ヨハネの黙示録13章7~10 2016.5.1
13:7彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
「彼」とは獣の国。
「聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許される」というのは、由々しき事柄。
クリスチャンは、本来負けない。
我々は、神の方法を正しく理解しなければならない。
名目だけの勝利ではダメ。
実際のキリスト教会の歴史、また旧約の神の民の歴史というのは、名目とか、我々の理想とか論理に従って歩んでいるのではなく、どこまでも神の方法、神の前の義とか、そういったものにおいてなされるとかを理解しなければならない。
終末は、我々クリスチャンの思い描いている事、夢想している事、「こうあったらいいな」とかとは全く逆の事を書いてある。
どんな風に脚色しても、御言葉を盗もうが、やはり、神様の方法があるので、それに基づいて物事は進んでいく。
終末の日の明らかな、聖書が繰り返し語っている事、どんな風に教理を改ざんしても、隠しようのない事は、「聖徒」とは、クリスチャンの事。
テサロニケの手紙にも、「教会は背教する」と書いてあるので、残念ではあるが、書かれてある言葉に従って理解して行かなければならない。
そうでないと、全く違う教理、インチキな教えをすりこまれてしまう。
「艱難の前に上げられる」など。決して起きない希望を抱いてしまうかもしれない。
ゼパニヤ書
1:14主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。
1:15その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、
1:16角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。
1:17わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。
1:18彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす。
黙示録13章の、「聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許される」とは、神の力が弱くなったからではない。 サタンが強くなったわけでもない。
神のゆるしが無ければ、一羽の雀も地に落ちることは無い。
まして、クリスチャン、教会が、全世界的に崩壊して行くというのは、神の許しが無ければ起きない事。
先のゼパニヤ書の箇所は、そういった事を説明していると理解出来る。
黙示録は短い書だけれど、この中に500ヶ所以上の旧約の色々な所から引用されている。
なので、黙示録だけから御言葉を理解して行くのは、それこそ、その箇所のみから解釈をする私的解釈になる。
何故、聖徒が負けるのか。まさにゼパニヤ書が説明になるかと思う。
「主の大いなる日は近い。」「聞け。主の日を。」
「主の日」という、ある一つの特別な日が、世の終わりに来るという事は、まさに聖書が語っている事。
何故そんな日が来るのかという事に関しては、「その日は激しい怒りの日、」
これは神が「怒って」おられるから。
神が怒りを燃やして、その怒りが現われる日が「主の日」
根本であり、終末に関連して、世の終わりに関連しては、神の怒りが一番の根本原因。
だからあらゆる災いが来る。
「神が怒られた」事を理解できないと、何も分からない。
今のクリスチャンは勘違いしている。
「神は、この世の人とユダヤ人に対して怒られた」
それは違う。
これから来る時と言うのは、教会時代の終わり。
教会が、2000年の時を経て、今まさに、背教と、神への背信の真っただ中に来ているから、神の怒りが臨んでいるというのが正しい。
アメリカではクリスチャンの半分以上が同性愛を容認している。この世の人ではない。クリスチャンである。これは背教。
世の終わりの時と言うのは、神の、教会やクリスチャンに対してのあらゆる怒りが、燃え上っている。 これは根本の根本。
これが分かっていない事には、全く見当違い。
世の終わりは、確かに喩えが使われているが、教会や、クリスチャンに対しての怒りだという事は、明らかに暗示されている。
例えば7つの鉢というのが黙示録に出て来ているが、「鉢」は最後の晩餐の時に出て来る。
イスカリオテのユダの裏切りの時。
だからこれは教会と関係がある。
「その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、」
だから、黙示録を読んで明らかに理解することは、教会は崩壊して行くという事。
ゼパニヤ書から分かるように、理由はただ一つ。 「主の激しい怒りの日」だという事。
何故クリスチャンが、獣の国、サタンに負けてしまうかというのは、たった一つの理由によるもの。 神が無力になったわけでも、イエス・キリストが無責任になったわけでもない。
聖徒(クリスチャン)、教会の罪、背教が原因。
「わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。」
これが、神の怒りの原因。
黙示録はこれらの事柄が、まさに全面的に起きて来るという事柄が根本原因であり、唯一の理由。
ゼパニヤ書
2:1恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。
2:2昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。
2:3主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。
だから、我々が選ぶべき道は、このあたり。
怒りの日は確かに来るが、かすかに希望がある。「そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」
仮庵の祭、荒野はそういう事。
主の怒りの日にかくまわれる場所。
怒りの日に、やはり、背教の教会は全面的に、獣の攻撃の下で全く背教になり、そして、荒らす憎むべき者が、立ってはなら無い所(キリストの座)に立ち、殆ど強制的に、あらゆる公の教会のクリスチャンは、反キリストを拝まざるを得ないところに入って行くのではないか。
しかし、主が言われたように、その日、「屋上にいる者は、家の中に戻ってはいけない」
これは、仮庵に関連している。 仮庵にとどまる事にポイントがある。
これが、「主の怒りの日に匿われる」という事柄。
だから、仮庵にとどまるかどうかという事が、反キリストを拝まざるを得ないところに入って行くのを免れる唯一の道。
「主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。」
これは、キリスト教会の事。
定めを行なう、とは、我々は、愚直にも頑固にも、分かった事は行なうという風にして来た。
やはり、正しかっただろうと思う。
「キリストの再臨は2回ある」「艱難前に上げられる」などの教えに同調せずに、正しく御言葉にとどまったというのは、正しいと思う。
「主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者」 そういう者に御心がある。
「主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。」
だから、主の御心、終末の啓示とか、まさにポイントがある。
多くのクリスチャンは、自分にとって都合のいい教理を求めているかも知れないが、そうではなく、主の言われている事を求めて行くというところにポイントがある。
これは、その日(怒りの日)に匿われる事に通じる。
このポイントは覚えておく。
黙示録
13:8地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
13:9耳のある者は聞きなさい。
「耳のある者は聞きなさい。」という言葉が、ぽつんぽつんと福音書の中にも出て来る。
これは、「ここは大事だ」というように思われる。
「大事なポイントなので、聞き流してはいけない。」
「彼を拝む」とは、ここにポイントがある。
「彼を拝むようになる」というのは、時々勘違いする人もいるが、これは、反キリストの事ではない。
「彼」とは何か。
10本の角と7つの頭を持つ獣の国。
少し、理解しづらいが、我々の理解だとアメリカの事だと思うが、「彼を拝むようになる」とは、要するに、今の時代で言うなら、「アメリカを拝むようになる」という概念。
これは覚えておく。
アメリカ由来の教理を拝む、とか、アメリカ由来の霊とか、リバイバル。
こういったものをどんどん吟味無く受け入れる。
しかしそれは、どんな事か。
「世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」
つまり、世の初めから、いのちの書に、名が記されていない・・・そういう結論になる。
名があっても消されてしまう。
アメリカ由来の教理、霊(ベニーヒン、ビルハモン等)、それらを拝み、受け入れて行くという事は、永遠のいのちを得ないという事。
だから、アメリカ由来の事柄というのは、小さなことではないと理解出来る。
まさに永遠のいのちにかかわる事。
この事は、正しく見て行く。
「ほふられた小羊のいのちの書」とあるが、だから場合によっては殉教もありうる。
「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書」とかいてあるので、(地に住む者とは天に住む者すなわち天的な教会とは反対) 地につき、この世についているクリスチャンが、結局は、アメリカ由来のインチキに入って行く。
どうも、アメリカ(獣の国)由来のものを受け入れるか否かが(拝むか拝まないか)、永遠のいのちに関係する様な大きな事柄になるという事が、ここには一面書かれている。
13:10とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。
ここで、アメリカに関連して2つの事が書かれていると理解する。
1つは、とりこ。 もう1つは、剣。
とりこと、剣。
「とりこ」という言葉に関連しても、いくら黙示録を初めから終わりまで見ても、これ以上のヒントは出てこない。
エゼキエル書
12:11また言え。『私はあなたがたへのしるしである。私がしたようなことが彼らにもなされる。彼らはとりことなって引いて行かれる。
「とりことなって」という言葉が出て来る。
まさに「とりこ」を説明している箇所。
突然のように黙示録で「とりこ」という言葉が出て来るが、黙示録だけ見ても分からない。
ここは明らかに旧約聖書の色んな箇所と関係しているので、それを見て行くと分かる。
12:2「人の子よ。あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは反逆の家だから、見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない。
クリスチャンは、ある意味では、見る目もあるし、聞く耳もある。
聖霊が語っている。「本当にそれでいいのか」と。
しかし、聞く耳があるのに聞いていない。 それは問題。
要は聖霊の声に耳を傾けないという事。
12:3人の子よ。あなたは捕囚のための荷物を整え、彼らの見ている前で、昼のうちに移れ。彼らの見ている前で、今いる所から他の所へ移れ。もしかしたら、彼らに自分たちが反逆の家であることがわかるかもしれない。
ここで「捕囚」という言葉が書かれている。
具体的には、ユダの民は、バビロンに捕囚されて行く。
「捕囚されて行く」という事がまさに、「とりことなって行く」ということ。
捕まえられて、とりことなって連れていかれる。
「捕囚」という言葉の意味合いを見る。
「捕囚」という事に関連しての聖書の喩えの理解を見ていかなければならない。
これは、御国の奥義だが、旧約に起きた、バビロン捕囚という事柄は、新約においても再現する。何故なら、黙示録でバビロンが再度出て来る。
捕囚も再現する。
だから、黙示録に「とりこになるべき者は、とりこにされて行く。」と書いてある。
再現するという事を言っている。
バビロン捕囚が、もう一度再現するという事を理解しなければ、黙示録のその箇所を読んだ事にならない。
まさに「とりこ」とはその事を言っている。
旧約の神の民である、ユダが、捕囚されてバビロンへ行くというのは、大きな隠された、御国の奥義としての深い意味合いがある。
それは、彼らが住んでいる地というのは、神が先祖たちに約束した特別な地(カナンの地)。
これは、アブラハムに約束した、帰る機会はあったけれども、そうでなく、これは、我々が受け継ぐべき、天の御国の事に関しての喩え。
その約束の地を、引き抜かれて、バビロンの地、異邦の地へ連れていかれるとはどういう事かというと、我々クリスチャンが、天において受け継ぐべき、入るべき天の御国から引き抜かれてしまうという事をまさに言っている。
その代わり、異邦のバビロンに連れていかれる。
なので、バビロンに連れていかれた人達は、今まで先祖たちが入った、イスラエルとかユダの墓には入らない。バビロンで死ぬ。
「死」というのは、ある意味で「門」
墓は1つの門。それは、死後入るべき我々の地への門。
それが、約束の地ではなくバビロンだという事は、深刻な問題。
これは、天の御国に入れないという意味合いがある。
なので、「捕囚」という事柄に関して、旧約聖書が繰り返し語り、何度も強調している。
そうでないと、このエゼキエルの箇所も、意味合いが分からない。
12:4あなたは、自分の荷物を昼のうちに彼らの見ている前で、捕囚のための荷物のようにして持ち出し、捕囚に行く人々のように、彼らの見ている前で、夕方、出て行け。
「捕囚」と書いてあるように、捕えられていくという意味。
約束の地から引き抜かれて行くという事。
12:5彼らの見ている前で、あなたは壁に穴をあけ、そこから出て行け。
12:6彼らの見ている前で、あなたは荷物を肩に負い、暗いうちに出て行き、顔をおおって地を見るな。わたしがあなたをイスラエルの家のためにしるしとしたからだ。」
「顔をおおって地を見るな。」 まさにこの地を見るという事に関して言われている。
先祖たちが、約束されて入った、神が約束したこの地を、自分たちが引き抜かれて出て行く。
そういう事を言っている。
これは、喩えを理解しなければならない。
我々クリスチャンは、永遠の御国に約束された者。
アブラハムの約束は、我々にも有効。
しかし、知らず知らずに「艱難前携挙」とか、「地獄は無い」など、わけの分からない教理に引っ張られていくうちに、「捕囚」されて行く。 引き抜かれて行く。
特にアメリカにおける教理。
だから「拝む」とか「拝む者はいのちの書から名が消される」と言っている。
アメリカ由来で、クリスチャンを捕囚するような、永遠のいのちから引き抜くような、そう言った偽りの教えが入って来るので、吟味無しで受け入れてはいけない。
この事は奥義なので、「耳のある者は聞きなさい」と言われている。
12:7そこで、私は命じられたとおりに、私の荷物を捕囚のための荷物のようにして昼のうちに持ち出し、夕方、自分の手で壁に穴をあけ、彼らの見ている前で、暗いうちに荷物を背負って出て行った。
12:8翌朝、私に次のような主のことばがあった。
12:9「人の子よ。反逆の家、イスラエルの家は、あなたに、『何をしているのか。』と尋ねなかったか。
12:10彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。この宣告は、エルサレムの君主、およびそこにいるイスラエルの全家にかかわるものである。』
12:11また言え。『私はあなたがたへのしるしである。私がしたようなことが彼らにもなされる。彼らはとりことなって引いて行かれる。
12:12彼らのうちにいる君主は、暗いうちに荷物を背負って出て行く。出て行けるように壁に穴があけられる。彼は顔をおおうであろう。彼は自分の目でその地をもう見ないからである。』
「その地(約束の地)をもう見ない」という事が強調されている。
なので我々は、約束の地に留まっている間は、先祖たちに約束された天の御国に入って行く。
しかし、ここで書いてあるように、ひとたび捕囚されて、そこから引き出されて行くならば、この約束の地、天の御国をもう見ない。
全然違う教理に入ってしまって、救い、天の御国の約束とか、そういったものから、引き離されてしまう。
そういう意味で、「捕囚」というのは、非常に深刻な事を意味している。
12:13わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をカルデヤ人の地のバビロンへ連れて行く。しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう。
「わたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。」というように、神が、我々が正しく歩んでいない時に、それこそ「神由来」の罠とか、網がかけられてしまう。
例えば「艱難前携挙」を信じている人はまさに罠にかかっている。
罠にかかった人は、自業自得。
聞く耳があるのだから。見る目があるのに、見ようとしないとか、そういう事。
バビロンに引かれて行くという事は、アメリカ由来の教理にぐっと引かれていってしまうという事。
我々の理解では、アメリカのキリスト教会はバビロンだから、そこに引いて行かれるという事は、先祖たちの約束の地から引き抜かれてしまうという事。
罠や網もあるが、これに引っかかっている人は結構多い。
我々にあってはそうであってはいけない。
「とりこ」となってはいけない。
12:14わたしはまた、彼の回りにいて彼を助ける者たちや、彼の軍隊をみな、四方に追い散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う。
12:15わたしが彼らを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
神は積極的に、約束の地より引き抜いている。 神の怒り。
そして、「四方に追い散らし、」・・・約束の地より引き抜かれ、全然違う所へ引き抜かれて行ってしまうという事。
先程の黙示録13章の「とりこ」という言葉と、まさに関係している。
これが黙示録の時代に、「捕囚」という言葉が実現するという事が、まさに主が語っている事。かつて、エゼキエル書で預言されていた御言葉が、黙示録の日に必ず成就するだろうという意味合いで、「とりこ」という言葉が出て来ている。
聖書が語る、天の御国に入る正しい道とか、正しい教えから引き抜かれて、バビロン由来のインチキな教えに取り込まれ、捕囚されて行くという意味合いがある。
黙示録
13:10とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。
「とりこになるべき者は、とりこにされて行く。」とあるが、これは、KJVでは違う訳。
「人をとりこにする者は、自分もとりこになる」という言葉。
こちらの方が正しい。
これが何を意味しているかを見たい。
言わんとしている事は、アメリカのインチキな教理を持って来て、「艱難前は絶対正しい」とか、自分の教会の信者にもいろいろ教えて、正しい教理にいる人達を騙し、インチキな教理の「とりこ」にする者は、自分自身も結局とりこになって、約束の地から引き抜かれてしまうという事。
だから、アメリカ由来のインチキな教理を一生懸命宣伝しない方が良いという事。
「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。」という事。
なので、黙示録の時代で、気を付けなければいけない事は、「剣」を持っている人。
剣で人を殺したりしない事。
「剣」とは、御言葉、教理。
アメリカを拝む事になる時に、教理がおかしくなるという事。
おかしな教理を掴んでしまうという事。
それを掴んでしまう時に、結局は、「剣で殺される」と書いてあるように、それは、いのちを奪う。
なので、違った教理を掴んでしまうという事は、非常に重大な結果をもたらす。
剣で心臓を刺されれば命を失う。
同じように我々が、教会に色々入って来るインチキな教理を掴む時に、それは結局は、永遠のいのちを失うようになって来る。
まさに聖書が語っている警告というのは、正しく見て行きたい。
「剣」に関して。
エゼキエル書
21:1次のような主のことばが私にあった。
21:2「人の子よ。顔をエルサレムに向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。
ここから剣とか、教理に関して災いが来るが、「顔をエルサレムに向け」 エルサレムはまさに、旧約の神の民の中心。
聖所は神殿。イスラエルの中の最も聖なる所。
それに関して「剣」が預言されている。
そういう意味で言うと、今の時代のイスラエル、エルサレムであるキリスト教会に関して言うならば、最も正しいと言われている教団も、あらゆる教団も含めて、剣でやられて行くという事が預言されていると理解出来る。
おかしな教理にやられていないという教会というのは、存在していないという事が言われていると思う。
21:3イスラエルの地に言え。『主はこう仰せられる。今、わたしはあなたに立ち向かう。わたしは剣をさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼす。
イスラエル、エルサレムは、神が愛して特別にした民。
しかし、神の怒りの日に、剣が、他でもない神が最も愛した民に向かって、向けられていくという事は、ここに書いてある現実。
それと同じように、これは喩えであって、世の終わりの時には、神に最も愛されたクリスチャンとか、教会であっても、やはりこれらの「剣」、正しく歩まない時に、教理に関しての災いが来るという事は、事実。
21:4わたしがあなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼすために、わたしの剣はさやを離れて、ネゲブから北まですべての者に立ち向かう。
鋭い教理、インチキな教理だが、
21:5このとき、すべての者は、主であるわたしが剣をさやから抜いたことを知ろう。剣はもう、さやに納められない。』
21:6人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。
21:7彼らがあなたに、『なぜあなたは嘆くのか。』と言うなら、そのとき、あなたは言え。『この知らせのためだ。それが来ると、すべての者は心がしなえ、すべての者は気力を失い、みな意気消沈し、だれのひざも震える。今、それが来る。それは実現する。――神である主の御告げ。――』」
この様に、剣の災いがやって来るという事。
21:8ついで、私に次のような主のことばがあった。
21:9「人の子よ。預言して言え。主はこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。
21:10虐殺のために研がれ、いなずまのようにそれはみがかれた。われわれはそれを喜ぼうか。わたしの子の杖も、すべての木のように、退けられる。
終末の日というのは、残念な事だが、偽りの教理の方が、圧倒的な勝利を得てしまう。
獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つ。 教理で勝つ。
正しいクリスチャンが、インチキ教理で倒されて行く。
具体的には剣・・・教理で倒されて行く。
何故そうなるかというと、ある意味では、何故「艱難前携挙説」や、「ディスペンセンション主義」や、「終末の日は、ユダヤ人の時代になるから、クリスチャンは上げられる」というインチキがまかり通って、信じてしまう人が多いのかというと、1つにはこれは、神由来の剣だから。鋭い剣。
何故かというと、神の怒りの中で用いられている剣なので、有効だという事。
21:11その剣はみがかれて手に握られ、それは、研がれて、みがかれ、殺す者の手に渡される。
終末には、神の怒りの中で偽りの教理が用いられるが、「鋭い剣」になる。
どんなクリスチャンもいっぺんにやられてしまう。
21:12叫べ。泣きわめけ。人の子よ。それはわたしの民の上に下り、イスラエルのすべての君主たちの上に下るからだ。剣への恐れがわたしの民に起こる。それゆえ、あなたはももを打って嘆け。
「イスラエルの全ての君主」とある。
旧約時代には、ダビデ、ソロモン・・・がそうであったが、今の時代で言えば、神のイスラエルである、新約の教会でのあらゆる牧師とか、教師、有名な講師だとか、そういう人達。
剣は下り、すっかりインチキ教理を信じてしまっている。
21:13ためされるとき、杖まで退けられたなら、いったいどうなることだろう。――神である主の御告げ。――
21:14人の子よ。預言して手を打ち鳴らせ。剣を二倍にし、三倍にして、人を刺し殺す剣とし、大いに人を刺し殺す剣として、彼らを取り囲め。
剣は2倍3倍になる。 「レフトビハインド」なんかがそう。
「艱難前」は昔ひっそりと始まったと思うが、レフトビハインドは何千万部と売れているから、大ベストセラーだから、みんなすっかり、そういう終末観でやられている。
これは、神の怒りの中で、分かる事は、レムナントも十数年やっているが、なかなかこの真理を見る人が少ないのは、どうしてかと思うが、この箇所を見ると納得。
結論としては、その人の歩みが、神の前に正しくないなら、神の怒りを買っているなら、どんなに知識があっても、学歴がどうであっても、聖書の知識がどれだけ優れた者であっても、ギリシャ語やヘブル語が分かった人でも、やはり剣でやられて行く。
何故なら神がそう定めたから。
黙示録の13章で「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。」と書いてあるように、我々も、インチキな教理で、人を説得してしまってはいけない。自分も命を失う事になる。
なので、これらの事に関しては、やはり慄然としなければならないかと思う。
明らかに、黙示録全体は、神の民の背教のゆえに、神の怒りが燃え上っているというのが大前提。 だから、獣の国も強い力を発揮したり、クリスチャンがどんどんとりこになり、バビロンのインチキな教理のとりこになって行く。 神の怒りの故。
しかし、神は、旧約聖書を見て分かる事は、神は確かによく怒る方だけれど、怒られる側に理由がある。 モーセにしても、アロンにしても、ダビデにしても、ソロモンにしてもみな理由がある。 正しい事をしていて怒りを買っている箇所は無い。
なので我々も、絶望を語っているのではなく、たとえ時代が悪くなっても、我々が正しく歩むなら、やはり、神の正しい導きの中に入る。
クリスチャンも全体的に罪に入っている。 しかし我々は例外的に・・・かつてのクリスチャンにとって我々の歩みは普通の事。 クリスチャンは正しく歩むのが当たり前。
しかし、今は例外的になっている。
正しく歩むなら、激しい神の怒りから免れる。
神は、確かに激しい怒りをもたらすが、全く公平。
神は変わらない。 アダムの時もイエス・キリストの時も。
問題は、変わるのは教会であり、クリスチャン。
とんでもない背教があるから、神の怒りがさく裂している。
それを理解しない事には、終末の黙示録は基本の基本なので、全く分からない。
7つの封印どころか、1つの封印も開かれていない。
何も分かっていない。
こういったポイントは見て行きたい。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
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天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著