙示録は、同じ事が繰り返し書かれているという事を語っている。
この書は、同じ事を繰り返し語っている。
「聖なる都を踏みにじる。」という事が、他の箇所でも出て来る。
ルカ
21:24人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
ここも、喩えで書いてある言葉。
喩えで理解するなら、「人々は、剣の刃に倒れ」とは、クリスチャンがインチキな教理で倒されるという事。
背教に対して、神の怒りが臨む時だから。
「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ」これも喩え。
あらゆる国というのは、例えばエドムは、ヤコブの兄。
エドムは俗悪な者。
そういった意味から正しいクリスチャンの歩みから、捕虜となり、惑わしの教理など、そういった所に連れて行かれる事を通して、「あらゆる国に連れて行かれる」と書いてある。
「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
これは、意味合いのある言葉。
エルサレムは教会の型。 異邦人は、今で言う未信者。
未信者に、教会が踏み荒らされる時が来るという事を語っている。
旧約のユダヤ人にとって、異邦人は、全く神を信じない人の事。
同じように今でも、神も聖書も信じていない人々は、未信者。
教会が、あろうことか、異邦人に支配されたり、未信者に支配されたり、未信者の論理、未信者の価値観、未信者の教理で、踏み荒らされる時が来る。 これは預言。
それが、先のルカの21章に書いてある。
まさに黙示録の11章の2節で、「彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」
四十二か月とは、異邦人の時が終わる時まで。
三年半の艱難時代の一つの意味合いは、教会が、この世の論理、未信者の論理で踏み荒らされて、未信者の価値観、方法で三年半、踏み荒らされる時代が来る。
具体的には、今アメリカで始まっているように、どんどんキリスト教界にも、この世の論理が入って来ている。 一つの顕著な形は、同性愛を大いに認めている。
日本でも、同性愛に反対しづらい状態。
しかし、クリスチャンは、そうであってはいけない。 これは、罪の結果。
これは、全く受け入れて行くというのは、ソドム、ゴモラの罪を受け入れる事になってしまう。
性同一性障害云々ではなく、御言葉に立つかどうかの問題。
ローマ書にも、彼らは、神を知ろうともしないので、「男が男と恥ずべき事を行なうようになり」とあるが、これは同性愛。
同性愛というのは、神への罪が極まった時に、出て来る人の罪。
それを、障害だとか言い訳をして、受け入れるという事は御言葉に立つなら、我々としては受け入れない。
しかし、残念ながら、アメリカを始めとして、キリスト教会では、どんどん同性愛を受け入れていっている。 クリスチャンの間で投票をとったら、半数が、同性愛を受け入れている。
しかしこれは、異邦人に踏み荒らされる、という事が、徐々に出て来ている。
最終的には、教会が、同性愛を全く公認する。
反対する人は逮捕だとか、そんな事になって来る。
今のこの世の中で、しきりに色んな事件が起きているが、ISのテロだとか、それを通して言われている事は、「宗教の過激派が問題だ」という考えが強まっているが、行き着く先、ターゲットは、キリスト教の聖書の大事なところ。
「イエス・キリスト以外に救いは無い」という、この部分がターゲット。
「そういう奴らがテロを起こす」というように、最後には必ずなる。
「イエス・キリスト以外に救いは無い」という事を信じる事を失ったら、我々は異邦人すなわち未信者と同じになる。
三年半の艱難時代には、「キリスト以外にも救いがある」「ユダヤ教にもイスラム教にも救いがある」という事が、教会に公に受け入れられる。 これは異邦人。
そういう論理で、教会が踏み荒らされる三年半が来る。
クリスチャンが群衆の歩み、砂の上の歩みをしていく時に、残念ながら異邦人になってしまう。
しかし、我々がレビ人として留まる時、これは数えられるし、神の御前に覚えられていく。
その時に、クリスチャンの間に区分が出来る。それは、イエス・キリストが十字架につけられた時、群衆と十二弟子が、明確に分かれ、十二弟子は最後まで明確にキリストに留まったけれども、群衆はあっという間に洗脳されて、あろうことか、イエス・キリストをカルト呼ばわりして、十字架につけてしまったが、こういった大きな区分が出来るという事を、黙示録11章1節、2節でまさに語っているという事を理解して行きたい。
11:3それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
11:4彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
ここから二人の証人が出て来る。 彼らは預言する。
千二百六十日の間、つまり艱難時代の三年半。
二人の証人は誰かというと、一つは、旧約聖書に出て来る二人の預言者かと思われる。
一人はモーセであり、もう一人はエリヤであると、昔から言われている。
エリヤとモーセの特徴がある。
例えば5節で、「火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。」
「預言をしている期間は雨が降らないように」
これは、エリヤの特徴。
「水を血に変え」は、モーセの特徴。
この二人は、まさにモーセとエリヤ。
この二人の預言者は何かというと、「彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」
燭台というのは、黙示録の1章にある。
1:20わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
だから、燭台は、教会をさす。 すなわち二種類の教会が出て来る。
この教会は、全世界的な教会ではないが、主に仕える教会。
二本のオリーブの木。
ローマ書
11:24もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
11:25兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
24節で、栽培されたオリーブの木と、野生種であるオリーブの木という、二種類のオリーブの木が出て来る。
野生種は異邦人。今で言う未信者。
もう一つは、栽培種。 これは丹念に神様に育てられた。 これはイスラエル。
二種類のオリーブの木だから、主に仕える異邦人からなる教会。またはイスラエル人の子孫。
中東にいるユダヤ人は、偽ユダヤ人だと思う。
聖書が言うには、本当のユダヤ人は、セム族であり、黄色人種。
逆に日本人の方が、セム族であり、黄色人種であり、イスラエルの血を引いている可能性が大いに高いと思う。
二種類のオリーブの木。
二人の預言者が出て来るという事で、理解出来ることは、一つは、モーセが出て来るのは、出エジプト記で出て来る。
モーセが何をしたかというと、エジプトの国を、あらゆる災いを持って打った。
モーセが出て来るという事は、どういう事かというと、逆に言うなら、その日、全世界の公の教会はエジプト化するという事が暗示されている。
黙示録は、繰り返し、終末の日の教会の背教について語っている。
これを理解しなければ分からない。
黙示録11章の8節では、「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。 」
「ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」とは、教会の事。
モーセが出て来るという事は、全世界はエジプト化するという事。
教会がエジプト化するとは、(聖書は、そのテキストのみから解釈してはいけない。あちこちから参照せよという事)
へブル書
11:24信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
11:26彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
とあるように、モーセはパロの娘の子としてエジプトで育ったが、このエジプトにおける「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」
と書いてあるように、この世の罪とか、エジプトはこの世を象徴していると理解している。
この世のはかない罪の楽しみを受けるよりは、「むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」
だからクリスチャンとして、キリストの民として歩んだと、書いてある。
彼は、キリストの故のそしりを選び取った。
クリスチャンもそう。
この世で成功する事よりも、キリストの内を歩むという事を選び取った。
そういう意味合いで、エジプトを出たモーセは、この世を離れて、神の民として歩む事を選び取ったクリスチャンの型。
そういう事を認識したうえでもう一回黙示録に戻ってわかる事は、終末の日の大きな教会の問題というのは、「犬は自分の吐いたものに戻る」 これは良くない。
同じように、教会は、この世を離れたはずであり、この世の富とは別離した筈だが、終末の教会の問題点というのは、もとに戻ってしまっているという事。
それは、教会がどこに行こうと行くまいと、神の前に喜ばれない。
だから、教会に視点を合わせてはいけない。教会はどんどん背教して行く。
教会はエジプト化して行くという事は、よく覚えておく。
この世の罪が、どんどん入って来たり、この世的な方法が入って来る。
あらゆるところで顕著である。
アメリカのゴスペル、ミュージックでも、この世の曲をカバーしたり、色々な方法で入って来ている。
ゴスペルシンガーには刺青をした、この世の人と殆ど変わりない人もたくさんいる。
そして、同性愛を受け入れている。 つまりこの世の人と変わらない。
教会のエジプト化。しかしこれは、神の前に喜ばれない。
終末の日に、これから裁き、罰が下される。
なのでモーセが来て、エリヤが来る。
彼らは何をしにきたか。
警告として来て、最終通告をしに来る。
新約の神の民は、バプテスマのヨハネ(彼はエリヤ)を捕え、首を切って殺してしまった。
警告者を殺した。結局、旧約のエルサレムは、バプテスマのヨハネを殺した後、西暦70年、
ローマによって滅ぼされ、エルサレムにいたユダヤ人の最後の一人まで殺されてしまった。
これは神の怒りで、主の日が来た。
同じ事が再現する。
ここで、エリヤが来たとある。 エリヤというのは、主の日の前に来ることになっている。
エリヤとモーセが来たということは、もう終末の教会がエジプト化しているという事。
モーセが来たという事は、教会がエジプト化したという事を語っている。
エリヤはカルメル山において、バアルの預言者、アシェラの預言者たちを相手に対決をした。
それは、850対1の戦いだった。 バアルの預言者400人、アシェラの預言者450人。対してエリヤは一人。エリヤが祈った時、火は下された。
エリヤが来たという時に、教会がどうなったかというと、バアル崇拝に陥っているという事。
かつての日、イスラエルがバアル崇拝をして、バアルの預言者400人、アシェラの預言者450人もいたが、主の預言者はエリヤしか残らなかった。
バアル崇拝が、イスラエルに浸透していった。
エリヤが終末の日に来るという事は、バアル崇拝が再現する。
バアルは器崇拝の喩えの意味合い。
カトリックもそうかも知れないが、プロテスタントも、バアル崇拝になっている。
あらゆる器、ベニーヒン、ビルハモンなどが用いられ、その者たちが、聖書と違う事を言って、
違う霊を下しても、彼らについて行く人は多い。
だから今は、バアル崇拝、器崇拝の時代。
それに対して神の怒りが臨もうとしている。
その事をその二人の預言者を通して、聖書が語っており、暗示している。
それを読み解かないと、七つの封印は開かれていないという事になってしまう。
エリヤが来たという事は、もう一つは、主の日が近いという事。
マラキ書
4:5見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
「主の大いなる恐ろしい日」とある。
これは、旧約においても新約においても、「主の日」と呼ばれている。
「主の日」という言葉を覚えておく。
これは、背教の民に対する恐ろしい罰の日をさして言っている。
エリヤが来るという事は、「父の心を子に向けさせ」と悔い改めの為に来る。
主の大いなる恐ろしい日が来る前にエリヤを遣わすという事は、エリヤがもし来てしまったら、
程なくして、主の日が来るという事の、裏返し。
これは、福音書の時代の頃に一度起こった。
エリヤは来た。バプテスマのヨハネの事。
彼が来た時、多くの民衆も悔い改めた。
それでも悔い改めなかった人たちもいた。
あろうことか、首を切って殺してしまった。
その後に、結局主の日が来た。
西暦70年にエルサレムが、ローマによって滅ぼされた。
主の日の一つの成就。 神の民に、恐ろしい罰が下った。
エルサレムに住む住人は、最後の一人まで殺された。
これは、神の罰。
これは、未来に起きる、新約の神の民に起きる、終末の日の、背教に対しての、神の、主の日の再現ということの型。
ここから学ばなければならない。
聖書は、そのように出来ている。
なぜ旧約聖書があって、新約聖書があるのか。
新約の黙示録11章で、エリヤが再度出て来るという事は、主の日が来るという事。
正しく歩まない神の民はそれこそ、絶滅と言うほどの恐ろしい神の裁きが来るという事。
本番の主の日は、教会時代の終わりに来る。
黙示録
11:5彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
これは、エリヤの時に起きた事。
エリヤを害しようとしてやってきた者たちがみんな滅んでしまった。
同じように、正しい人々に、害を加えようとするなら、火によって滅ぼされる。
火は霊的な事柄に関する喩え。 霊的な事が再現する。
悪霊の火は惑わし。 悪い事が、正しい事に見えて来る。
11:6この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
「預言をしている期間は雨が降らない」とある。
列王記を見る時に、エリヤがまさにそう。
エリヤが来て雨が降らなかった期間は三年半だと聖書に書いてある。
まさに艱難時代。
雨が降らないというのがどういう事かというと、雨は、聖霊の喩え。
なので聖霊が働かないという事。
世の終わりになる時に、聖霊が追い出され、聖霊が最早教会に働かないという時が来るという事は、聖書のあちこちに書かれている。
第二テサロニケ
2:6あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
2:7不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
「今は引き止める者があって」・・・・これは聖霊の事を言っている。
聖霊が、悪霊やサタン、不法の人(反キリスト)の働きをとどめている。
しかし、その引き止めておられる聖霊が、取り除かれると書いてあるように、聖霊が取り除かれる時が来る。
それが、艱難時代の三年半。
「取り除かれる」という言葉をギリシャ語原文で見ると、離縁されるという意味合いがある。聖霊がご自分から出て行かれるのではなく、聖霊が、「追い出される」というニュアンスがある。 実際に三年半の艱難時代というのは、教会が、自分の夫であるキリストを離れ、そして、他でもない、反キリストを自分の夫として迎え、霊的姦淫を行ない、そして、聖霊をも追い出すという、そういう時になる。
だから、別の表現で言えば、「天が閉じられて雨が降らない」という事。
七つ目のラオデキヤの教会においては、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたく」
これは、家を閉め出されてしまっている状態。
今の時代、キリストは聖霊となって来られている。
書かれている事は、みな成就する。
一つは、これから世の終わりの時は、天が閉じられる時。
別の表現で言うならば、あろうことか、神の霊である、聖霊が働かず、聖霊をまねた別の霊に
よる不思議をクリスチャンが喜んで受け入れて行く様になる。
この事は明らかに暗示されている。
今プロテスタントは、ペンテコステ系の、しるしと不思議のリバイバル、聖霊の第三の波など、
大いに「神のすごい恵みが来た。」などと言っているが、これは悪霊のリバイバルだと理解出来る。聖霊の業ではない。
ベニーヒンは、表向きでは「イエス様」などと言っているが、裏では「デーモン」を連発し、悪霊を呼び出している。
もうそういう時代に来ている。 これらの事は、みな成就している。
これがエスカレートし、聖霊が全く働かなくなった時、これが三年半の艱難時代。
我々はその時、ソドム、エジプト化した教会に留まる事には御心は無い。
ポイントは、仮庵の祭をし、地下教会を用い、歩むべき道を歩んで行く事。
レムナントキリスト教会
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