ヨハネの黙示録14章4~5 2016.6.12
14:4彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
この章に出て来る、144000人という人々に関して見て行く。
144000人を通してわかる事は、2種類あるという事。
明らかにイスラエルの末裔、これは黙示録7章に出て来る人々。
そして、異邦人による144000人。
144000人というのは、どういう人達なのか。
明らかに、殉教者。殉教と復活。
14章4節に「神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。」
初穂は、殉教と復活をする人達だと理解出来る。
もう1つは、キリストの生涯に似ているという事。
キリストは、3年半の公生涯で、警告し、苦難に遭って、その後十字架につけられて亡くなられ、復活された。
144000人の人々も、11章に出て来る、2人の預言者は3年半の警告をし、そして殉教し、復活する。 こういうポイントは、是非見て行く。
キリストの生涯をなぞるかのように、旧約時代の最後の時に、イエス・キリストが来られ、預言された男の子として来られた。そして、3年半の公生涯の中で、神の民の為に警告をし、最後には、神の民の背教のゆえに苦難を受け、十字架にて死なれ、復活された。
144000人の人々も、ある意味では、黙示録11章の2人の預言者のように歩み、3年半の警告を行なう。 キリストの生涯をなぞらえるように。 144000人の人々は歩みをすることと思われる。
復活に与る、幸いな人々のポイントは、「彼らは女によって汚されたことのない人々である。」
と書いてある。
女は明らかに、教会の喩え。 女=背教の教会
14:8また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」
バビロンは、淫婦=女
言わんとしている事は、パウロが明確に言っている。
「結婚の奥義は偉大である。これは、キリストと教会を指す」
結婚とは、言うまでも無く、男と女が結婚するという事。
男はキリストの喩えで、女は教会の喩え。
「女によって汚された事が無い」とは、背教の教会によって汚された事が無いということ。
ここで1つメッセージがあるとするなら、終末の時には、背教の教会にタッチしてはいけない、
関わってはいけないという事。
なので、世の終わりには、教会を選ばなければならない。
教会はどこでも良いというわけではない。
そういう意味では、今で言えば、マリア礼拝のカトリックとエキュメニカルする教会とか、同性愛を認めてしまう教会とか、「聖書にも間違いはある」とか言ってる教会とか。
本来、教会は祝福になる筈だが、明らかにそれは、聖書の表の面であって、裏の面。
聖書には、表にも裏にも文字が書いてある巻き物だから、裏の面は、御国の奥義は明らかに、クリスチャンが教会によって汚されてしまう。
汚されていない人々こそ、終末の日に、キリストのような働きを担う144000人の様な人々だという事が、明らかにメッセージとしてある。
そういった人々がね第一の復活に与るようになって行く。
だから、クリスチャンとして歩むべき方向に入って行く人達の、大きなポイントは、書いてあるように、「女によって汚されない」 すなわち教会を選ばなくてはならない。
やはり、女によって汚される、教会へ行った事が仇になって、変な教理にすっかり感化されてしまう。 この事は、現実にある。
教会によって汚される事から逃れていって、初めて入るべき所に入り、尚且つ、144000人の様に、キリストの御心の中心を行ない、苦難は受けるかも知れないが、第一の復活に与ったり、
そういった働きに入るためには、「女によって汚された事が無い」というように、教会によるあらゆる惑わし、偽り、おかしな霊、こういったものから免れる事がポイント。
これは明らかに御国の奥義。
明らかに黙示録は、この事を語っている。
世の終わりの時の注意ポイントは、惑わされ、違った教え、違った霊を掴んだ教会で、汚されないという事。 クリスチャンとしての歩みの大きなポイント。
「彼らは童貞なのである。」という事。
「童貞」という言葉を英語で「バージン」と書いてある。
これは何を言っているかというと、「女によって汚された」事のないのと、同じ意味合い。
教会の偽り、誤り、こういった事から、汚れに入っていないという意味合いとして、「童貞」と書いてある。
第二コリント
11:2というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
11:3しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。
11:4というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。
ここでまさに、「清純な処女」 男であろうと女であろうと1人の人の花嫁のクリスチャンとして、我々は、キリストの花嫁になって行く。
愚かであろうと賢くあろうと。
おとめとしてキリストと結婚して行くというのが正しい。
しかし、賢いおとめ、愚かなおとめの結論は、5人は賢く、5人は愚かだった。
愚かなおとめには、結婚が成立していない。
なので、このあたりをよく気を付けないと、結婚は成立しない。
「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」
エバは悪い例。蛇に惑わされ、貞潔を失っている。
悪巧みとは何か。 具体的に言うと、「別のイエスを信じてしまう」事。
花嫁である筈なのに、惑わされて貞潔を失ってしまう。別のイエスを受け入れたり、異なった霊を受けたり(聖霊以外の霊)、また、「異なった福音=別の福音」とも書いてある。
これがまさに、貞潔を失う事であり、童貞ではなくなってしまうという事。
要注意のポイントは、貞潔を失ってしまう事。
今まさに、「女によって汚された事が無い」というように、教会の中に別のイエスが入って来ている。 神の愛ばかり語り、裁きを全く語らないなど。同性愛を受け入れてしまうイエス(別のイエス)とか、別の福音(福音は1つ)など。 福音の相互理解も。
また、御言葉を行なわなくても良いだとか、地獄は無いだとか、そういう福音。
福音らしい、別の福音。また、別の霊。(トロントやペンサコーラは別の霊)
こういうものを受け入れる人は、貞潔を失う人。
すると、結婚が成立しなくなる可能性がある。
気をつけていきたい。
だから、「彼らは童貞である」と言うように、こういったような教え、霊を持っている教会と関係を持たない。
関係を持たないという事が、我々が、その時に、144000人の人々の様に、神に喜ばれ、第一の復活を経験し、入るべき所に入って行くという、大きなポイントであるという事は覚えておく。
今は残念ながら、女に汚された事が無いという事が、難しい時代。
教会のあらゆる惑わしだとか、間違った教えから、解放されるという事が、難しい時代。
なので我々は、是非、御言葉に書いてあるように、こういったポイントは見て行きたい。
黙示録14章4節で、「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。」
我々が艱難時代にあろうとも、まさに、主の喜ばれる歩みをするという事に、大きなポイントになる。
「小羊が行く所には、どこにでもついて行く。」
小羊は、理解に間違いが無ければ、「殉教」の意味合いがある。
黙示録
5:12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
小羊は、旧約聖書を読んで分かるように、ほふられるとは、命を失うという事。
しかしそれは、肉体のいのちを失うけれども、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方という事。
小羊は、基本的には、イエス・キリストの事を指している。
イエス・キリストは、神の小羊として、自分のいのちをほふられるように捧げたので、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい。
黙示録の中でさりげなく出ている、「小羊」は、ほふられた、と書いてあるので、「殉教」を指すキーワードというように考えられる。
14章4節で、「小羊が行く所には、どこにでもついて行く。」
小羊は、まさに、ほふられるという事にポイントがあるので、殉教をものともしない。
なので命をかけて従って行くという事を暗示的に語っていると思える。
怖気づいたりせずに、従って行くというニュアンスがあると思う。
この時代において、そして世の終わりの時において、大事なポイントというのは、教会の常識に従うのではなく、ポイントは、主の言われた所にずっとついて行くという所にある。
今は、小羊である主の言われる事と、背教して行く教会の言う事が大分違ってきている時代なので、主の言われた所についていく事にポイントがある。
レムナントでは、分からないまでも、やはり主の声は、「警告」というように示されているので、何年も前から、ニュースレターを出すようにしている。
反応は様々。
我々は、小羊の行く所には、どこまでもついて行くという気持ちを持って、行なっているつもりではあるが、世の終わりであるが故に、増々我々においては、小羊の行く所に、ずっとついて行くということに、大きなポイントがある。
4節の後半で、「彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。」
ここで、「初穂」というキーワードを見て行きたい。
第一コリント
15:20しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
15:23しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
15:24それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
「初穂」は、麦でも稲でも、最初に種から芽が出て、実がなる、それが初穂。
初穂は基本的には、キリストがそうだが、キリストの再臨の時、主に属している者。
この2者がそう。 しかし、その間の人は入らない。
立派な人も、パウロもそういうわけではなく、初穂にはならない。
キリストの再臨の時に属してるわけではないから。
キリストの再臨の時に、主に属しているという事は、非常に重大な意味合いがある。
そして、初穂であるというのは、光栄な事柄。
黙示録
20:4また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
20:5そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
20:6この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
この、第一の復活が、まさに初穂だと理解出来る。
これは、最初に復活する人々。
2番目も、復活はある。パウロもヨハネも。
しかし最初に復活して来る人々は、やはり特別な恵みがある。
どんなクリスチャンも、やはり、キリストによって贖われた人々は、みんな復活する。
しかし、1番目の人々に意味がある。
だから「初穂」という言葉が出て来る。 第一の復活。
初穂は、最初の穂。
キリストも、最初の復活、しかし、この黙示録の時代、甦った人々は、第一の復活。
「一」という言葉が使われている。
だから、キリストの復活と同じような意味合いがあると言えるし、非常に光栄。
我々がこれから迎える、黙示録の時代において、第一の復活に与るか否やでは、大事な事柄。
クリスチャンは、どんな人も復活する。
しかし順番としては、最後の人が最初になる。
ぶどう園の喩えで、朝から働いた人と、夕方から働いた者がいる。
ところが主人は、最後に働いた者から報酬を与えている。
その時他の人達は怒って、「何で我々と、最後に働いた者と、賃金が同じなんだ」と言った。
しかし、主人はそうした。
この事と符合する。
我々はキリスト教の最後の世代(黙示録の時代)かも知れないし、アブラハムから比べても最後。
しかし、最初の報酬を得るかも知れない。
そういう意味では非常に、第一の復活は大事なポイントがあると思う。
黙示録20章の4節で、「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」
と書いてあるように、ここの箇所に書いてあるのは、「首をはねられた」と書いてあるので、
明らかに殉教者。
1つは殉教者。 だがそれだけではない。
獣の像を拝まない人もいる。この人たちは第一の復活に与るが、再臨の時、主に属している者と書いてあるが、具体的な説明が、20章4節に書いてあるように、「首をはねられた」、これは明らかに殉教者。
全て殉教者というわけではなく、生きて、最後まで獣の像を拝まず、獣の印も受けなかった人々。この人たちが、キリストの再臨の時、主に属している。
これを通してうかがえる事は、やはり、世の終わりの時の艱難は、結構大変な事柄なので、褒美も、復活も、1番に受ける。 「後の者が先になる」
明らかに復活に関しては、後の者が先になる。 初穂。 非常に幸いな者。
「彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。」
人々とは、人類の中から贖われたという事。
人々の多くは、キリストに逆らってしまうが、例外的に贖われ、買い取られた人々が、主に忠実に歩む。
14:5彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。
「偽り」という言葉。 原語では、
マタイ
26:4イエスをだまして捕え、殺そうと相談した。
この「だます」という言葉が、偽りという言葉。
だから、御言葉を騙したり、神を騙したり、イエス様を騙したり、それらがまさに「偽り」
具体的には、教会で言われている偽りの教理。
「艱難前に携挙される」というのは、偽りの最たるものだと思うが、あと、「地獄は無い」、「クリスチャンと名がつけば、決して滅びることは無い」など、こういった偽りが無いという事が、この144000人の人々の特徴なので、先程の「女によって汚された事が無い」という事に通じるが、あらゆる教理、偽りの教理など、こういったものから出て行く、離れるというのが大きなポイント。
「傷が無い」という言葉。
エペソ書
1:4すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
「神の前に傷が無い」という事。
あらゆる欠点、怒り、憎しみ、罪、あらゆる霊の惑わし、あらゆる悪い事から解放されていく事が、「傷の無い」という事になる。
結論としては、明らかに、世の終わりの時に、主によって、ある種の人々は、殉教するが、3年半の後、第一の復活に与る。
艱難時代の後、キリストが再臨した時に、最後まで獣の像を拝まず、獣の印も受けなかった人々。 この人々は、生きて、主を迎える。
この人たちも第一の復活に与る。
非常に大事なポイント。
最後の者が先になるという、逆転が出て来る。
その時が近付いているので、我々としては、獣の像を拝まない方向、「女によって汚された事の無い」と書いてあるので、聖書にて、色々と総合するとはっきりする事は、明らかに「女」つまり背教の教会が、ネックとなり問題となるが、そこのあらゆる偽りの教理、偽りの霊から、解放される、それはまた、別の言葉で言えば「仮庵」
家に入らず、屋上に小屋を建てて、そこに住まうという事は家(背教の教会)に入らないこと。
聖書は、「背教」という事のポイントが分かるなら、あらゆる言葉に関してつじつまが合う。右から見ても、左から見ても、前から見ても後ろから見ても、明らかに教会が背教して行って、そこに入って行って巻き込まれる人々は、永遠のいのちを失うというのが明らかな結論なので、こう言ったところは見て行きたい。
レムナントキリスト教会
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