ヨハネの黙示録17章1節~2節          2016.10.16

 

 

 

17:1また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。

 

 

 

七つの鉢を持つと書いてある。   災いに満ちている。

 

黙示録の時代というのは、明らかに神が、災いや罰を下す時。

 

ここは理解しなければならない。

 

日本はかつて祝福された国であったが、幕府によってキリスト教が迫害され、多くの罪のない人たちの血を流した。

 

そのため、災いを受ける国になってしまった。

 

第二次大戦では、日本はアメリカに散々な目に遭わされた挙句、どこの国も受けたことの無い原爆を2つも投下されたりした。

 

神の裁きの時と言うのは、歴史的に大いに考えられる。

 

「七つの鉢を持つ七人の御使い」と書いてあるが、「鉢」は災いに満ちている。

 

これは「大淫婦の裁き」と書いてあるように、黙示録は明らかに、背教の教会への裁きの時。

 

基本の基本は残念ではあるが、黙示録の基本は、背教の教会という事。基礎的な事。

 

それを理解しないと、殆ど基本が出来ていないので、難しい事を言っても意味が無い。

 

ここは、災いが下る箇所。

 

七つの鉢というのは、旧約聖書に鉢が出る箇所があるが、鉢の中に油をまいた穀物を捧げている時に用いられた鉢。

 

穀物はパン。すなわちメッセージに関しての喩え。

 

その鉢がなぜ災いに用いられたかと言うと、神は、今の背教の教会のメッセージ、説教がかなり聖書からずれて、真理からかけ離れたメッセージに対して怒りを持っておられるという事。

 

聖書は神の知恵によって書かれたものなので、何も考えずに一読しても何も解らない。

 

神の隠れた、「鉢」という物に関しての隠れたメッセージは、今の背教の教会でのメッセージ、

 

語られている教理に怒りを持っておられる。さばきを下そうとされている。

 

基本的な事柄は理解しなければならない。

 

「また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」とある。

 

「大淫婦」は、当然女性。

 

女性が使われているのは、パウロははっきり言った。

 

結婚に関して、「この奥義は偉大だ」

 

これは、御国の奥義を解く鍵。  結婚に関して、あらゆる聖書の奥義、秘められた教えは、結婚に関する事が多い。

 

結婚とは、人間的に言えば、良い伴侶を見つける事だが、聖書的に言うなら、パウロが言うように、キリストと教会を指す。

 

「大淫婦」といった時、聖書的に理解するなら、教会に関する喩えだが、教会にも色んな教会がある。  キリストに対して忠実ではない教会。そういう教会が起きて来るという事が、黙示録171節の言っている事。

 

なので、理解しなければならない事は、世界中の教会に影響するという事。

 

全般的に知らなければならない事は、テサロニケの手紙に書いてあるように、「まず背教が起きる」と書いてある。教会がキリストの教えに背いて行くというのが、明らかに終末の時代に必ず起きて来る、大きな変化。

 

既にそれを我々の目が見る事が出来る事なら、アメリカから起きつつある。

 

同性愛を受け入れたり、「キリスト教もイスラム教も1つだ」と言った有名なリックウォレン、

 

ビリーグラハムもそう。  アメリカのオピニオンリーダーは、ビリーグラハムか、フランクリングラハムか、リックウォレンといった感じだが、みんな裏のある人たちであり、そういう人達がリードしている。

 

これは、大淫婦だけではなくて、どの教会もどんどん背教化して行くという方向性は理解しなければならない。  他人事ではない。

 

我々が普通に教会生活をして行くと、大体背教の方向に来てしまうという、1つの流れを見て行かなければならない。

 

淫婦バビロンとは、結論だけ言うと、アメリカのキリスト教会だと理解している。

 

アメリカは、獣の国だと思うし、獣の国の上に乗っているアメリカのキリスト教会こそ、淫婦バビロンだと理解している。

 

何故ならバビロンは女性形であり、淫婦であり、女性は教会を喩えている。

 

黙示録の他の箇所に出て来るように、

 

「女が獣の上に」と出て来るが、獣の国はアメリカであり、アメリカの教会こそ大淫婦バビロンであると理解しているが、アメリカのキリスト教会はアメリカに影響される。

 

獣とバビロン。 この両者は似通っているが別の存在。

 

そして、バビロンには「大」という言葉がついている。 大バビロン」

 

「大」の意味合いとしては、影響が大きいという事。

 

アメリカは大国、だから他の国に影響を及ぼす。

 

アメリカのキリスト教会は、世界のキリスト教会に対し、非常に大きな影響を持っている。

 

アメリカのする事も他国に影響を及ぼす。

 

同じ意味合いで、アメリカのキリスト教会は、世界のキリスト教会の中では、非常に大きな影響を持っている。

 

牧師がフィリピンのキリスト教書店にいった時、「よく売れる」コーナーをみたら、やはり、アメリカの本がいろいろ置いてあった。ピーターワグナーなど。

 

フィリピンと言わず、日本と言わず、世界中の国に、アメリカのキリスト教会が多くの影響を

 

及ぼしている。

 

大淫婦の「大」は、大きく影響を与えて行くという、そのように理解している。

 

淫婦なので、アメリカのキリスト教会の影響を受ければ受けるほど、背教して行く。

 

遭ってはならない事だが、現実にその様な時代が来る事を、黙示録は預言しているので、我々の思いとか、好き嫌いとかが優先ではなく、たとえそれが苦い言葉であっても我々は受け止めて行かなければならない。

 

黙示録を正しく理解できない1つの大きな問題というのは、自分の好き嫌いが結構ある。

 

「艱難に遭いたくない」  そうすると、歪な解釈になる。

 

やはり我々は、真理に立たなければならない。痛みをともなったりしても。

 

そういう意味で我々は真理を見て行きたい。

 

「大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」

 

大淫婦は、大水に座っている事も書いてある。  「大水」

 

水は、霊的な事柄と関係して来る。

 

イエス様がサマリヤの女に言った、「この水を飲む者は皆渇く。でも私が与える水は、その人の内に泉となって湧き上がる」

 

明らかに聖霊の事を言っている。

 

大淫婦が座っている水は、霊的なものではあるが、聖霊ではない。

 

悪霊だったり、惑わしの霊だったりする。

 

ただ、大水の上に座っているので、大きく霊的な影響があるという事。

 

そしてこれは、今のキリスト教会に起きている事柄と大いに関係している。

 

我々は、トロントブレッシングのCDを作った。

 

それで理解したことは、アメリカのトロントブレッシングも、ペンサコーラも、リバイバルの裏には、リバイバリストその者が、ベニーヒンは「デーモン」を連呼して悪霊を呼び出しているし、ロドニーハワードは、「獣の印をつけろ」と言っている。

 

とんでもない事を自分で告白している。

 

明らかに、神の霊ではなく、悪霊が働いている。

 

働き人も人前では分からないように、自分で分かってて悪霊を下している。

 

そういう器は、みなアメリカ由来。 ベニーヒンしかり、ロドニーハワードにしても、アメリカ由来で奉仕しているけれども、そういう意味合いでは、まさに「大水」

 

大きな、霊的な影響を持っている、まさにアメリカのキリスト教会が、この言葉に該当すると思われる。

 

特に、ペンテコステ系の人々は、大いに勘違いしている。

 

「アメリカに、すごい神のわざが現われている」

 

確かに、それらしき現象はあるかもしれないが、それは、御言葉によれば、聖霊の教えによるならば、明らかにこれは違う霊からのものであって、主が言われたように、「偽預言者が大勢現われ、大きなしるしと不思議によって、多くの人を惑わす。選民をも惑わそうとする」

 

そういうわざの現われであると思われる。

 

この、主の言葉は、成就しつつあると思われる。

 

しるしと不思議を起こして、選ばれた神の民をも惑わそうとする。弟子のペテロやヨハネのような者さえも惑わそうとする、という事。

 

だから、一般の群衆はひとたまりも無く惑わされて、みなベニーヒンの集会に行ってしまうという事。

 

「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」とある。

 

ここで言うさばきというのは、罰という意味合いにも取れるので、

 

 

 

マタイ

 

23:14[忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。]

 

 

 

ここに書いてある「罰」という言葉が、黙示録で使われている「さばき」と同じ言葉が使われている。 「さばき」と訳しても良いが、「罰」とも訳せる。

 

黙示録の時代で起きて来るのは、1つは、教会は背教して行くという事。

 

それで、大淫婦のようになって行くという事。

 

色々な、それぞれのキリスト教会というのは、大淫婦と言うと、他の教団の事だと思っている。

 

プロテスタントは、「カトリックは淫婦バビロンだ」というし、ものみの塔は、自分たちは正しいけれど、今のキリスト教会は大淫婦だ。」という。自分たちだけが正しいというけれども、

 

どこかと言わず、みな淫婦化していくと思うが、1つは、トレンドとして、教会全体がやはり、

 

背教化して行く、と明らかに聖書が語っているので、どこの教団と言わず、教会と言わず、殆ど背教に進んで行く。  それは1つの大きな流れ。

 

それと共に、これから黙示録の時代に入って行くけれども、教会に対して、「罰」が加わって来る。

 

2次世界大戦の時、日本の都市が焼け野原にされたり、原爆を落とされたりしたのは、やはり「罰」

 

神様は、罰を下す方。

 

同じ神ご自身が、背教の教会に対して罰を下す時代が、黙示録の時代だという事は、理解しなければならない。

 

人間的な言い方をするなら、教会の状態は悪くなって行く。  背教的な方向。

 

そういう意味では、アメリカなんかでは、どんどん獣が迫って来て、クリスチャンが圧迫されるようになって行く。教会に対し、同性愛を強制的に受け入れさせるようになって来ている。

 

これもある意味では「罰」

 

アメリカを筆頭としたキリスト教会が、どんどん背教化しているので、獣を通して厳しい災いが下っていると言える。背教化している教会に対する「罰」

 

厳しい鞭打ち、厳しい災いが、どんどん教会に下って来る時代になって行くという事は、明らかに聖書が語っているくらいなので、こう言うポイントは見て行きたい。

 

 

 

黙示録

 

17:2地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」

 

 

 

ここで言われている様に、黙示録に限らないが、どんなに小さな言葉にも意味がある。

 

ここでは「天」と言わずに、「地」と書いてある事に意味がある。

 

クリスチャンには、天に住む者と、地に住む者がいる。

 

神はアブラハムに対して約束をされた。

 

アブラハムは、旧約のイスラエルの先祖であるし、我々クリスチャンは新約のイスラエルであるから、クリスチャンにとってもアブラハムは先祖。

 

神がアブラハムに言われた事は全てのクリスチャンに該当する。

 

神は、アブラハムに対し、「あなたの子孫は天の星、地の砂の様になる」

 

星、砂の様に多くなるけれども、天に住むクリスチャン、地に住むクリスチャン、どちらもクリスチャン。

 

御心は、天に住むクリスチャンにある。 地に住むのは良くない。地、この世に交わって行く。しかし、それもアブラハムの子孫。

 

我々はやはり、聖書的な視点で見て行かなければならない。

 

天的な聖霊にある歩みをしているクリスチャンも、地、この世にどっぷりつかっている人達もクリスチャン。  キリストを信じていれば、天に住む人も、地に住む人もクリスチャン。

 

問題はこの時に、地に住む人々は、不品行、姦淫を行ない、この「女」と不品行を行ない、この女の不品行のぶどう酒に酔う。 問題は、地に住む人々に出て来る。

 

「地」は「天」と対照的な言葉。

 

アブラハム、イサク、ヤコブに関しては、聖書は、彼らは地上の寄留者、また旅人として歩んだと書いてある。   具体的には、いつでも移動可能なテント生活をした。

 

それは喩え。

 

この地においては、旅人、寄留者であって、行くべき都は天にある。価値観、方向がそうだった。

 

地に住む人々は、明らかにそれと対照的。  「地に定住する」というニュアンスがある。

 

地に根をおろしてしまい、すっかりこの世の価値観や歩み方、信仰、常識を受け入れ、この世についてしまったクリスチャンは、聖書的に言うなら災いに遭う。

 

そして、淫婦の惑わしに入って行く、という事。

 

今のキリスト教の音楽にしても、アメリカなんかでも、クリスチャンのゴスペルシンガーなのに、どんどんこの世の歌を福音箇所なのにカバーしたりする。

 

アメリカの福音歌手なども、大きなイレズミを入れたりしている。

 

聖書はイレズミを禁じている。

 

同性愛の歌手までいる。ゴスペルシンガー。

 

こういう人達は、地に住んでいる。

 

リックウォレンの目的主導型教会、目的さえ達成して人が沢山来れば、手段を択ばない。

 

「イスラム教もキリスト教も1つにしたら、人が増えていいじゃないか」と言っている。

 

とんでもない事。  地に住む、この世の方法であり、この世の価値観。

 

しかし、聖書がこのように言っているという事は、「地に住む人々」というのが特別に黙示録では度々出て来る。

 

我々は、そういう事に関して、聖書的な主観とか、見るべき目で見て行かなければならない。

 

天の星のようなクリスチャンと、地の砂のようなクリスチャンとの区分は最低ある。

 

それを理解しなければならない。

 

ポイントは、天的なクリスチャンにポイントがある。

 

ここでも災いは、地に住むクリスチャンが災いになって来るというのが、理解しなければいけない。

 

「地の王たちは、この女と不品行を行ない、」とある。

 

「地の王たち」 キリスト教会は、そもそも王国。  王が治めて行く。

 

本当の王は、イエス・キリストだが、今の、キリスト教の教団とか、教派は、やはり王が立っている。

 

ローマカトリックなどは、ローマ法王、「王」という言葉が入っている。

 

しかも、聖書よりも尊重されている。  キリストを排除して、ローマ法王が王になってしまっている。

 

プロテスタントも大なり小なり。 ペンテコステ、カリスマ系がそう。

 

チョーヨンギなど、ペンテコステ系の人達は権威にこだわる。

 

強い権威にこだわる牧師が多い。  「王」になってしまっている。

 

「私たちをさしおいて王になっている」と、パウロの手紙にある。

 

律法にも「王」という言葉が使われている。

 

ここに書いてある「王」は、キリスト教会のリーダー。

 

教派、教団のトップだったり。 そのリーダーの中にも、天的なリーダーもいるし、知的な、この世についた様な信仰を持ったリーダーもいる。

 

この世的な事に、どんどん妥協している、教団のトップは、この女と不品行を行なうという事。

 

具体的には、この世的な牧師、教団のリーダーは、この女、大淫婦である、アメリカのキリスト教会の惑わしに入り、教理を受け入れる。それは、神の前に、不品行と見なされる。

 

具体的には、アメリカ由来の艱難前携挙説、レフトビハインドなど、これらも全く不品行だけど、アメリカのキリスト教会もやはり、この世的なキリスト教リーダーを受け入れて、「耳触り良いし、信者も増える」という事で、受け入れてしまうという事。

 

艱難前携挙を教えるのは、不品行の行ないの1つ。

 

アメリカは、そういう教理を提示する。  レフトビハインドなど。

 

しかし、それを受け入れる義務は無い。

 

そしてアメリカ由来の、いのちのことば社を初めとした、キリスト教界のメディアは、それをどんどん広げて行く。しかし、それを受け入れる義務は無い。

 

聖霊は語っている筈。「本当にこれは神から来た教理なのか」と。

 

たとえ、「キリスト教の書店に行ったらこんな本が置いてあった」と言っても、それを受け入れたら、やはり個々のクリスチャンなので、どこかに決断がある。

 

この教理が正しいか否かを、聖霊がどこかで語られている筈。

 

しかし、選んだのは、耳触りの好い方だという決断がどこかにある筈。

 

地の王たちは、この女と不品行を行なったり、やはり、今の日本のキリスト教界でも、各教団のトップの教団が、インチキな、アメリカ由来の教理を受け入れているという事は、神の前、キリストの前に不品行であり、且つ、決断でもある。

 

キリストは「かつてなく、今後とも無い苦難がある」と言っている。

 

黙示録の3章では、「艱難は来るけれども、あなたを守ろう」とあるので、そういう意味ではこの世、地についたキリスト教会のトップ、リーダーたちは、この女、アメリカ由来の曲がった教理、曲がった霊、を受け入れて行くという現実がある。

 

これは、本人の自己申告ではなくて、霊的な現実に沿って行く。

 

要は、誰も地についたクリスチャンとか、キリスト教のリーダーとかは、言わない。

 

しかし、実際問題、この世についていると、その人は受け入れてしまうという事。

 

ペンテコステ系を初めとして、アメリカ由来のベニーヒンとか、聖霊の第三の波とかが大いに広がっている。

 

何で広がったかは、この御言葉の成就。

 

地の王たち。 結局、その人たちの本音が、キリスト教界のリーダーの本音が、やはり現われる。    ベニーヒンの霊を受け入れてしまうのは、地についているから受け入れてしまう。

 

逆に天的で、聖霊についているクリスチャンは、見分けられる筈だという事。

 

御言葉は、動かす事が出来ない。

 

こう言うおかしな、アメリカ由来の教理、リバイバルに引っかかる人は、みな地についていると、御言葉は語っている。

 

「地の王」と書いてあるから。

 

また、「地についている人々」と言われている様に、「地」という言葉が、強調されている。

 

なので、黙示録の時代についてのクリスチャンの区分というのは、その人のクリスチャンの、本当の歩みの本音の部分。 人前ではどんなに敬虔な事を語ろうと語るまいと、本音の部分が地についているのか、大きく区分されてしまい、吟味されてしまい、神の前に判断されてしまうという事。  この事は本当。

 

変な霊に引っかかる人は、明らかにこの世についている。

 

平気で人を非難したり、この世についた事柄にずっとついていたりする事がある。

 

地につくクリスチャンか、それとも天的なクリスチャンか、自分が判断するのではない。

 

神が判断する。地についている、この世についていると判断された人は、結局変な霊の惑わしに入って行く。

 

それは、神がそう判断したから。

 

逆に自分はそうでないと思っていても、神が、天的だと理解したら、憐れみによって、天的な教理、聖霊に触れるようになる。

 

引っかかる人には引っかかる人なりの理由がある。

 

王たちの歩みが関係している。

 

そういう意味では自業自得。

 

我々は、そういう時代に来ているという事を理解しなければならない。

 

歩みが、神によって判断され、判定を下され、合否を判定され、そして、地につく人と判定され、投げ出されてしまう人が、密かに増えている。

 

はっきり言って、地的に区分される人は多い。  がっかりなケースが多い。

 

黙示録のみ言葉はだてな事ではなく、どんな言葉にも意味がある。

 

ここで書いてあるように、地の王たちはこの世についている。

 

「堅い事ばかり言うクリスチャンはダメだ」とか言う人がいる。

 

我々も何も知らなければ歩んで行けない。

 

「世のものを用いすぎない」

 

世のものを用いすぎて、地の王、地に住む者と判定されたら意味が無い。

 

ミイラ取りがミイラになるという事はまさにそういう事。

 

明らかに黙示録の時代は、地につくクリスチャンと、天的なクリスチャンとの区分が成される。

 

しかもそれは、神によってなされ、しかもその結果、ある人は災い、惑わしに投げ入れられてしまう。 しかし本人は気づかないし解らない。

 

惑わしに入って、自分から出て来るのは本当に難しい。

 

テサロニケの手紙には、神が惑わしの霊を送ると書いてある。

 

神が送られたら、そこから出て来るのは本当に難しい。

 

我々は神を恐れ、天的な歩みをして行きたいと思う。