ヨハネの黙示録15章1~3          2016.7.17

 

 

 

15:1また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。

 

 

 

来たらんとしている事柄に目を向けていきたい。

 

既に時の徴は起きているし、時代は刻々と変わっている。

 

ロシアでは、キリスト教の伝道が、全面的に禁止になり、教会以外では、伝道が出来なくなっている。 教会以外で伝道したら、罰金や、逮捕がある。

 

そして、全てのロシアの国民は、自分の宗教や活動について、当局に報告を出さねばならなくなっている。

 

出さない者は罰せられる。

 

そうやって、キリスト教の伝道に関しては、法律で禁止されるようになった。

 

その理由は、世界で起きているイスラムテロ。

 

何故、イスラムテロのせいでキリスト教の伝道が出来なくなっているかは分からない。

 

屁理屈としか言いようがない。

 

キリスト教に「迫害をもたらしたい」というのが、そういったロシアに限らず、アメリカもそう。  世界を支配している者達の思惑であろうが、本音が出てきたという感じがする。

 

そういう意味でも「時の徴」を見て行かなければならない。

 

黙示録の時代が、遠い先の事だと思ってはいけない。

 

明らかに、キリストのゆえに、艱難や迫害が来ると言うように書いてあるが、大事な事は、今の我々は、今がどの様な時なのか、黙示録の時代とは無縁なのかと思うかもしれないが、あまり一方に、明らかにロシアにおけるキリスト教の伝道が全面的に禁止され、教会以外の所でキリストを語るなら、逮捕される。 14歳以上の人は全て。

 

突然のキリスト教伝道の禁止。

 

しかし、「いずれ来る」事が聖書で預言されており、それが今来た、という事。

 

極端な事とか、有もしない、起きもしない事を言うつもりはないが、現実に既に起きている事であり、我々がもしロシアにいれば、トラクト(月刊バイブル)は配れない。

 

この様なトレンド。 同性愛とか、イスラムテロに関連して、他の国も追随して行く。

 

イスラムテロを口実にして、キリスト教の伝道禁止というのは、予感が間違えでなければ、遅かれ早かれ、全世界の国々も追随して行くと思われる。

 

語れば逮捕される。 まさに艱難時代。

 

決して遠い先ではない。だから、我々は黙示録を今この時に学んでいるが、遠い未来の事ではないと感じる。  タイムリーになって来ている。

 

黙示録がリアルタイムで成就して来ている。

 

どちらにしても起きて来る事なので、用意をして行きたい。

 

151節で、「神の激しい怒りはここに窮まるのである。」とある。

 

黙示録を読んでみる時に、度々出て来る言葉は、「神の怒り」

 

黙示録の時は、神が怒る時。この事は明らか。

 

ただ問題は、何に対して神は怒っておられるのか、誰に対して神は怒っておられるのかという事。  旧約の民はユダヤ人。彼らは長年の間、神の愛を受けながら、御言葉に逆らい、最後には、送られてきた、神のひとり子であるイエス・キリストを殺し、神の怒りは最後にさく裂して、A.D70年、エルサレムが崩壊し、宮も崩壊し、多くの人が殺された。

 

今は、新約の終わりの時。  今起きている事は、旧約聖書の再現であって、テサロニケの手紙に書いてあるように、教会が背教し、最後には、キリストの霊であられる聖霊を追い出し、キリストの御言葉に逆らったような、背教的な歩みをし、それゆえに神の怒りが教会にさく裂するというのが、妥当であり、実際に、聖書に書いてある事。

 

なので残念だが、教会において、黙示録、終末の事が語られず、勘違いしている。

 

黙示録は、新約聖書の一番最後に書かれている。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、ロマ書・・・これらはすべて、教会のクリスチャンに向けて書かれている。そして、クリスチャンの歴史の最後に、黙示録がある。

 

教会時代の終わり、終末の日に関して黙示録が書かれていると理解するのが正しい。

 

神の怒りは、教会の背教に対して向けられる。

 

嬉しい事ではないが、全く妥当な事柄。

 

「神の怒り」について見て行きたい。

 

 

 

詩編

 

78:56それなのに、彼らはいと高き神を試み、神に逆らって、神のさとしを守らず、

 

78:57もとに戻って、彼らの先祖たちのように裏切りをし、たるんだ弓の矢のようにそれてしまった。

 

78:58また彼らは、高き所を築いて神の怒りを引き起こし、刻んだ像で、神のねたみを引き起こした。

 

78:59神は、聞いて激しく怒り、イスラエルを全く捨てられた。

 

 

 

「神の怒りを引き起こし、」

 

黙示録に書いてあるような神の怒りが、ここで引き起こされている。

 

何に対して神が怒るのか、

 

「いと高き神を試み、神に逆らって、神のさとしを守らず、」と書いてあるように、旧約のイスラエル、ユダの歩み。

 

神のあかし、御言葉を守ら無いので、神の怒りが臨んだ。

 

「もとに戻って、彼らの先祖たちのように裏切りをし、たるんだ弓の矢のようにそれてしまった。」「高き所を築いて神の怒りを引き起こし、刻んだ像で、神のねたみを引き起こした。」

 

「神は、聞いて激しく怒り、イスラエルを全く捨てられた。」

 

神が怒って捨てたのは、旧約の民である、旧約のイスラエル。

 

そして現代は、新約の時代であり、新約のイスラエルである教会時代の終わり。

 

だから、旧約の時代のイスラエルが、全く捨てられたように、神の怒りの対象は、新約の教会であり、クリスチャン。

 

それを、耳触りの好いメッセージをしないと信者が来ないからと、耳触りの好い事しか言わなくても、真実は聖書に書いてある通り。

 

黙示録において捨てられるのも、新約のイスラエルである、教会であり、クリスチャン。

 

自明の理だが、色々と屁理屈が、終末の色々なインチキ教理があり、すっかりそれを皆が信じ込んでいるので、真理が見えなくなってきているが、聖書の語る事に間違いは無い。

 

なのでここでは、「神のさとしを守らず」と旧約の時がそうであったように、今の時代の新約のイスラエルもそう。

 

神の御言葉を守らず、同性愛は神の怒りを引き起こすと書いてあるのに、すっかり蔓延している。 アメリカでは半数以上のクリスチャンが、それを受け入れている。

 

これは神の怒りを引き起こす。

 

「たるんだ弓の矢のようにそれてしまった。」と、今の教会もクリスチャンも、すっかりそれている。 カトリックではすでに「地獄は無い」事になっている。

 

また、「マリアはキリストと共同の贖い主」など。

 

「高き所を築いて神の怒りを引き起こし、刻んだ像で、神のねたみを引き起こした。」

 

だから、神以外の像を造る・・・旧約の民は実際に、石や木で偶像を造って、神の怒りを引き起こしたが、今の時代のクリスチャンは、石や木で偶像を造ったりはしないが、「石」や「木」はクリスチャンの喩え。  ぶどうの木も、石も、クリスチャンの喩え。

 

要は器。  教会の器を偶像視してしまう。  神の御言葉より優先してしまう。

 

ローマ法王を御言葉より優先して、「ローマ法王が言うのだから、マリアに祈れば救われる」だとか思っている。それは間違い。

 

これらはみな、神の怒りを引き起こす。

 

同じ様に新約も神の怒りを引き起こし、そして、その怒りが頂点に達しているのが、黙示録の時。

 

これは、基本の基本であり、基礎の基礎。

 

この事が分からずに黙示録を読むのはだいそれていて、さっぱり意味が分からない。

 

今の殆どのキリスト教会で黙示録が語られないのは無理のない事。

 

「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。」と書いてある。

 

災害。「災害」と訳されている言葉は、「鞭打ち」という言葉で、出てくるところがある。

 

 

 

ルカ

 

12:48しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。

 

 

 

ここに書いてある「むち打ち」という言葉は、黙示録の「災害」という言葉と、同じ原語が使われている。

 

要は、背教のゆえに、7つの災害、むち打ちの様な厳しい待遇とかが、背教の教会、背教のクリスチャンに対して行なわれて来る。

 

そういう意味で今は、教会は、どんどん災いが来ている。祝福ではない。

 

先程のロシアの事も、まず祝福ではあり得ない。

 

増々教会に伝道の門が開かれているのではない。

 

パウロの時は、伝道の為の門が大きく開かれていた。

 

聖霊が下っていた。

 

しかし、今のロシアでは、伝道の門が閉ざされてしまった。

 

ロシアで起きた事は、これから他の国々に波及して行く感じがする。

 

これは、祝福ではなく、むち打ち。

 

次から次へとダメになって来る。    むち打ちが来ている。

 

色んな意味で、もっと災いが来ると思われる。  この様な災いを神が許しておられる。

 

それは神の怒りである事を知らねばならない。

 

 

 

黙示録

 

15:2私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。

 

 

 

黙示録には2種類のクリスチャンが出て来る。

 

1つは、地に住み、獣を拝み、獣の印をつけられ、永遠の滅びに入るクリスチャン。

 

もう1つは、獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝つクリスチャン。

 

黙示録の中にこういう2種類の人が出て来るという事は、これから来る艱難の時代においてもしかり。

 

ロシアに起きて来る事の為に祈るべきだと思うが、この国においてキリスト教が禁止されても、

 

やはり2種類の人が出て来る。

 

1つは、諦めてしまい、どんな像でも拝むようになる人。

 

もう1つは、獣の刻印に打ち勝って、キリストの教えに従い、非合法であろうと地下教会であろうと、伝道を続けて行く人。

 

ロシアにおいては、家庭での集会も「ダメだ」とか書いてある。

 

個人の家での集会活動も許可されない。

 

悪魔が先を見越している感じだが、そんなものを恐れてしまってはいけない。

 

ただ我々は、ここで書いてあるように、「獣の像(反キリスト)、獣の数字」に勝利する。

 

それを目指して行くという事。

 

ハードルは3つくらいある。

 

望むと望まぬと、これから、永遠のいのちをゲットするためには、霊的に体力を付けなければならない。  これからそういう時が来る。

 

ロシアにはすでに来ている。

 

法律で、伝道が禁止されようとも、我々は負けるわけにはいかない。

 

たとえ非合法となっても伝道は続ける。キリストの教えが、絶対優先。

 

我々は、そういう方向に行くという事を覚えておくべき。

 

「獣」とは、具体的にはアメリカだが、こちらの理解では、アメリカが黒幕であると考える。

 

キリスト教を迫害する様なトレンドがこれから来ると思うが、それに妥協し、同性愛を容認してしまうなら、それは、獣に負けている人々。

 

アメリカでも半数以上のクリスチャンが、同性愛を聖書的だと思っているとの事。

 

やはり、負けており、永遠のいのちを得られない。

 

日本にも「同性愛はトレンドだ」とか言っているクリスチャンや牧師がいる。

 

これらは既に負けている。

 

また、アメリカ由来の変なリバイバルを受け入れている人も、獣に負けているし、またインチキな教理、艱難前携挙説だとか、「クリスチャンと名がつけば決して滅びることは無い。」などの教理を受け入れている人々も負けている。

 

そういう人達は、永遠のいのちを失う方向に来ている。

 

レムナントは、これらの事柄に勝利をしていこうと思っている。

 

「艱難前」は、明らかにアメリカ由来の惑わし教理なので、それと戦っているし、また、トロントを始めとしたインチキ、悪霊的なリバイバルに反対するビデオも出す事が出来たけれども、

 

常に戦っている。     これが正しいトレンド。

 

獣の像に打ち勝つというのは、反キリストを拝まない事。

 

獣の数字は666

 

この数字は、旧約聖書ではソロモンの箇所に出て来る。

 

ソロモンは、こちらの理解では聖霊の喩え。

 

聖霊を象徴する人物。

 

聖霊ではなく、悪霊が666

 

だから、獣の数字、獣の印をつけられるというのは、こちらの理解が間違いでなければ、バーコードやマイクロチップの問題ではなく、どこまでも信仰的、霊的な事柄であると思っている。

 

何故なら他の箇所では、「聖霊の印」と書いてあるから。

 

黙示録7章で聖霊の「印を押された」とも書いてある。

 

聖霊の印は、霊的なもの。肉眼では見えない。

 

同じように悪霊の印も、肉眼では見えないのではないか。

 

変な、悪霊のリバイバルで按手を受けても、その印を肉眼で確認することは出来ない。

 

しかし、明らかに霊的な影響を受けてしまう。

 

クリスチャンの形はあっても霊的にはおかしくなる。

 

なので、これに打ち勝たねばならない。惑わされてはいけないという事。

 

誰に対しても、こういう試練が来る。

 

いくら獣に恫喝されても正しい信仰をやめない事が、獣に対しての勝利。

 

反キリストを拝まず、獣の霊を受けずに、聖霊に従って行く。そのような勝利を得る事が、永遠のいのちを受ける事に通じて行く。

 

その事を求めて行く。

 

 

 

15:3彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。

 

 

 

突然の様に「モーセの歌」が出て来る。

 

これにも意味がある。

 

 

 

出エジプト記

 

14:27モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。

 

14:28水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。

 

14:29イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。

 

14:30こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。

 

14:31イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

 

15:1そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。

 

 

 

151節に出て来る「歌」が、モーセの歌。

 

モーセの歌は、出エジプトの時に歌われた。

 

モーセの民が渡ったのは、紅海。

 

これには喩えが使われている。

 

()は血の色だったり、霊的な事を現わすので、

 

エジプトの軍勢がみな紅海に投げ込まれたというのは、悪霊の惑わしの中に投げ込まれてしまったという意味合い。

 

1427節で「モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。」

 

世の終わりの時に、エジプト人は、再現すると思う。

 

黙示録には、「ソドムやエジプトと呼ばれる都」と書いてある。

 

都がある限り、エジプト人も出て来る。

 

エジプトは、こちらの理解では、「この世についた民」であると思う。

 

なので、この世的なクリスチャン、この世の常識とか、この世の考えを、キリスト教会に持ち込むような人々。聖書的にはエジプト人と呼ばれ、最終的には海に投げ込まれたように、惑わしの霊の中に投げ込まれ、結局は滅びの中に入って行くだろうと思われる。

 

この世の考えを受け入れてしまったクリスチャンがいる。

 

「同性愛は正しい」「性的少数者の事を考慮してあげなければならない」「他の宗教とも大いに対話して、互いに仲良くしなければならない」

 

これらはこの世的には受け入れられるが、聖書的には異教の教えであり、こういった人々はエジプトの民であり、こういった人達は、結局は、悪霊の惑わしの中に入って行く。

 

彼らは御言葉を行なおうとしないから。

 

しかし、イスラエル人に対しては、違う事が書いてある。

 

 

 

14:29イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。

 

 

 

だから、大いに、この世についたクリスチャンは、これから次々と惑わしに入って行く。

 

最終的には、反キリストを拝んでしまう。

 

しかし、我々が、イスラエル人として忠心な民として御言葉をどこまでも行なって歩むなら、

 

紅海の水、人を滅ぼす水は、我々に影響を及ぼさない。

 

逆に乾いた地を歩んでいく事が出来る。

 

変な集会ばかり行っている人は、霊的におかしくなったり、惑わしを受けたりする。

 

この事は覚えておく。

 

そして、

 

 

 

15:1そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。

 

15:2主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。

 

15:3主はいくさびと。その御名は主。

 

15:4主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。えり抜きの補佐官たちも葦の海におぼれて死んだ。

 

 

 

モーセの歌がここに出て来るという事は、終わりの時に再現するから。

 

だから、エジプト化したクリスチャンは紅海(惑わしの霊)に投げ入れられる。

 

そして、何が善か、何が悪か、分からなくなって来る。

 

しかしイスラエル人は、乾いた地を渡り、そういった惑わしの霊から守られる。

 

「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」

 

ここで、クリスチャンが別れて来る。

 

本当の意味で、主を崇め、主の御言葉を忠実に歩んでいる人は、このような惑わしの海、紅海に投げ込まれる事はない。

 

対し、エジプトの民は、この世についた論理で歩むクリスチャンは、みな惑わしに入る。

 

牧師であろうとクリスチャンであろうと。

 

これは、神が判断する事。

 

海の中に投げ込まれる、すなわち惑わしの霊の中に入り込んでいくという事は、「溺れて死んだ」つまり命を失う事になる。

 

だから、これからこの世についたクリスチャンに色々惑わしの霊が来るが、その行き着く場所は、永遠の死、永遠の滅び。

 

黙示録で、「ソドム、エジプトと呼ばれる都」と書いてある通り、明らかに、エジプトは世の終わりに再現する。

 

この世についたクリスチャンというのは、惑わしの霊の中で、永遠のいのちを失って行く可能性が大いにある。

 

 

 

15:5大いなる水は彼らを包んでしまい、彼らは石のように深みに下った。

 

15:6主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。

 

 

 

「深みに下った」すなわち惑わしの霊に入って行ってしまう。

 

 

 

15:7あなたは大いなる威力によって、あなたに立ち向かう者どもを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それは彼らを刈り株のように焼き尽くす。

 

 

 

多くの惑わされたクリスチャンは、「自分たちは正しい事をやっている」と思っている。

 

同性愛の人々を容認したり。 しかしこれは、神に立ち向かい、御言葉に立ち向かっているので、結局、神の怒りを買い、このような結末になる。

 

 

 

15:8あなたの鼻の息で、水は積み上げられ、流れはせきのように、まっすぐ立ち、大いなる水は海の真中で固まった。

 

15:9敵は言った。『私は追って、追いついて、略奪した物を分けよう。おのれの望みを彼らによってかなえよう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』

 

 

 

イスラエルの民を追って来たファラオとか、その軍勢がこう言っている。

 

これも、世の終わりに再現される。

 

正しいクリスチャンたちは、エジプト化した、この世的なクリスチャンから追いつめられたり、追いかけられたり、色々非難されたりと、そのような時が来る。

 

しかし、結局は両者を別ける。

 

 

 

15:10あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。

 

15:11主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。

 

 

 

と、あるように、逆転が行なわれる。  それでなくとも、正しいクリスチャンへの圧迫というものが来る。

 

だから、「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。」と別の箇所にあるように、教会の中でクリスチャンがクリスチャンを訴えたり、「この人は犯罪者だ」とか、そういう日が来る。

 

具体的に言うと、この世についたクリスチャンによって、正しいクリスチャンが訴えられる。しかし結論は、エジプト化した人達は、結局水の中に沈んでしまう。

 

惑わしの霊の中で滅んでいく。     この事は見ておく。

 

 

 

15:12あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らをのみこんだ。

 

15:13あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

 

 

 

やはり、2種類の民がいる。

 

危機一髪ではあるが、入るべき所に入って行く。

 

レムナントはそれを選ぼうとしており、その道を歩もうとしている。

 

 

 

15:14国々の民は聞いて震え、もだえがペリシテの住民を捕えた。

 

15:15そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者らは、震え上がり、カナンの住民は、みな震えおののく。

 

 

 

エドムなど、この世についた民。  こういった人達はおじ惑い、恐れおののいてしまう。

 

だから、この世についた歩みにはポイントが無い。

 

増々、世の終わりの時代だからこそ、主の歩みの中に入って行く人が、守られる。

 

 

 

15:16恐れとおののきが彼らを襲い、あなたの偉大な御腕により、彼らが石のように黙りますように。主よ。あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。15:17あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。主よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。

 

15:18主はとこしえまでも統べ治められる。」

 

15:19パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中にはいったとき、主は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかしイスラエル人は海の真中のかわいた土の上を歩いて行った。

 

 

 

エジプトの民、すなわちこの世についたクリスチャンは、霊の惑わしの中に入る。

 

でもイスラエル、正しいクリスチャンには、悪霊の惑わしが通用しない。

 

世の終わりには、悪霊の惑わしが来るというのが、聖書に書いてある。

 

「ノアの時、ロトの時」と書いてある。

 

ノアの時は、大洪水であり、世の終わりに来る、悪霊の大洪水が来ることの喩え。

 

ロトの時は、ソドム、ゴモラが火で滅ぼされた。

 

これも、世の終わりに、悪霊の火で滅ぼされる事の喩え。

 

ノアの時に、ノアの家族たちは、箱舟で守られたように、やはり少数であっても、守られる人がいる。

 

我々が目指しているのは、その惑わしの中でも守られるという事。

 

なので、我々は両面見なければならない。

 

多くのクリスチャンが惑わしに入ってしまう。

 

しかし、我々が正しく歩んで行くなら、惑わしの霊の影響は来ない。