ヨハネの黙示録19章6節~7節            2017.2.26

 

 

 

19:6また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。

 

 

 

キリストが王となられたという事と、もう1つは、「雷鳴」

 

黙示録は、神の知恵によって書かれたものであり、しかも7つの封印で封じられているとまで書かれている。

 

なので、そういう意味では、表面的に読んでも見えないという事。しかし、神様が封印を開いていく時に、初めて見えるという事柄がある。

 

ここで見たいのは、「雷鳴、雷(かみなり)

 

 

 

第一サムエル

 

12:17今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」

 

12:18それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。

 

12:19民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」

 

12:20サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。

 

 

 

ここでわかる事は、「王を求める」という事は、「悪」

 

聖書に書いてあるし、民も認めている。「あらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えた」

 

サムエルも否定せず、「あなたがたは、このすべての悪を行なった。」と言った。

 

何故悪なのかというと、

 

 

 

12:12あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない。』と私に言った。

 

12:13今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。

 

 

 

人間が王を求めるのが何故悪かというと、既に、主ご自身が王として存在しておられるから。

 

なのに、既に王がおられるのに、「我々に王をくれ」などと言っているから。

 

つまり、神ご自身を王としていない。

 

王を選ぶ悪という事に関連して、12章の17節で、その悪に対して、「雷と雨」を下されると書いてある。

 

「雷」という事が、1つのキーワードであり、また、1つの教えだったりする。

 

実際に雷を下された。

 

1218節で「それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。」

 

これが、黙示録の19章に出て来る、雷の声と符合する。

 

だから、黙示録の中で言われている事、暗示されている箇所がある。

 

サムエル記を見て初めてわかる事だが、黙示録に出て来る「雷」という言葉を通して、ずっと昔のサムエル記も、「王を求める悪」という事に関して、実は黙示録が語っている、そう読める。  なので、黙示録というのは、あらゆるクリスチャンの不正とか、曲がった道とか、反抗とか、また教会のあらゆる変質とか、背教とか、こういう事に関しての、神の怒り、罰、災いに関して書かれている。

 

ここでは、「王を求める」という事に関しての神の怒りとかを、黙示録の中で、「雷」という言葉を通して、暗示されている。明示はされていない。

 

またこれも、黙示録19章の6節で書いてあるように、「われらの神である主は王となられた。」

 

という言葉も暗示的。  それは、その時に至るまで、人間の王が、あらゆる形で、キリスト教会を支配し、民は、神に聞き従うよりは、人の王に聞き従って、その結果、道を間違えたり、

 

惑わされたり、違うモノを掴んでしまうという問題。

 

そういった事柄が、「王」という言葉を通して暗示されている。ここは見て行きたい。

 

サムエル書をよく読んでて解る事は、その時サムエルが、「あなた方が王を選んで悪を行なったと」言ったが、具体的に、その時民が選んだのは、サウル。

 

ちなみに新約ではサウロ(後のパウロ)。 サウロは、クリスチャンを迫害している。

 

サウル王もダビデを迫害している。  ここが似ている。

 

サウル王は、王として立てられた。

 

最初は謙虚な青年に見えた。

 

しかし、後に傲慢になってきていた。

 

結局は、主の言葉に聞き従わなかったり、「聖絶せよ」と言ったものを聖絶しなかったり、祭司を皆殺しにしたり、神によって油注がれたダビデをどこまでも追い回した。これは、正しいクリスチャンに対する迫害の型と思える。

 

そういう意味で、最初の王サウルが、すでに災いなので、黙示録の時代に、暗示されている事、

 

それは、「王」が災いとなる」

 

王は、言わばリーダー。  そういった事が、黙示録の時代に起きて来る。

 

それらが暗示されている事を覚えておく。

 

「王」に関して、

 

 

 

黙示録

 

16:13また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。

 

16:14彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。

 

 

 

16:16こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。

 

 

 

16:18すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。

 

 

 

「すると、いなずまと声と雷鳴があり、」と書いてある。

 

ここでも「雷鳴」と出て来ている。

 

黙示録の時代には、「王」が、やはり、明らかに、神、キリストに逆らっている。

 

だから王たちは、14節で、「彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」

 

この王たちは、悪霊に導かれている。

 

「竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来る」

 

だから、黙示録の日の王を通しての災い。

 

「王」は、キリスト教会のリーダーを指している。

 

サウル王は旧約の神の民のトップ。

 

同じように、新約における王とは、教会のトップ、教団のリーダー、監督とか、そういった人達。 そういった人々が災いになって、汚れた霊に惑わされて行く。

 

おかしな教えに引っ張られて行ってしまう。

 

それが「王」に関連しての災い。

 

なので、黙示録は、「雷鳴」という言葉を通し、ハルマゲドンのところを見ても解るように、

 

色んな教会の災いに関して書いてある。

 

1つは、キリスト教会の王(リーダー)達が惑わされ、違う方向へ行ってしまうという、そういう災いについて書いてある。

 

それを通して我々はどうしたら良いのか。

 

1つ理解できる事は、やはり、人に聞き従うより、神に聞き従うという事。

 

何でもかんでも教会のリーダーとぶつかれとか、教団のトップが「右へ行け」といえば左に行くとか、そういう事ではない。

 

ただ、そういうリーダーが惑わせられる環境に対して、黙示録は明らかに暗示しているので、

 

そういったところを理解して行きたいと感じる。

 

残念な事だけれども、今の時代は、教団のトップが、災いになったり、キリスト教会のトップに盲目的に従って行く時に、災いに入る可能性がある。

 

我々は、もし違っている場合は、それはどこかで、主によって、そういった事を正していただくべき。

 

もし主が個別に語られたら、やはり、王を選ぶという事ではなくて、主の声に聞き従った方が

 

恵みを受けると思う。

 

レムナントであらゆる、主の憐れみで啓示が開かれているけれども、「アメリカは獣の国」だとか、「7年の契約」、反キリストの契約だとか、宮の崩壊とか、あらゆる真理が開かれているが、これも結局は人を王とするか、神を王とするか、区分しなければならない。

 

そういう意味で、黙示録の時代というのは、誰も彼も大なり小なり、人間の王と、神の言われる事と、違ってなければよいが、もし違っていれば、何を選ぶべきか、サムエル記で、結構厳しい事を言っているが、それは、やはり意味のある事。

 

あの時の悪は、世の終わりの時、もっと倍化して、世界中のクリスチャンがそういった失敗やら、結局人の王を王としていまい、神を王としないために、惑わしに入るので、書かれている事に意味があるので、ここで書かれている「雷」という言葉を通しての王に関する、悪、罪とか、そういった事に関しても注意を払って行きたい。

 

 

 

19:7私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

 

 

 

ここで見たい事は、小羊の婚姻という事。

 

小羊とは、イエス・キリストの事。

 

ただ、イエス・キリストに関しては、いろんな呼称がある。

 

ユダ族の獅子とか。

 

ここでは小羊という言葉が使われているので、小羊は、小羊で意味のある言葉なので、「小羊」という言葉を通して言っている事も見たい。

 

「小羊」が、どういう意味合いで使われているか、

 

 

 

5:12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

 

 

 

ここで、小羊について、説明がついている。

 

それは、「ほふられた」と書いてある。

 

屠るとはねいのちを失うという事。

 

キリストはまさに、神の御心に従い、多くの人の贖いの為に、自分の身を犠牲にした。

 

そして、「小羊」で有名なのは、過ぎ越しの祭で、小羊が殺されて、その血を鴨居、戸口に塗った事。

 

ひとつ、聖書が暗示している事を見て行きたい。ただそれが、自分の意にそぐうかどうかは別の問題。 どうしても、このように語られているの様に見えるというのは、一応メッセージにあたっているので、エレミヤ牧師としては、責任範囲で話したい。

 

絶対に合っているかは、分からないが、黙示録の5章を見て解るように、小羊という事を通して言われている事は、神の御言葉の為に、いのちを失うという意味合い。

 

別の言葉では、「殉教」

 

全ての事を確実に言えるわけではないが、黙示録の197節「小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」と言った時に、どうも、小羊の花嫁になる人も、「殉教者」である可能性がある。

 

殉教者が大いに、小羊の花嫁になる可能性がある。

 

小羊の王の役割は、「ほふられたまいし小羊」というように、やはり、神の御心の中で自分のいのちを失うという事が言われている。屠られるとは、殺されるという事。

 

「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」というように、そういう意味では、黙示録の価値判断とか、尊く言われているのは、少なくとも人間の価値判断とは違う。

 

それは明らかに、殉教に関して、重い栄光を与えているという事柄がある。

 

御言葉が暗示している範囲は語りたい。

 

「一粒の麦が、もし地に落ちて死なないなら、それは一粒のままである。しかしもし死ねば、豊かな実を結ぶようになる」と書いてあるように、そういった意味合いという事は、聖書に合って、語られている事があるので、そのあたりは見ておきたい。

 

「もし死ねば」というのは、一面は殉教の死の事を語っていると思う。

 

聖書の価値観と人間の価値観は違う。

 

だから、イエス・キリストの死も、人間的には、もったえない死。

 

しかし、聖書の価値観は違う。「もし死ねば、豊かに実を結ぶ」

 

それが実は得。   そういう価値観は、一応覚えて行きたい。

 

人間の価値観と、神の価値観は、かなり違う。

 

197節で、「婚姻」という言葉が出て来るので、見て行きたい。

 

「花嫁は用意ができた」と書いてある。

 

まず「用意」という言葉を見たい。

 

ここで使われている、ギリシャ語で「用意」という言葉に関して、

 

 

 

ルカ

 

3:4そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。

 

 

 

ここにある「用意」が、同じ言葉。

 

先程の花嫁の婚姻の「用意」が出来た。これと同じ。

 

 

 

3:5すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。

 

3:6こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」

 

 

 

書いてある様に、これはバプテスマのヨハネの事。

 

ここで同じ言葉が使われている様に、ここでは我々が花嫁として、キリストの花嫁となるべく「用意」が整う時、こういう意味でも語っている可能性があると思う。

 

主の道を「用意」する。

 

「主の通られる道を、真っ直ぐにせよ」という事。

 

「真っ直ぐにせよ」という事は、「曲がっていた」という事。

 

そういう意味で、これは、主イエス・キリストの初降臨の時に関して、バプテスマのヨハネは、こう言っていたが、再臨のキリストに備える時にも、我々は本当に用意をして行くならば、曲がった道を真っ直ぐにするというのが大事。

 

今のキリスト教会は、我々の見間違いでなければ、「曲がって」いる。

 

特にアメリカが曲がっている。「同性愛が正しい」とまで言っている。

 

全く曲がった教理が先頭切って歩いている。

 

しかし我々は、正しく真っ直ぐに語って行く。これが花嫁の「用意」という事を覚えておいておきたい。

 

5節で、「すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。」

 

「谷」とは、低い所。 道徳的に低いとか、そういったものがうずめられる。

 

「すべての山と丘とは低くされ」

 

「山と丘」は、高すぎる。    高ぶっていて自分の力に頼るとか。そういうのは低くなって主に頼る。

 

「曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。」

 

きちんと歩まず、道が凸凹して転びそうなのは、平らにされる。

 

それが、他でもない、イエス・キリストの初降臨に関して書かれていたが、再臨のイエス・キリストの来臨に関しても、やはり同じ事が言える。

 

それを正しく行なった人が、他でもない、キリストにあって用意の出来た花嫁。

 

こう言うポイントは、覚えておく。

 

「婚姻」について見たい。

 

「小羊の婚姻の時が来たからである」

 

「婚姻」という言葉が、黙示録の197節に書いてあるが、「婚姻」という言葉は、聖書の他の箇所でも使われている。

 

 

 

マタイ

 

22:1イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。

 

22:2「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。

 

 

 

この結婚という言葉がまさに、「婚姻」と同じギリシャ語が使われている。

 

ここに書いてある喩えは、「小羊の婚姻」という「婚姻」という言葉を説明する箇所だと思う。

 

 

 

22:4それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』

 

22:5ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、

 

22:6そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。

 

22:7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。 

 

22:8そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。

 

22:9だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』

 

22:10それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

 

22:11ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。

 

22:12そこで、王は言った。『{友よ。}あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

 

22:13そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。

 

22:14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

 

 

 

これから、黙示録に書いてある、小羊の婚姻の事が書いてある。

 

同じ「婚姻」という言葉が、今の喩えで使われているので、小羊の婚姻の時と言うのは、今ここに書いてある喩えが実現している。 王が招待しても誰も来ないという可能性も大いにある。なので、もちろん、小羊の花嫁として呼ばれた人たちは、花嫁になるのだが、「婚姻」という事で、この喩えの語っている事は、前もって神が招待した人達は、それに与る事が無いという皮肉な事が起こる。

 

マタイ222節で「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」

 

王は、神ご自身。 王子とは、花婿であるキリスト。

 

キリストは、花婿として来られた。 しかし、結婚は成立しなかった。

 

 

 

22:3王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。22:4それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』 

 

22:5ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、

 

22:6そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。

 

これは、イエス・キリストの初降臨の時にも実現した。

 

というのは、まさに、預言されたメシアとして、キリストは来られた。

 

旧約聖書の中で、あらゆる預言がナザレのイエスに成就した。

 

その時神の民が、喜んで婚姻の席に来たかというと、律法学者、パリサイ人らは拒否した。

 

「あんな者は本物ではない」と。最後には、イエス様を逮捕して死刑に追いやった。

 

「王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」

 

 バプテスマのヨハネも、首を切られて殺された。

 

なので、福音書で語っている事は、神が当初呼ばれた婚姻は成立しなかった。

 

キリストはエルサレムに入場した。花婿として入場したから、結婚式が成立したかというと、

 

入場した時は群衆はまだ「ダビデの子にホサナ」と言っていたが、1週間もしないうちに、「あいつは偽物だ」という結論になって、群衆は怒り狂って、「十字架につけろ」と叫んだ。

 

その声が勝り、十字架についた。

 

そういう意味で、この喩えは成就している。

 

当初呼んでいた人達は、みんなキリストを拒否した。

 

その後、王は怒って、

 

 

 

22:7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。

 

 

 

この事も西暦70年に成就している。

 

ローマによって、エルサレムにいた人たちは、1人残らず殺されてしまった。

 

なので、神の書かれた喩えというのは、ただの物語だとか、おとぎ話ではない。

 

必ず実現するという事。

 

更にもう1つの事が言える。

 

それは、初降臨の時に成就した事は、再臨のイエス・キリストの時、再び成就する可能性がある。

 

 

 

22:8そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。

 

22:9だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』

 

22:10それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

 

 

 

この事も、キリストの初降臨の時も成就した。

 

ユダヤ人が福音を受け入れなかったので、異邦人に行った。

 

パウロが、異邦人の所に使徒としていった時に、多くの異邦人がキリストを受け入れた。

 

これで一応結婚は成立した。

 

イスラエル、ユダの民は、残念ながら招待に与れなかった。

 

1つは、歴史的事実だが、こちらの理解が間違いでなければ、再度成就される可能性がある。

 

今のクリスチャンは危ないのではないかと思う。

 

「艱難前携挙」「クリスチャンと名がつけばみな大丈夫」とか。

 

また、多くの惑わされているアメリカのクリスチャンは、「神は寛容だから、同性愛もOKでアーメン」ちっともアーメンではないが。

 

だから危ない可能性がある。

 

危惧している事がある。

 

大逆転が再度起きるのではないかと。

 

ここは、そういう事を語っている箇所。

 

キリスト初降臨の時、当初呼ばれた人たちはダメだった。

 

今のクリスチャンは危ないような気がする。

 

あまりにもクリスチャンの耳が鈍いので、「艱難前は間違えだ」と言っても、聞く耳なかったり、レムナントは、警告のニュースレターをいろいろな教会に送ったが、「もう送るな」「迷惑だ」とか、危ない・・・。

 

再度起きそうな気がする。

 

というのは黙示録11章には、2人の預言者が都で殺されているから。

 

この言葉の成就。

 

 

 

マタイ

 

22:6そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。

 

 

 

黙示録

 

11:8彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

 

 

再現するという事。  「大きな都」は明らかに背教の教会。

 

そういう意味で、今のクリスチャンは危ない気がする。

 

レムナントも何回かセミナーをやったが、ろくに真理を見ていない気がする。

 

もう1つは

 

 

 

マタイ

 

22:11ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。

 

22:12そこで、王は言った。『{友よ。}あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

 

22:13そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。

 

22:14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

 

 

 

「礼服」と書いてあるが、KJVでは「結婚式の服」と書かれている。

 

折角は行っても、礼服を着ていないと追い出されると、ここには書いてある。

 

これも学ばなければならないと思う。

 

 

 

黙示録

 

3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 

3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

 

 

同じ「服」という言葉が使われている。

 

ここでは衣を汚さなかった者がいるが、明らかに、「服」という物を通して、「義」とか「正しい歩み」とか、罪から離れるとか、そういう事を書かれているのだと思う。

 

こういったところを正しく守って行って、それをもって婚姻が成立する者と思っていただきたい。

 

「婚姻」という事にかんして、もう一箇所、花嫁、花婿に関しての箇所があるので、そこも一緒に見て行きたいと思う。

 

 

 

マタイ

 

25:1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

 

25:2そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

 

25:3愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

 

25:4賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

 

25:5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

 

25:6ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。

 

25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

 

25:8ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

 

25:9しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

 

25:10そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

 

25:11そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。 

 

25:12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

 

 

 

ここでの学びというのは、結婚が成立する、5人の賢い娘もいるが、結婚が成立しない、愚かな娘達もいる。

 

我々も、愚かな娘に分類されてしまうかも知れないので、あまり楽観的にならず、そういった事も見て行きたいと思う。

 

愚かな娘の方が問題だが、愚かな娘の問題は何かというと、論点は1つしかない。

 

油があるか無いか。 油は明らかに聖霊に関してのたとえ。

 

つまり、聖霊を持つクリスチャンと、持たないクリスチャンがいる。

 

聖霊を持っていないクリスチャン(そういう事はあり得る)が、ラオデキヤの問題点から考えると、聖霊らしきものを持っている。しかも、そこらのクリスチャンよりもずっと富んで見えるし、賜物も富んでいるように見える。癒しだとか、預言とか、あらゆる賜物に富んでいる。

 

しかしそれは本物じゃないので、神の前では、みじめで裸で、貧しい者に過ぎないという事。キツネに化かされ、木の葉をお金だと騙されて喜んでいる様なもの。

 

1番の問題というのは、聖霊であろうと、悪霊であろうと、預言、癒しの賜物などがあればいいではないかという考えはあるかも知れないが、1番重大なポイントとして、贖いが無いという事。

 

 

 

25:9しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

 

 

 

買ったり売ったりは、贖いに関しての喩え。

 

だから、買えないという事。  聖霊の油が無いので、贖いが成立しない。

 

罪から贖われないという事。

 

聖霊の代わりに悪霊の賜物に魅かれて、悪霊を受けてしまった人の問題とは、最も尊い罪の贖いが消えてしまうという事。大変な事。

 

ここでも「買う」と、贖いに関連した言葉が出て来る。

 

こういったところをよく見て、そして、婚姻に関しての喩えを理解して行きたい。

 

大きな問題。 すでに多くのクリスチャンは惑わされているかも知れないし、終末の問題は、聖霊の代わりに悪霊を掴んでしまうという事。 すると贖いが成立しない。契約も成立しない。

 

だから、惑わされず、惑わされることが無いように、正しくこの事を見て行きたい。