ヨハネの黙示録14章14~20 2016.7.10
14:14また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
雲に乗って来られる方は、明らかに再臨のキリスト。
黙示録14章が言っている事は、再臨の時に、必ずしも祝福があるわけではなく、はっきり言えば、災いが来るという事。
これは明らかに、災いの時であり、しかもそれは未信者の事ではない。
ユダヤ人の事でもない。
明らかに、クリスチャンに対する災いを語っている。
背教、裁き、罰は、ワンセットになっていて、これは必ず来るという事が、黙示録には書かれている。
これを読まない限りは、黙示録を読んだ事にはならない。
黙示録の最初の箇所で、「これを聞く者と、朗読する者は幸い」と書いてある。
「朗読」の原語の意味合いは、「読む」。
読むか、読めないかという問題。
黙示録を読んで意味が分からない野では、読んだ事にならない。
あくまで、「読む事が」幸い。
そしてこの書を正しく読むならば、祝福の事が書いてあるのではなく、教会への災いとか、罰とか、裁きに関して書いてある。
これが正解だが、多くの人は読めないし、耳触りの好い事しか聞かない。
そうであってはいけない。
これは我々に起ころうとしている近未来の事であって、正しく読まないなら、何の意味も無い警告になってしまう。
14章のこの節では、2種類の事が言われている。
1つは、「穀物(麦)」とか、ぶどう、これらの2種類に関しての災いが書いてある。
「地の穀物は実ったので、取り入れる時が・・・」とあるが、これは穀物に関しての災い。
クリスチャンは2種類の表現がされる。
キリスト教会では、「聖餐式」があるが、これにおいては2種類の物が使われる。
1つはパン(麦)、これは御言葉に関連したもの。
もう1つはぶどう酒。これは聖霊に関する事。
キリストの再臨の時、この2種類に関して災いが来る。
何故かというと、穀物に関しては、御言葉の真理が曲げられてしまったり、神が言っておられないような、偽りを受け入れて行き、その事に関しての罰や、災いが来るという事。
もう1つは、「ぶどうのふさを刈り集めよ。」と書いてある通り、これは明らかに悪霊によるリバイバル、聖霊を追い出し、悪霊のリバイバル、賜物を喜んでいる、こういう事に関しての
災い、怒り、罰が下る。
もっとはっきり言うなら、終末のキリスト教会は、色んな意味で、真理や、あるべき姿からずれる。 それも2種類の意味で。
御言葉に関してずれて行き、また、霊に関してずれて行く。
穀物に関しての刈り入れは、毒麦の刈り入れ。
ぶどうの刈り入れは、聖霊ではなく、悪霊を喜んでいるクリスチャンに関しての災い。
これらは耳に痛い事だが、はっきり見て行くべき。
そうでないと、黙示録の警告が、何の意味も無い、ただの物語になってしまう。
耳触りのいい事ばかり求めている者には真理は開かれない。
真理を語ろうともしないなら、見える事も無いし、封印の1つも開かれることは無い。
しかし、耳が痛いけれども、真理を見て行こうというつもりがあるなら、多少以上、見えるようになって、その事がまさに大事な事であるのではないか。
「また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。」
この方は、再臨のキリスト。
再臨のキリストに関連して、
マタイ
26:62そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
26:63しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」
26:64イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
この箇所は、キリストの再臨に関して言われている御言葉。
「天の雲に乗って来る」とある。
これが、黙示録での「その雲に人の子のような方が乗っておられた。」
明らかにこのマタイによる福音書でも、祝福を持って来るとは言っていない。
大祭司の質問に対し、イエス様は御自分の再臨の事について言われた。
御言葉、真理を曲げたり、正しいキリスト者を迫害したり、そういった人々への報復として、
来られる。あきらかにそうである。
なので、これらの事は、見て行かなければならない。
確かに、キリストの再臨は、祝福と恵みとに満ちているが、全てのクリスチャンにではない。
どんなに少なくても、半分のクリスチャンは災いに入る。
賢いおとめと愚かなおとめ。5対5。
明らかに半分の確率で、災いに入るクリスチャンがいる。
マタイの今の箇所の様に、イエス様を死刑に陥れようとしている大祭司のような人達は、キリストの再臨の時には災いに入る。
「あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
これを文字通り読むと分からない。 ここに出て来る大祭司は2000年も前の人物だから。
なのでこれは予表。
大祭司のような立場の人々。教会の礼拝を司っていたり、聖書の御言葉を司っていたり、人々を教えている、そういう人達が、同じように世の終わり、キリストの再臨の時には、災いになってしまい、しかもキリストを尋問したり、「お前はおかしい」などと言ったり、そういう事が再現するという風に理解出来る。
そういう人達への災いとして、キリストの再臨は来る。
言葉は神であるので、御言葉を指して、「ここは間違っている」だとか「復活と書いてあるが復活は無かった」と言ったり、「同性愛に関しての御言葉の表現はおかしい」などと、いろいろ批判しているのは、イエス・キリストを批判したり、裁判にかけたり、十字架に付ける人と同じ立場にあるので、そういう人達に対しての報復として来られる。
明らかにそういう預言なので、そういった事柄は見て行かなければならない。
そうすると、黙示録の御言葉と符合して来る。
黙示録
14:15すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
14:16そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
地の穀物は「実った」あるが、原語の意味合いは、「枯れる」と同じ意味合い。
枯れたものは、火で焼かれるので、同じ運命が待っている。
枯れた穀物も、火で焼かれて行く運命である。
日本語では「実った」とあるが、原語では、「枯れた」
枯れたぶどうの枝は、集められて火で焼かれると書いてあるように、そちらの方へ入って行く。
だからここは、穀物(麦)、すなわち御言葉のパンに関しての災い。
クリスチャンは、「麦」に喩えられる。
マタイの13章では、良い麦と、毒麦に関して書かれている。
「毒麦は集められて火で焼かれる」と書いてある。
まさに毒麦が集められて、火に入るという事の予表。
何故毒麦は集められて火で焼かれるかというと、「躓きを与える者」「不法を行なう者」だから。
「躓きを与える者」は、クリスチャンを躓かせて、真理から外す者。
「艱難前携挙説」もまさに躓き。
「不法を行なう者」は、正しい神の言葉を曲げて、不法にしてしまう。
「同性愛は正しい」など、そんな方向へ導く。
これは、集められ、火で焼かれる、そう書いてある。
なので今、神の言葉を恐れるべき。 何故なら、書かれてある事は、みな成就するから。
今は同性愛などがトレンディになっている。 同性愛に反対する者は、世間で顰蹙(ひんしゅく)を買うなど。
そんな事しか見ていないクリスチャンとか牧師とか神父は、その様な流行を追っている。
しかし、この世の事しか考えず、御言葉を不法に扱っている者は、いずれ報いとか罰を受けるようになる。 神を恐れなければならない。
多くのクリスチャン、牧師、神父は、既におかしな方向に入って行って、アメリカでは、プロテスタントでも、カトリックでも、半数以上のクリスチャンが、同性愛に賛成している。
それは、牧師とか神父が、惑わされ、おかしな方向に信徒を導いているから。
ろくなことは無い。
惑わす牧師も、惑わされるクリスチャンも、同じく火で焼かれる運命に入って行く。
だから、人や世の中を恐れるのではなく、神を恐れなければならない。
まさに黙示録14章で預言されている事は、明確に書かれた御言葉を、あえて否定する様な人々に待っている運命に関して書かれている言葉なので、他人事と思ってはならない。
14:17また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。
14:18すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
14:19そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
14:20その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。
ここは、「ぶどう」に関しての災いが書かれている。
黙示録14章では、2種類の災いが書かれている。
1つは「穀物」。 これは「麦」「パン」に通じる。
これは、「み言葉」に関連して、不法を行なう。御言葉を盗んだり、全く違う教理に持って行ったり、その様な事を喜んでいる偽善的なクリスチャンに対しての災い、裁きに関して書かれている。
もう一つは「ぶどう」に関しての災い。
「ぶどう」は、ぶどう酒に通じ、聖餐式のぶどう酒に通じ、またこれは聖霊の象徴。
本当に聖霊を受けているなら、災いには遭わない。
しかし、ぶどうならぬ、悪霊のぶどう酒、別の霊を追いかけている(これはペンテコステ系を初めとした、霊的な事を強調する教派がまさに、その最先端。トロントやペンサコーラは悪霊のリバイバル)。 それをもって、しるしや不思議を受けるから、「どんな霊でも良い」とばかりに受け入れているが、これは、悪霊を拝む事であり、悪霊のぶどう酒を受ける事であり、神の激しい怒りを買う事になる。
それが書かれているのが、14章の「地のぶどうが集められ踏まれる」という事。
「神の激しい怒りのぶどう酒」という事に関して見て行きたい。
ぶどうが踏まれるという事に関しては、
イザヤ書
63:2「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
63:3「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
「酒ぶねを踏んだ。」と書いてある。 これは、災いに関する事。
黙示録に書いてある、ぶどうが踏まれるというのは、
63:1「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」
災いに遭う人達は、ここに書いてあるが、ヒントが与えられていると理解出来る。
「エドム」とか「ボツラ」と書いてある。
エドムは、具体的には、ヤコブの兄のエソウの事。
エドム=赤いもの 何故かと言うと、ヤコブが調理している「赤い」料理を食べるため、長子の特権を売り払った。 俗悪な者。なので、エドムと呼ばれている。
エドムが、ここでは、ぶどうを踏まれる者として対応として出て来るので、エドムに災いが来るものと理解出来る。
黙示録ではサルデスという呼び方で出て来る。
サルデス=赤いもの
サルデスは、プロテスタント教会の予表ではないかと理解している。
これはまさに、プロテスタントと無関係ではない。
「エドムから来る者」とか、「ボツラから深紅の衣を着て来る」
エドムが災いに遭う。
しかも「赤」が使われている。 「深紅」は赤。
2節で、「何故あなたの着物は赤いのか」とあるが、エドムだから赤い。
そして、3節の後半では、「それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」
この赤が「血」の赤。
だから、エドム、「赤いもの」という意味合いの予表は怖い。聖書には怖い箇所がある。
これは、未来に関して言えば、いずれ神の怒りによって、赤い血を見るようになるという意味合い。 サルデスも同じ意味合いと思われる。
なので、黙示録の中では、プロテスタントは、サルデス=赤いもの と言われているので、同じような意味合い、「血」の赤が、連想されるという事をよくよく理解しなければならない。
プロテスタントと言って、誇っている場合ではない。 災いが来そう。
エドムは、どの様な災いになるかをイザヤ書の63章から見て行きたいが、
63:2「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
63:3「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
63:4わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。
63:5わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。
63:6わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」
普通に読んでも怖い。
なのでこれは、「ぶどう」に関しての災い。
ぶどうはぶどう酒に通じており、霊的な事柄。
だから、今のキリスト教会を席巻しようとしているリバイバルに関しては、よくよく気を付けなければならない。
「これこれの賜物が来た」「預言の賜物が来た」とか、「霊の賜物が来た」とか、喜んでいる人はいるかも知れないが、こういう日が、この様な人達に到来する可能性がある。
神以外の別の霊で喜んでいる時に、実は、「不品行のぶどう酒」を飲み、賜物にのめりこむほど、神の怒りを買っている可能性がある。
最終的にはこうなって来る。
主によって、怒りのぶどうを踏みつけられ、血の滴りが、流れ落ちるというような凄まじい怒りがやって来る。
なので、気を付けなければならない。
霊的な事に関しては、ヨハネの手紙に書いてある通り、霊だからと言って、何でも信じれば良いというものではない。
そうでないと、別の霊を掴み、別の霊の賜物を喜んでいると、最終的には、エドムの災いの様な日が来る。
意味も無くこのような事が書かれているのではなく、まさにイザヤ書63章の「酒ぶねを踏む」という事が、終末の日に、必ず再現する。
どう見ても、今の箇所しかないと思う。
「酒ぶね」「ぶどう酒」、他に箇所が無い。
明らかにこれは、聖霊以外の霊を受け、神の怒りを買っている。
それ以外に解釈できないので、よくよく気を付けて行きたいと思う。
同じような解釈が、旧約聖書の中に出て来る。
ヨエル書3章も、先ほどの「酒舟を踏む」とか、その箇所と関係があると思う。
ヨエル書
3:13かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。
先程の「踏む」と、そっくり。
ここでも、ぶどうに関しての災いが書かれているが、一体何が災いなのか、何を気を付けなければいけないかという事柄を見て行きたい。
3:1見よ。わたしがユダとエルサレムの捕われ人を返す、その日、その時、
3:2わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。
3:3彼らはわたしの民をくじ引きにし、子どもを遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ。
ここは喩えで書かれているので、理解が難しいが、簡単に説明すれば、「見よ。わたしがユダとエルサレムの捕われ人を返す、その日、その時、」と書いてある通り、1つは、世の終わりの時には、予表として、教会の回復とか、真理の回復とか、そういう事柄が出て来る。
これは、バプテスマのヨハネが言った通り。「主の道を真っ直ぐにせよ」「その道を備えよ」
だから、道がまっすぐになる時が来る。
また、エズラ書とか、ネヘミヤ記に書いてあるように、「宮の回復」とか、「都の回復」も書かれている様に、働きが回復する時が来る。
しかし、それに反対する人たちがいる。
それに関して、ヨエル書3章2節「わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。」
色々分裂させたり、真理をとどめたり、そういった国民、今で言うなら、あらゆる教団、教派、教理、教師、牧師、そういった人たちが裁きに遭う。
3:5おまえたちはわたしの銀と金とを奪い、わたしのすばらしい宝としている物をおまえたちの宮へ運んで行き、
3:6しかも、ユダの人々とエルサレムの人々を、ギリシャ人に売って、彼らの国から遠く離れさせたからだ。
3:7見よ。わたしは、おまえたちが彼らを売ったその所から、彼らを呼び戻して、おまえたちの報いを、おまえたちの頭上に返し、
3:8おまえたちの息子、娘たちを、ユダの人々に売り渡そう。彼らはこれを、遠くの民、シェバ人に売る、と主は仰せられる。
これらの御言葉も、喩えが使われており、理解が難しいが、
ヨエル3章5節で、「銀と金とを奪い」、つまり信仰ある人々を奪い、惑わしに入れたという事。「わたしのすばらしい宝としている物をおまえたちの宮へ運んで行き、」
バビロンの宮などに運んで行くという事。それは災いだという事。
「しかも、ユダの人々とエルサレムの人々を、ギリシヤ人に売って、彼らの国から遠く離れさせたからだ。」
ギリシャ人とは非常に象徴的な言葉だけれども、ギリシャ由来の、理性的な知性的な教えが、キリスト教会を席巻している。
それによって色々災いが入って来る。
「科学的に考えれば進化論は正しい」とか、「科学的に考えれば、奇蹟とか復活などはあり得ない」とか、わけの分からない神学が入って来ているけれども、それが、「ギリシャ人に売る」という事柄。
理性的な、知性的な方法をもって真理を妨害する。 それは災い。
それに対しての神の災いが来る。
3:12諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。
3:13かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。
一部のクリスチャンは、世の終わりの時には、回復する。
主の道を真っ直ぐにする。
それ以外のクリスチャンは、相変わらず、不法な教理、インチキな教理に留まる。
そういう人達は、いずれここに書かれている災いに入る。
聖書が預言している事だから。
12節の後半で、「わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。」
今キリスト教会で行なわれている、あらゆる偽りの教理だとか、間違った教えはこの時、報いを得るようになるので、今、正しい道に戻った方が、今、悔い改めた方が懸命。
そうでないと、ぶどうが集められて踏まれるような災いに入って行く。
3:14さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。
3:15太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
「群集また群集」・・・だから多くの群集が災いに入ったり、惑わしの教えを受け入れているクリスチャンは、どんなに数が多くても、みな、誰も彼も裁きに入り、罰に入ってしまうという事がここに書いてある。
「太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。」
今のキリスト教会では公にはすごく有名だったり、その様な教師、牧師達も光を失ったりする時が来る。 それは、反キリストが立つ時だろうと。
我々は真理を見、正しく主の御前に留まりたいと思う。
「エドムは災いだ」・・・だからエドム、現代のサルデスの事を見る。
黙示録
3:1また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
サルデス=赤いもの それは不吉な名前。
「赤いもの」に災いが来ている。 赤は、血の赤。
一杯の食事のために、長子の特権を失うというエソウのもう1つの名前がエドム・・・そしてサルデス。
なので、予表されている事が、「長子の特権を失う」という事。
特権というのは、「御国を継ぐ権利、永遠のいのち」・・・こういうものを売り払ってしまう。
これが近未来に預言されているので、プロテスタントに属している我々はよくよく注意しなければならない。 今、平均的なプロテスタントの歩みをしているなら、ほぼ確実に「赤いもの」として、神の裁き、災いに入って行く可能性がある。
だから、例外的な歩みをして行かなければならない。
3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。」これが例外的な歩み。
「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」
こういう歩みをして行くべき。
皆と同じ歩みをしていくべきではない。
例外的に白い衣を着る。 だから、明らかに白い衣は「義」
「義」を行なって、永遠のいのちを得て行く。
この原則は何も変わらない。 わけのわからない、罪を犯すような風潮に従って行くべきではない。
こういった事は見なければならない。
3:1また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
ここは問題。 名目ではない。
今は本当に惑わされたクリスチャンは多い。
しかし、「行ない」がどうか、という事。
信仰が云々とは、書いていない。
「火の池」に関しても、「行ないに応じて裁かれる」と書いてある。
なので、惑わされてはいけない。
ただし、「信仰は無くて良い」と言っているのではない。
「行ないに応じて裁かれる」というのは、聖書の明らかな原則。
はっきり言うなら、罪から解放されて、いのちの歩みをして行かないなら、名目だけになり、
いのちの書から名前を消されて行く可能性がある。
3:2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
なのでサルデスの問題であり、プロテスタントの問題は、要は「行ない」
サルデスの箇所には、一言も「信仰」とは書いていない。
「神の御前に全うされたとは見ていない。」「死にかけている」、これは、罪で死にかけているという事。その様な人達を力づけるという事。
なので我々は、プロテスタントであるなら危機に瀕している。
裁きや罰に入る、直前の所にいると思った方が正しい。
3:3だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
プロテスタントは、聞くことは聞き、受ける事は受けている。
ルターを始めとしての、「信仰義認」これは正しい。
しかし、「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」
堅く守っていないし、行なってもいない人が問題だという事。
要は、聞いたは聞いたが、何も行わない。どこまで行っても、サルデスすなわちプロテスタントの問題。
我々が、残念ながらそのような教会に行っており、プロテスタントであるという時に、右も左もそんな人ばかりという教会にいるという事を理解しなければならない。
3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
サルデスの中で御心があるのは、「衣を汚さなかった幾人の者」
だから我々は、「衣」を汚さない事。これは明らかに「義」
罪に陥らないという事。
サルデスをあらゆる形で引っ張る、あらゆる罪がある。
それに入って行って衣を汚す人は、大多数。
我々が白い衣を着て歩むなら、それは感謝な事だが、サルデスにおいては少数派かも知れない。我々自身が永遠のいのちを得なければ、他の人の事を気にしている場合ではない。
3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
「そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」
この言葉は暗示的。
裏で言われている事は、サルデスは、多くの者が、いのちの書から名前を消されるという事。いのちの書から名前を消されるという概念を正しく理解しなければならない。
「いのちの書に1回名が記されたら、2度と絶対に消されることは無い」などと書いてある箇所は無い。
いのちの書から名前を消されるという事は、結構普通の事。
だから、気を付ける。
このポイントを勘違いしている人がいる。
黙示録の14章の最後の節に、
14:20その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。
ここで、あまり出ない表現が出て来る。
「馬のくつわ」
これは、ヤコブ書に出て来る。
「馬のくつわに届くほどになり、」
「馬のくつわ」は「教師」に関しての喩え。
馬のくつわに届くという事は、教師に災いが行くという意味。
ヤコブ書
3:3馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
馬が、教会全体を現わす。 くつわは「教師」に関しての表現。
3:1私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
3:2私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
ヤコブ書の3節に書いてある事は、教師に対しての災い。
何故教師が災いに入るかと言うと、「言葉」という事に関しては、ロゴスという言葉が使われているが、「初めに言葉があった」というように、これは聖書の御言葉に関して言われている。だから、教師は、御言葉の解釈とか、教理に関しての説明で、失敗するという事。
人間は、御言葉に関して失敗する。
主によほど聞かなければ、結局間違えた事を言ってしまう。
「艱難前携挙」、「中東の7年の平和条約」とか。
間違いは多い。
そういう意味合いで、言葉の間違いに関連して、2節では明らかに教師に災いが来ると言っている。
3:3馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
くつわ=教師 馬のからだ全体=教会
3:4また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
船全体は、教会の喩えであり、小さなかじ、これが教師の喩え。
教師の言葉によって、教会全体が引っ張られてしまうという事。
ローマカトリックを見ても、ローマ法王は教師としていろんなことを教えるが、最近は同性愛を認め、「我々クリスチャンは同性愛の人々に対しての偏見を悔い改めなければならない」などと、聖書と全く違う事を言う。 すると、カトリックの人々は惑わされ、聖書の言葉を投げ捨て、「同性愛は正しい」などと言う方向になって来ている。
なので、教師を通しての災いとか、コントロールとか、影響は、非常に大きなもの。
3:5同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
舌は教師の喩え。 大きな森は、教会全体。
「小さい火があのような大きい森を燃やします。」と、書いてあるように、森を燃やす(霊的な事柄)
だから、教師が聖霊を受けているのなら良いが、逆に変な霊(トロント、ペンサコーラなど)を受けている時、そこの教会に来ている教会員が全員そういう霊を受けてしまう。
「大きい森を燃やします。」とは、まさにそういう事を言っている。
3:6舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
この節は、教師に関して、かなりあからさまに書いてある。
「舌は火であり、不義の世界」
だから、教師が不義になったり、火である悪霊を下す、と言っている。
「舌は私たちの器官の一つですが、」 教会の器官の一つであるけれども、からだ全体を汚す。
だから、教師が変な霊にやられていると、教会全体が汚される。
「人生の車輪を焼き、」 これは、人生みな、地獄で焼かれる事になる。
「ゲヘナの火によって焼かれます。」 教師がゲヘナの子になり、従う者たちも皆、地獄の子にすると書いてある。
教師の災いの為に、多くのクリスチャンは、変な教会を選んだがために、ゲヘナに入ってしまうという事が大いにある。 これは真実。
リアルであり、現実の事柄。
この事は、正しく見なければならない。
3:7どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
3:8しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
舌は制御できない。事実、牧師は制御できない。
3:9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
3:10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
なので教師を通して祝福が来る場合もある。
しかし、変な霊を受けた教師を通しては、メッセージを聞けば聞くほど変な霊を受けてしまうという事がある。
3:12私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。
しかし、どちらも、1人の教師から出て来る。
ある時は聖霊、ある時は変な霊を受けたりなど。
だから「同じ穴から」と書いてある。
教師は気を付けなければならない。
3:14しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
教師は、真理に逆らって偽りを言うような事がある。そういったメッセージをしてしまう事がある。 ローマ法王がまさにそう。聖書が禁じている同性愛を受け入れている。
プロテスタントも、「艱難時には天に上げられる」などと。
この様に真理と違う事を言っている。
3:15そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
だから教師の災いの1つは、地に属したり、肉に属し(人間的な考えに属す)、悪霊に属する様な知恵を用いて、インチキな教理を語るという事がある。
だから、気を付けて吟味しなければならない。
教会も、どこの教会でも行けばよいという事ではない。
同じ意味合いで教師も、誰でも良いというわけではない。
場合によっては、教師を通して、災いがあるという事は、明確に聖書が言っている事なので、読み取って行くべき。
黙示録は確かに封じられているが、開けば、生々しい現実であり、リアルであり、まさに我々と関係する事。
封印が開かれて、正しい事を見て行く事にポイントがある。
これを読んで悟る事に御心があるので、他人事と思わず、これらの警告に耳を傾けていきたい。
レムナントキリスト教会
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天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著