ヨハネの黙示録18章21節~23節          2017.1.29

 

 

 

18:21また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。

 

 

 

黙示録は明らかに、神の怒りに関して書かれている。

 

怒りという言葉に関連して出て来るのは、殆ど「神の怒り」

 

怒りの対象は何か。

 

多くのクリスチャンは、耳触りの良い事を聞いて、「未信者が、災い、怒りに遭う」とか、酷いケースでは、「黙示録の時代は、ユダヤ人に怒りが来る。教会は天に上げられる」

 

そんなわけはない。 すごい自己中な解釈をしている。

 

真面目にそんな事を信じている、偽善的なクリスチャンが多いが、そんな事では「黙示録」の「も」の字も解らない。

 

7つの封印の内の、1つの封印も解かれることは無い。

 

明らかにバビロンは、教会であり、アメリカのキリスト教会だと理解している。

 

「女」は獣に乗っているという表現。

 

「獣」はアメリカの国そのもの。  獣と女とは、不可分の関係。人馬一体。

 

女が獣の上に乗っている以上、獣が右へ行けば、女も右に行き、獣が左に行けば、女も左に行く。  教会も、獣の国に合わせて動いている。

 

アメリカのキリスト教会がそう。

 

アメリカの国が、「イラクに爆弾を落とすのは正しい」と言えば、キリスト教会も、もろ手を挙げて賛成する。

 

それに見合ったように、聖書を改ざんして、「殺す」事が正しい事の様に言っている。

 

フランクリングラハムは、いい加減な解釈をして、御言葉を曲げるような事を言っている。

 

これはまさに、「女が獣に乗っている」という感じ。

 

それだけではなく、最近では、同性愛に関して、どんどん国の意向に合わせている。

 

アメリカのキリスト教会に、災いが来る戸いう事を、こちらの理解ではまさに黙示録が語っている事と思う。

 

「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。」

 

戸の事だが、それに関連して、「ひき臼のような石」

 

「ひき臼」は喩えの意味合いがある。

 

麦、米と関連している。  これは御言葉、パンに関しての言葉。

 

ここで暗示している事、語っている事。 聖書は神の知恵によって書かれているので、

 

あらゆる所に、喩え、謎、隠された意味合いがある。

 

それを主は、「御国の奥義」と語られた。

 

「あなた方には御国の奥義を知る事が許されているが、彼らには許されていない。だから喩えで語る」

 

喩えを通して区分されてしまう。

 

出来れば我々も、主の憐れみによって、喩えの向こうにある、御国の奥義を理解して行きたいと思う。

 

なぜバビロンが、「ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて・・・」と書いてあるかというと、明らかに神はバビロンを怒っているが、それは御言葉に関連して、神の怒りが積み上がっているという事。明らかにそれを暗示している。

 

だから、アメリカ・バビロン、アメリカのキリスト教会バビロンは、何をもって神の怒りを積み上げているかというと、そこで語られている教理がまさに、神の怒りを引き起こしている。

 

黙示録を読み、神様が封印を開いて下さるなら、神の御言葉を基準として、逆に今のキリスト教会を理解して行かなければならない。

 

多くの人は逆に考えている。

 

キリスト教会の常識があって、それから御言葉を見て行くので、何も見えない。

 

しかし、アメリカのキリスト教会の教理というのは、神の怒りを買うものであり、引き臼の様に海に投げ込まれるような存在と、聖書が語っているので、我々もそれに準じて理解して行かなければならない。

 

キリスト教書店に行くと、色々な本が置いてあるが、神のみ言葉の視点で見て行かなければならない。

 

バビロンに対して、引き臼が投げ込まれるような怒りを神は持っている。

 

例えば我々が「ヤベツの祈り」などの、アメリカのトレンドを何でもかんでも取り入れていくなら、我々も引き臼が投げ込まれるような怒りを買ってしまう。

 

「艱難前携挙」もまさにそう。

 

アメリカのキリスト教会の教理は、やはりおかしい。

 

リックウォレンなど、「イスラム教もキリスト教も一緒に」とか。

 

ある牧師は、「神の裁きはあるが、一度救いを受けた者は決して巻き込まれることは無い」

 

そうやって耳触りの良い事を言っているが、はっきりとそれは違う。

 

正しい教理が語られるのなら、国籍は関係ない。 我々の国籍は天にある。

 

レムナントで語られている事は、マイノリティーではあるが、間違いではない。

 

クリスチャンでも必ず裁きに遭う。場合によっては、主が、律法学者、パリサイ人、神に仕えていると思っている人達に対し、「ゲヘナ(地獄)の子」「どうしてあなた達はゲヘナの裁きを聞脱がれようか」と言ったように、今の時代も、アメリカ由来の教理にいる人達は、ゲヘナの裁きを逃れられない可能性がある。  これはまさに真理。

 

正しくそれを見て行きたい。

 

バビロン、アメリカ由来の教理こそが、神の前では、引き臼で投げ込まれるべく者。

 

我々も曖昧な事を言って、右にも左にもいい顔をして、八方美人になるのは、聖書的には良くない事。  パウロも八方美人ではなかった。「ケパ(ペテロ)に非難すべき事があったので、わたしは面と向かって非難した。」とある。

 

然りは然り、否は否。 我々もそう。

 

アメリカの教理は、神の怒りを積み上げるモノであり、引き臼のように海に投げ込まれるべき

 

のモノ。

 

我々はこれに関して、正しく吟味し、アメリカでも多少は良い所もあるかも知れないが、やはり、迂闊に受け入れて行くべきではない。

 

特に今は7つ目のミレニアムであり、安息日、パンは降って来ないという時代なので、パンを集めてはいけない。旧約聖書にも、「安息日に集めてはいけない」と書いてある。

 

これも喩えの意味合い。

 

キリスト教書店に行って、アメリカの、ピーターワグナー、リックウォレンとかの本を買いあさって、吟味も無く取り入れる人は、安息日にパンを集める人。

 

7日目はマナは降らない。

 

それをわきまえて書店に行かなければならない。

 

21節で、「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。」という事。

 

バビロンに関して、黙示録18節もそうだが、あらゆる神の厳しい怒りが書いてある。

 

ここでは、「もはやなくなって消えうせてしまう。」とある。

 

同じ18章の他の箇所、8節では、「それは一日のうちに、様々な災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。」と書いてある。

 

「火で焼き尽くされる」と書いてある。

 

10節には「さばきは一瞬にして来た」と書いてある。

 

18節では「彼女が焼かれる煙」、だから、「バビロンは焼かれる」と書いてある。

 

この女の事に意味があると思う。

 

それは、バビロン、アメリカは、ソドムが受けるような罰を受けるという事が聖書に書かれている。

 

 

 

イザヤ書

 

13:19こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神が、ソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。

 

 

 

バビロンは火で焼き尽くされる。

 

火で焼き尽くされるさばきというのは、まさに我々が旧約聖書に見る、ソドム、ゴモラが、火で焼き尽くされるさばきと同じ事が、バビロンに起きるという事。

 

それを確証する意味で、今のイザヤ書では、「バビロンは、神が、ソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。」

 

ソドム、ゴモラと、同じ裁きが、バビロン、アメリカのキリスト教会に来て、それが故に火で焼かれるという事。

 

何故ソドム、ゴモラが滅ぼされたか、それは明白。

 

同性愛に関係した言葉

 

アメリカも、ここ数年は、特にオバマ氏が大統領になってからは、同性愛が非常に優勢になって、同性愛に反対して、聖書を元にハンドスピーカーで反対して逮捕され、懲役47年を食らってしまうという、とんでもない、異様な判決が下されたりしてきている。

 

どんどんアメリカの世論は、キリスト教会も含めて、同性愛の方向に進んでいる。

 

同性愛に寛容的な事を言っているクリスチャン、キリスト教会(カトリックも含む)も増えて来ている。 それに対して批判的な事を言って、袋叩きにあったゴスペルミュージシャンもいる。

 

客観的に見て、アメリカはどんどんソドムの方向に来ている。

 

その結果が、火で焼かれるさばきという事。

 

この事は、理解しなくてはならない。

 

ペテロの手紙の中にも書いてあるように、ソドム、ゴモラのさばきというのは、後の世の見せしめとして起きた。

 

それを通し、我々クリスチャンがすべき事というのは、神は、言葉、さばきを変える方ではないので、われわれがもし、ソドム、ゴモラと同じ歩みをするなら、たとえクリスチャンであろうと、どんなにキリスト教国であろうと、どんなに大国であろうと、必ずソドム、ゴモラの様に、火で滅ぼされるという明らかな教訓や見せしめがある。

 

ペテロの手紙には、「見せしめ」という言葉が使われている。

 

 

 

第二ペテロ

 

2:6また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔の者への見せしめとされました。

 

 

 

聖書は、我々の教訓や、義の矯正のために書かれてある。

 

ある人達は、それをもって、素直に子供のようになって、ソドムの様に自分は滅ぼされたくないから、同性愛の罪に入らないように守る。

 

しかし、愚かで神を恐れもしない人達は、見せしめ、教訓があっても、気にしない。

 

「こんな事がなんだ、性的マイノリティーに対する差別だ」とか言って、神の言葉を無視して、

 

結局ソドムと同じように、火の滅びに遭う。

 

それがまさに、黙示録に書いてあるバビロンのすがた。

 

近未来ではあるが、アメリカはその方向へ進んでいる。

 

そして、いずれこうなるという事が明確に書かれている。

 

アメリカの国、アメリカのキリスト教会というのは、特殊。

 

こんなにはっきりと聖書に書いてある国は、現代においては珍しい。

 

「アメリカは聖書に書かれていない」は、とんでもない嘘。

 

アメリカこそ注目されている国であり、大いに、神にも聖書にも、悪い意味で注目されている。

 

これを通して我々が知らなければならない事は、恐るべき未来が、アメリカ、アメリカのキリスト教会に来るという事。

 

それは、彼らが、聖書は持っているけれど、本気にしない。神を恐れもしない。

 

それであるが故、神の言葉通りに、裁きを下される。

 

当たり前といえば、当たり前。   書かれた事は必ず成就する。

 

天地は過ぎ去っても、律法の一点一画も過ぎ去ることは無い。

 

神が、同性愛など、ソドムの罪に対して、「火で滅ぼす」と言ったら、変わらない。

 

そういう日が来るので理解しなければならない。

 

1つは、愚かになって、神を恐れず、滅んで行く人達の後を追ってしまってはならない。

 

逆に神を恐れ、神の1つも変わらない御言葉を恐れかしこみ、何とか我々の歩みが、御言葉に沿った歩みに入る事を求めて行くのが正しい。

 

「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、」とある。

 

「激しく」というのは、原語の意味合いでは、「暴力的な」とか「戦争で打倒される」というニュアンス。 アメリカ、アメリカのキリスト教会はそれこそ、戦争で攻撃されて、そして滅んでいく。

 

 

 

黙示録

 

18:22立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。

 

 

 

竪琴、歌、笛、ラッパ。

 

これらは教会における賛美。

 

バビロンのあらゆる特徴というのは、教会に関連している。

 

23節の、「花婿、花嫁の声も」    教会ではよく結婚式をする。

 

ブライダルチャーチなど。

 

これらが「聞かれなくなる」というのはまさに、アメリカのキリスト教会が滅んでいくという事。

 

そして、見たいのは、「技術を持った職人」

 

「職人」という言葉のギリシャ語はどこで使われているかというと、

 

 

 

へブル書

 

11:10彼は高い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し、建設されたのは神です。

 

 

 

ここは、アブラハムが入った、天の都の事を言っているが、その「設計、建設」が「職人」と同じ言葉が使われている。日本語と違うので解りづらいが。

 

ここでは要は、職人は、ここが書いてある事は、真の意味での職人は「神」だという事。

 

職人は何を作るかというと、天の都を作る。

 

何を言わんとしているのか。

 

黙示録の22節で、「あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。」

 

という御言葉の意味合いは、天の都を作られた、職人である神ご自身が、バビロン、堕落したキリスト教会には、見られなくなるという事。

 

もっと解りやすく言うなら、アメリカ・バビロンのキリスト教会というのは、神由来で創られたのではないという事、人間の知恵とか方法や悪霊的な知恵で作られた教会であって、この教会に集っている人達は、天の御国に入ることは無いという事。

 

これをまさに暗示している。

 

「職人たち」と、日本語では複数形で書かれているがKJVでは単数形で書かれている。

 

これは他でもない神ご自身を指している。

 

繰り返すが、言わんとしている事は、アメリカ・バビロンのキリスト教会は、神によって作られたのではないという事。

 

バビロンの由来はバベルであるが、バビロンは神によって建てられた都ではない。

 

アメリカのキリスト教会というのは、神によって建てられたものではなく、人間的な知恵、悪霊的な知恵によって建てられた。実際「艱難前携挙説」は悪霊の知恵。

 

悪霊の教理だったりする。「ヤベツの祈り」「積極的思考」とか、ロバートシューラーとか、これらは全く神から来たものではない。  人間的な考え。

 

アメリカのキリスト教会が、神の御前にどういったモノなのかというと、理解は必須。

 

何故なら否でも応でも、日本のキリスト教会は、非常に、上から下まで、アメリカのキリスト教に影響されている。

 

戦後、たくさんの宣教師が、アメリカから来ている。

 

キリスト教系の有名な学院、ミッション系の学校でも、みなアメリカから来た。

 

その働きは、尊いものだが、残念ながら、もたらされている教理は皆アメリカ由来のものが多いので、我々は、好むと好まざると、あらゆる日本中の教団が、アメリカの由来を受けている。

 

その影響を受けている日本のクリスチャンの問題でもある。

 

我々がしなければならない事は、聖霊にあって区分し、吟味していく事。

 

本当に聖書から来たものか。

 

ただアメリカ由来のモノであって、聖書とかけ離れていないかを。

 

レムナントの牧師の経験だと「あらゆる教理を一掃し、まず聖書を読め。聖書から、聖霊が確かに語った教理は、どこの国であろうと、一致して受け入れるべきであるが、そうでないモノは除外せよ」という語り掛けを受けた。

 

その後の歩みの中で、「艱難前携挙説はおかしい」と示されたので、退けたし、「クリスチャンと名がつけば、誰でも天国に入る」というのも違うと思った。

 

「教会は裁かれる事が無い」というのも違うし、「中東和平条約」も違うと思った。

 

確かに違っていた。だから、アメリカのキリスト教会をたたえた、建物として考えたのは、「職人」が大事だと思った。

 

真の意味での職人は「神」

 

バビロンには存在しないと言っている。

 

真の意味で、神が造った教会ではないという事。

 

それは、喩えを使って書かれているので理解しなければならない。

 

深刻な問題。

 

本物と、偽物というのは、「似ている」

 

黙示録23節で、「すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」と書いてある。

 

「ここが教会なら、なぜクリスチャンなのに、魔術に騙されているのか」とか。

 

魔術というのは、神の業を似せる。

 

そういう意味で、見分けは難しい。

 

旧約聖書をちゃんと読んでいるなら、そういう箇所がある。

 

魔術と神の業が似ている個所がある。

 

出エジプト記において、見ると出て来る。

 

神が杖を蛇にしたら、魔術師も杖を蛇にした。

 

23回、神の業をまねた。

 

この事は、我々に対して教えている。

 

教会で、神の業があっても、似た様な聖霊らしき業を魔術はする。

 

アメリカの教理は、本物らしく見えても、ある意味仕方がない。

 

黙示録23節で、「すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」と書いてある。

 

すべての国なので、日本も例外ではない。

 

騙されるという事は一般的。  騙されるとろくな事が無い。

 

世の終わりは、本物と偽物の区分がつかない。

 

神が、そういう事を許される時代。

 

それは、人の心の奥底、本音とか、本心、人が見分ける事の出来ない本心。

 

自分でもわからずに勘違いしている本心だが、神はそれを見分け、真に神についている人は、

 

その様な魔術とかを見分ける。バビロン的なモノであっても。

 

そうでない人達は、コロッと騙されて、本物だと思って、インチキを掴む。

 

そんな時代になって来ている。この事は理解する。

 

黙示録の1822節で、「職人が見られなくなる」の言わんとしている事の意味は深い。

 

言わんとしている事は、神の作った教会ではないという事。

 

逆に他のモノによって建てられた都であり、教会である事を語っている。

 

神ではない悪霊からのモノであったり、人間的な知恵だったり、そういうモノだという事が語られている。

 

23節で、「ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。」

 

ここを見たい。

 

「ともしびの光」は聖書的に意味のある言葉。

 

 

 

マタイ

 

5:15また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

 

5:16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 

 

 

ここで見ている限り、「あかり」とか「光」。これは真理の光。

 

真理の光を輝かせる。「キリストにこそ救いがある」といった真理。

 

ところが、バビロンは災い。

 

「ともしび」に関して、「もうもうおまえのうちに輝かなくなる。」

 

アメリカのキリスト教会においては、真理がどんどん消えて行くという事。

 

キリスト教会の中で、真理を語る事が出来なくなるという事。

 

そういう時代が来る。

 

「キリストにのみ救いがある」という事が言えなくなる。

 

逆に、人間的な考えが支配して、「そういう独断的な事は良くない。仏教、ヒンズー教にも、イスラム教にも救いがある」これは真理ではない。

 

そうやって、真理の光が輝かなくなる。

 

今もすでにそうなりつつある。

 

同性愛は、聖書の中に明確に禁止されているが、そういう真理が言えなくなる程、あらゆる、教会と言わずこの世の人とか、テレビとか、アメリカの世論とか、どんどん真理を排斥させるような、物凄い圧迫が来ている。バッシングなど。

 

非難が正しいクリスチャンに来ている。

 

何故このような事が許されるのかというと、やはり、神の許しの中に起きている。

 

偽りを人々が喜んでいるために、「さばきはない」とか、「艱難前にキリストは来る」とか。

 

そこまで真理を拒否し、別のモノを喜んで受け入れるような国になる事を神が許された。

 

敵の攻撃などが起きている。

 

我々はこれから、アメリカを筆頭に、全世界の教会から、真理の光が、どんどんキリスト教会から消えて行く時代。

 

それは、まずアメリカから来るという事。

 

残念ながら、これまでのクリスチャンの常識が及ばない、経験したことの無い時代が来るという事を、黙示録は告げる。

 

我々は、どこかで心を定めなければならない。

 

然りは然り、否は否で。

 

「自分のいのちを救おうとする者はそれを失う」とは、まさにそんな感じ。

 

その時、どれが正しいか。

 

良い見本が聖書にある。

 

ペテロ、ヨハネなど、12弟子の様にやはり最後まで主について行く人が、結局はいのちを救う。

 

そういう時代だから増々、主の働きを担って行くというのが、結局は自分のいのちを救う。

 

逆に、「どっちも」では、結局どちらも失う可能性があるので、我々は正しく、この時代を見分け、歩んで行きたい。

 

 

 

黙示録

 

18:23ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。