ヨハネの黙示録17章18節。18章1~3節 2016.12.11
17:18あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
新改訳では、その下に注釈がついている。
18節、直訳では、「王たちの故に王国を持つ、大きな都のこと」と書いてある。
王はたくさんいる。
バビロンは都を持っている。
1つは、「地上」という事。
黙示録の中で度々出て来る事は、「地に住む人々」とか、「地上の王」など。
「地上」という事は、「地に住む」とか、「地上」
「地」の反対は「天」
キリストと共に天に過ごす、または、地上においては寄留者、旅人とか。
心を天、入るべき所に向けているのではなく、「地」、この世の事柄にずっと執着してしまい、
そちらの方に思いが行ってしまう。
名目ではない。 現実がどうなのかが大事。
具体的には、この世の考え、この世の人に受けるという事が、第一優先になっている、クリスチャンは、それこそ地上の王であり、地上のクリスチャン。
「地上の王」とはどういう意味か。
王は、王国を治めているわけだから、喩えの意味合いとしては、それぞれの教団のトップ。
この世についた教団のトップを「地上の王」だと言っているのではないか。
聖書の御言葉よりも、この世の論理とか考えが優先している教団、そのトップは、まさにここで言われている「地上の王」
カトリックはまさにそう。 この世に合わせて「地獄は無い」とか言っている。
王のトップ。 人前では輝かしいが、神の前では恥ずべき事。
聖書の言葉を投げ捨て、「進化論はあまりにも科学的なので否定できない。」
つまり聖書の言葉を神話だと言っている。「進化論は正しいが、聖書は古い物、神の言葉は間違いであり、非科学的」だと言っている。 それを指して「地上の王」と言っている。
そういう意味ではカトリックは、「地上の王」のトップ。
日本キリスト教団でも、同性愛つまりホモの牧師がいたりする。
この世は同性愛を受け入れるが、聖書はそれを受け入れない。
しかし、この世を優先して、牧師にまで任命しているので、大いに日基は、この世寄り。
全ての人とは言わないが、知っている限りは、この世寄り。
そういう意味合いでは、バビロン、アメリカのキリスト教会では、大いに発展したりするが、
その基本は、この世についたクリスチャンだったり、教団だという事。
それで増々神の怒りを買っている。
我々が、気づくか気づかないかは別として、アメリカのキリスト教会は明らかに、この世的な方向に舵を切っている。
だから、思わず知らず、意識しようとしまいと、アメリカのキリスト教会の色んなトレンドを憂いれている人は、どんどんこの世的になって行く。
テレビを見続ければ、テレビの影響を見て行く。
アメリカのキリスト教会も同じ。
艱難前携挙説は、1つの典型的な例だが、この世についたクリスチャンが、「艱難には遭いたくない」と。 「そのためにはどうしたら良いか」などと、振り込め詐欺みたいなもの。
残念ながら、聖書の言葉とは、全く正反対。
これが正しく見えるというのは、問題。
他の聖書箇所の解釈も、かなりおかしくなる。
何はともあれ、アメリカのキリスト教会の基本、また人気は、この世(地上)の王、だからこの世についた人々は、この傾向を受け入れて行く。
欧米のキリスト教会のニュースで、ある有名な牧師は、「最後の審判に関して、正しい事を信者に伝える」と言っているが、「審判は、この世の人が受けるのであって、クリスチャンは関係ない」と言っている。
我々はそうは見ていない。
明らかにサルデスの御言葉にあるように、クリスチャンであったとしても、歩みを正さないなら、「いのちの書」から名前が消されると明らかに暗示して書かれている。
少数の、白い衣を着て歩く人に関しては、「いのちの書から名が消されることは無い」と書かれている。
衣が汚れていたり、罪に満ちているなら、「命の書からどんどん消されてしまう」
明らかに聖書は言っている。
「クリスチャンと名がつけば、いのちの書から決して消されない」というインチキも横行している。
これは何かというと、地上の王たちの上に君臨している都であり、バビロンことアメリカのキリスト教会を通して、大いにこの世についた教団、この世的なキリスト教会、クリスチャンが量産されている事を語っている御言葉でもある。
アメリカのキリスト教会のトレンドを、我々が正しく見る事が出来るならば、明らかに地上の王というように、この世を目指している。
他のニュースでは、ビリーグラハムの孫フランクリングラハムの事がニュースに乗っていた。
牧師らしいが色々なスキャンダル、不倫的なスキャンダルを起こしている。
ビリーグラハムは、典型的なアメリカの牧師だが、彼のところを初めとして、どんどんこの世的になり、離婚でも何でもありのような状態。
これは「地上の王」
聖書が言っている事は、バビロン、要するにアメリカのトレンドに従って行くなら、地上の王となって行き、この世の倫理観、標準、教理に入って行く。そしてこの世のものになって行く。
天には入って行く事が出来ない。 天と地は対称的。
そういう事を18節の御言葉は語っている。
意味なく書かれている御言葉は無い。全て意味のある言葉が書かれていて、17章18節の言わんとしている事は、アメリカ・バビロンすなわちアメリカのキリスト教会に従って行くなら、
我々は地上の者となって行き、結局は天から離されて行き、入るべき所に入って行かないという事が、1つのメッセージ。 こう言ったところは覚えて行きたい。
18:1この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。
18:2彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。
1つは、2節で「倒れた。大バビロンが倒れた。」と書いてある。
1つ理解しなければならない事は、我々は、このバビロンというのは、アメリカのキリスト教会だと理解する。今は100%合っているかは分からない。今のところは違っているとは思っていない。
しかし、はっきり言える事は、世の終わりには必ずバビロンという働きが出て来る。
やはり、キリスト教会と関係している。
「ぶどう酒」は、聖餐式のぶどう酒。
もう1ついえる事は、これがアメリカのキリスト教会とするなら、バビロンという名。
神は、人の外面だけではなく、その心を見られるので、かなり本質的な事が見える。
我々はアメリカのキリスト教会を外面的なところは見ても、本質な事は見ない。
神は、はっきりと本質的な事を言う。
その時に、注目すべき事は、アメリカのキリスト教会を指して、「神の栄光」の教会であるとか、「キリストの栄光の現われ」だとか、「神の御心を行う教会」であるとか、言っていない。
そうでなく、「バビロンだ」という事を言っている。
新約聖書では、殆どバビロンに関する記述は無いので、本当にバビロンという言葉の深刻さを理解するつもりがあるなら、我々は、旧約聖書のバビロンに関しての記述を見て行かなければならない。
今の日本のキリスト教会でも、「旧約なんて意味が無い」などと言うように、全然間違えている。 本当に未来の事を知りたければ、旧約に戻って読んでいく事が、実は未来、黙示録や終末に関して理解出来る。
旧約聖書を読んでいく時、解る事は、バビロンは、神の怒りの対象であり、もう1つ、はっきりわかる事は、バビロンは異邦の国。
バビロンという言葉を通して言っている事は、先祖の約束の地から引き抜かれるという事。
それを通して、イスラエル、神に愛されたユダ、ダビデ王朝がずっと続く、神の御心の中心であるユダは、その歴史の終わりに、その不信ゆえに、神の怒りを買って、バビロンに捕囚されてしまった。
引き抜かれ、王をはじめとして、貴族も、他の人達も、バビロンへ連れて行かれてしまった。
これは国として大変な事だが、これは喩え。
今の時代の、黙示録まさに、教会時代の終わりに、バビロンが出て来るが、その事を語る喩えだと理解しなければならない。
黙示録のバビロンを、本気で理解するなら、旧約の時代のバビロンを理解しなければならない。
その中で、大きなポイントは、バビロン捕囚という事。
旧約の、最も愛されたユダの国が、王をはじめとして皆引き抜かれて、バビロンに連れて行かれた。 言わんとしている事は、イスラエル、ユダの地というのは、神の約束の地。
それの意味する事は、神が、アブラハムに約束した、入るべき天の御国のこと。
そこを意図して喩えている。
だからユダの人々が、最後までユダの地に残るなら、彼らは、先祖に与えられた約束の地に留まり続け、入るべき天の御国に入って行く事の象徴。
しかし、残念ながら、不信のゆえに、バビロンに引き抜かれ、連れて行かれた。
これは、約束の地から引き抜かれたという意味。
もっとはっきり言うなら、新約の終わりの時代、バビロン捕囚が再度起きるが、それを通して多くのクリスチャンが、入るべき天の御国から引き抜かれるという事をまさに、暗示しており、喩えではっきり語っている。
意味なくバビロン、メディアペルシャが書かれている訳ではない。
バビロンは明らかにその事を語っている。
もっとはっきり言うなら、アメリカのキリスト教会はまさにバビロンなので、これに引っかかり、この霊に引っかかり、リバイバルの霊に引っかかり、アメリカ由来の艱難前をはじめとしたおかしな教理に引っかかるなら、入るべき、約束の地には、入れないという事を暗示して、バビロンという言葉が使われている。
神様は意味も無く、黙示録の内にバビロンという言葉を使っているのではない。
聖書は神の知恵によって書かれた。
だから、バビロンという言葉には意味合いがある。
その意味合いを理解しなければならない。
それは、旧約もきちんと見て行かなければ、解らない。
旧約をろくに読んでない人、黙示録だけを多く読んだとしてもダメ。
旧約を読んで初めて、バビロンという事柄が理解出来るので、バビロンという言葉の深刻さが
旧約聖書でバビロン捕囚という事柄を、霊的に正しく理解して初めて見えて来るという事を正しく理解して行きたい。
1つはバビロン。
バビロンに関して、「あらゆる悪霊、汚れた霊、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。」とある。
なのでバビロン、アメリカのキリスト教会の特徴を、ここでは明確に語っている。
我々の理解とはだいぶ違うと思う。
特に、ペンテコステ、カリスマ系の人々は、アメリカ由来のリバイバルの本質を理解していない人が多い。
聖書のいう事が正しい。
やっている事は霊的な事であり、リバイバルとか、霊的な事に関して言っている。
なので、アメリカ由来のリバイバル、アメリカを発祥とした霊的な働き、具体的には、例えば
「聖霊の第三の波」とか、こちらの解釈が間違いでなければ、これこそまさに悪霊のリバイバル。汚れた霊とか、そういったモノを通している。
ピーターワグナーだけではない。 ジョンウィンバーしかり、シンディジェイコブ、ベニーヒン、ビリーグラハムなど、あらゆるアメリカ由来の器で、有名な人は軒並み、悪霊の器であるという事とこちらでは理解している。
なので、深刻な問題。 「神の働き、神のリバイバルが進んでいる」と、人間的には思っているが、実は進んでいるのは、悪霊の働き。
どの様な深刻な問題になるかと言うと、悪霊のリバイバルの時に、1つは、
マタイ
7:27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
ここは、「大いなるバビロンは倒れた」と「ひどい倒れ方をした」と、同じ事。
その前に、なぜ倒れたかと言うと、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
雨も風も洪水も、みな霊的な事の喩え。
だから、霊的なもので倒された。まさにバビロンは倒された。
7:21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
この箇所の問題というのは、理解に間違いが無ければ、言わんとしている事は、「霊」の問題。
悪霊によっても預言は行なえる。時として、悪霊の預言の方がさらに具体的だったりする。
また、変な言い方だが、悪霊によっても悪霊を追い出せる。
ベニーヒンは悪い意味ですごい器。 何万人という人が集まっている。
しかし、ポイントは、我々が、聖霊にあって技をなしているのか、悪霊によって技をなしているのか、残念ながら、悪霊も同じ業をする。
その時、悪霊に導かれている器は、聖霊による清めも罪の赦しも無いし、不法からも解放されていない。
アメリカのペンテコステ系の教会の中でも、色々とわけの分からないスキャンダル、不倫とか
を起こす人が多い。 やはり霊が違うから。神からの霊ではない。
この様な事は日本でもある。
スキャンダルな事を起こすのは、圧倒的にペンテコステ派が多い。
「木はその実によって知られる」というように、霊が違う。
わざは現われているが、別の霊で導かれ、業を起こす時に、結局その実が出て来る。
道徳的な面もしかり。おかしなものになって来る。
7:23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
なので、こういった人達は、技があるが、奇蹟もあったり、預言もある。悪霊追い出しも。
しかし、不法、道徳的におかしくなったり、霊的におかしくなったりするが、神からの霊でないので全然道徳的に改善されない。
アメリカ・バビロンの問題というのは、霊が違う。
しかし、リバイバルと称するものはある。
いやし、奇蹟も起きて来る。金粉も舞ったりする。
しかし、それは神からの霊ではないので、結局、そういったリバイバルに入って行く人は、最も大事なものを失う。
これではキリストに、「知らない」と言われてしまう。
何故なら、キリスト以外の霊で行なっているから。
アメリカの問題。 バビロンの問題というのは、多くのクリスチャンを罠にかける。
特に、ペンテコステ派、カリスマ派は、しるしと不思議というものを追い求めて行って、その人の本音が現われて来る。深刻な意味の、永遠のいのちにかかわる大きな間違いに入っている。
「別に神からの霊でなくてもいいから、どんな霊でも、しるしと不思議が起こし、『凄い器だ』と言われたいから、たくさん信者が集まって大教会を建てて、」 未信者から「物凄い先生」
と言われたい「本音」が、見られる。 しかし結局、行きつくところは、キリストから「知らない」と言われる。
働いていた霊が、汚れた霊だったり、悪霊だったり、憎むべきものだったりするので、「どっちか」という事。
自分の隠れた欲とか、隠れた名誉心とか、隠れたプライド、そういったモノに引きずられて、最も大事なものを忘れようとしている。
神からの霊=聖霊も別の変な霊のしるしにも気づかない。
行きつくところは、悪霊であったり、キリストから「知らない」と言われるようなところに入って行く。 悪霊も、聖霊も見えないようになっている。
欲に引かれて。まさにアダムとイブがそう。
神が「この実を取って食べたら必ず死ぬ」と言われたが、見るに良く、食べるに良く、賢からんとするにふさわしい、と、欲に駆られてしまったら、神の言葉がどこかへ行ってしまっている。結局彼らは死を受けるようになった。
それらを指して黙示録の18章2節は、そういう事の警告として書かれている。
「彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。」
神の見る真実と、我々クリスチャン、特にペンテコステ派、カリスマ派の人々が見ている事柄は、全然違う。
見えるようでいて、見えていない。
特にペンテコステ派、カリスマ派の人々は目が眩んでいる。欲に目が眩んでいる。
トロントビデオや「角笛」ホームページに出ているので参照しておいた方が良い。
「すごい先生」「すごい器」とか、言われる時、その足元をひっくり返される。
そこが罠になって、結局、神の霊と別の霊(神以外)を、区分できない。
変な霊が引っ張っている。 「賜物さえあれば良い」という感じ。
しかしそれは、どうして神はそのような現象を赦されるかと言うと、神は、人の心を見られる方だから。 故に、引っかかるべき人は、引っかかって行く。
他の聖書箇所に、「とりことなるべき者はとりこになって行く」と書かれている。
まさにその事を言っている。
とりことなる人は、やはり理由がある。
何故ならすべての人がとりこになるわけではない。
結局その人の隠れた所、隠れた思いとか、人に言わないような事も、やはり神は、隠れた部分を見られる方なので、その人の本音を通して、サタンもそれを知っていて、引っかかってしまう。 そういう事柄。
黙示録
18:3それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」
ここを見たい。
1つは、全ての国々の民は、ぶどう酒を飲む。
それは不品行のぶどう酒。 その、ぶどう酒に関して、激しい神の怒りが下る。
地上の商人は、富を得た。
全ての国々と書いてあるので、喩えの意味合いとしては、世界中のあらゆるキリスト教団は、
みな、アメリカ由来の悪霊によるリバイバルを受ける。
日本で言うなら、日基であろうと、ホーリネスであろうと、同盟であろうと、長老教会であろうと、ブレザレン系であろうと、みな大なり小なり、この霊の影響を受ける。
これは事実であろうかと思う。
「聖霊の第三の波」の本は、日本国内のキリスト教会でかなり売れている。
売れた総数は1万部以上。
そういう意味合いでは、これを理解しなければならない。
神の怒りの中で、アメリカ由来のおかしなリバイバルの霊というのは、あらゆる教団を席巻すると思われる。 実際そうなっている。
ベニーヒン、ピーターワグナーなど。
日本でもあらゆる教団、福音派と言わず、ペンテコステ派と言わず、みな、引っかかる。
第三の波がそう。 ペンテコステ系だけではなく、福音派も引っ掛けるというのが、第三の波
の意味合いだと、ピーターワグナーが自分で言っている。
この事は、実現している。
だから、我々が理解しなければならない事は、おかしなリバイバルが世界中を席巻しているという事。別の言葉で言えば、ロトの時、ノアの時の成就。
ノアの時、洪水の水が、あらゆる山々を覆った。
あらゆるキリスト教会の教団も、霊の洪水が一掃して来る。
なので、そうなんだと思うべき。
そういう意味では、こういう悪霊のリバイバルを逃れるキリスト教団、教会は無い。
この世についたクリスチャンは、みなこれに引っかかって行くと思われる。
主の憐れみによってそれを霊によって見た人は、そこから逃れる。
霊の洪水は、神の怒りとして起きて来る。
もう1つは、不品行のぶどう酒と言っている様に、ぶどう酒は霊的な事の喩え。
不品行というのは、我々キリスト教会は、キリストの花嫁として、キリストと婚姻関係を持つが、他のモノと婚姻関係持ったら、不品行になる。
そういう意味で、神以外の霊と関係を持つのは不品行。
だから、アメリカ由来のリバイバルで、「すっかり恵まれているとか、すっかり賜物を受けている」というのは、実は、不品行として神の怒りを買ったりする事があるので、理解しなければならない。
もう1つは、激しい神の怒り。
それは何かというと、不品行という事。要するに、キリストの血によって、贖われている筈の教会が、「賜物がありさえすれば、聖霊でも悪霊でも何でもいい」と、言うような事で入って行く。
だから、最も大事な事は、解らない。
ペンテコステ系、カリスマ系の人々で、ピーターワグナーとか、「聖霊の第三の波」とか、ベニーヒンに浮かれている人達は、夢にもそんな事は思わない。
みんな、「これは神の業、働きだ」と言って、「キリストの名によって、神の働きを祈ります」と言っている。夢にも思わないが、霊的な現実は、不品行であり、神の怒りを買っている。
そこが終末の時代の恐ろしい事。
最も大事な事が理解できない。
「結婚したが、相手が別の男だった」というのは問題。
この世ではその様な馬鹿な事は無いが、霊の世界では有り得る事。
なぜそうなるかと言うと、やはり賜物に魅かれてしまうから。
その時に、そういった惑わしに入るという事。
もう1つは「地上の王」 もう1つは、「地上の商人」という事に関しての喩え。
「商人」・・・何を喩えるのか。 商人という言葉にも喩えの意味合いがある。
これは、「売り買い」をする、という事。
売り買いは、「買い取る」、すなわち「贖い」に関しての事。
「売ったり買ったり」するのが商人だが、我々が、キリストの血によって買い取られたという事。「贖い」と関係する。だから、救いとか、牧師とか、教師たちの事を言っている。
教会の牧師とか、教師の事を言っている。
しかし、全ての牧師が神の怒りを買うわけではない。
「地上」という言葉が、この世についた牧師や、教育者はみな、バビロンの霊に引っかかって、
神の怒りを買うようになる。
そういう意味で言うと、日本のペンテコステ、カリスマ派は、特に、「聖霊の第三の波」に浮かれているような、ピーターワグナーやベニーヒンとか、すっかり大歓迎しているような所は、
要は、本人がそう思っているかどうか知れないが、「地上の商人」だという事。
その人がそう思っていないにしても、結局その人が神の前にこの世についている牧師であり、クリスチャンであると見なされたら、結局そういうリバイバルを見分ける事が出来ない。
引っかかってしまう。
この世的な事を自分の1番にしていると、結局これに引っかかる。
なので理解する。
そして、「富を得る」という言葉は、象徴的。
富は何かというと、「賜物」
いやしの賜物とか、奇蹟をともなう賜物、預言の賜物とか、これはクリスチャンとしての富。
しかし、賜物はあった方が良いが、問題は、富を得て、癒しもあり、賜物もあり、奇蹟、悪霊追い出しもあるが、それらは結局、バビロン、悪霊由来の霊によると見なので意味が無い。
それを意味しているのは、ラオデキヤの言葉。 ラオデキヤについては、
3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
ここでは、「地上の商人」が「富んでいる」ことが書かれている。
「富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言って、あらゆる賜物に満ちているという事。 預言もあるし、癒し、奇蹟も起きている。 しかし、それは、この世についた人間的な目で、教会に来る人も、「賜物がある教会だ」と言って、会堂もいっぱいあって、信者も増えて、「もっと広い会堂にしないと納まらない」とか献金も増えるだろうが、神の前には、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
神の前では価値のないもの。 しかも、「義の衣」も奪い取られて「裸」だったりする。
義の衣が無ければ、天の御国に入れない。
アメリカのバビロンという言葉に関しては、聖書が語っている恐るべき事。
それはすごい、理想的な「神のリバイバル」がどんどん進んでいるというように、人の目には見えるのだが、実はそれは、それこそキツネに化かされている様なもので、人の目には、ものすごい神の業である奇蹟が起きているが、聖書が正しい。
みじめで哀れ、貧しくて裸の者であり、神の前では価値がない。
ただ悪霊に惑わされているに過ぎないから。
それを警告する意味合いで、黙示録は書かれている。
世界のすべてのクリスチャンが、アメリカ由来のリバイバルを見抜けることが出来ないにしても、唯一聖書は、真実を語っていて、はっきりとした真理が語られている。
しかしクリスチャンは、読む事が出来ない。「盲目で分からない」そんな感じで、すべての預言が封じられてしまっている。
黙示録は警告のために書かれているが、多くのクリスチャンにとっては何の警告にもなっていない。 どんな教会、どんなクリスチャンが持っている聖書も、必ず黙示録があるのに。
同じ事が書いてあるが、「読めない」から、何の危機感も抱かない。
黙示録を呼んでも、ベニーヒンのリバイバルに行って、すっかり悪霊で浮かれ足りしている。「読んで」いない。 理解もしていないし、悟ってもいない。
しかし、非常に少数だが、レムナントのメッセージを聞いて、見るべき事を見たら、我々はこれを悟らなければならない。
しかし、盲目的に受け入れる必要は無い。
自分で聖書を読み、そうだと確信したら、その様に見るべき。
まさに黙示録はそれを語っていると思う。
レムナントキリスト教会
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天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著