ヨハネの黙示録20章10節~12節            2017.5.7

 

 

 

黙示録

 

20:10そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

 

 

 

火と硫黄との池。

 

後の世の運命というのは、この世の人は間違えて、「無」になるとか言うけれども、その様な事は決してない。

 

この20章を読む限りは、「いのちの書に名が記されていない者は皆、火の池に投げ込まれる。

 

これが第二の死である」と書いてあるので、火の池は現実。

 

決してそのような所に入ることの無いような歩みをしていく事が、今の時代には、最も大事な事と思う。

 

間違っても、サタンや獣みたいに火の池に入らないという事を、求めて行くのがベストだと思うので、注意すべき。

 

明確な事は、いのちの書に名が記されているなら、火の池どころか、天国へ入って行くので、

 

ここを堅く守って行きたい。

 

10節を見て見ると、ここにいるのは、悪魔、獣、にせ預言者。

 

と、いう事は、サタン(悪魔)は自分の時の短いのを知っている故に、経めぐる獅子の様に、あらゆる人を食い尽くそうと行動している。

 

サタンは無意味に経めぐっているのではない。 サタンは賢いので、結構成功してしまう。

 

サタンが火の池に入るという事は、サタンに惑わされた人も入ってしまうという事。

 

進化論では、死後「無」になると言っているが、それは惑わし。

 

サタンから来た惑わしを、すっかり信じ込んで、「人間は偶然にできた」とか、「進化論は正しい」などと言う人は、火の池に入る可能性がある。

 

クリスチャンであっても、「私は、キリスト教信仰と進化論を両方とも信じているが、ここには全く矛盾は無い」などと言っている人もいる。「矛盾は無い」・・・否!!   大あり。

 

「信仰と進化論に矛盾は無い」とするような主張をする者は惑わされているので、やはり火の池に入ってしまう恐れがある。

 

もう1つは、「獣」も入るという事。

 

獣は、「獣の国」なので、獣の惑わしに入る人も火の池に入る可能性がある。

 

「同性愛は正しい」などと、アメリカは言い出しているが、これに引っかかる人(クリスチャンも)は危ない。

 

もう1つは「にせ預言者」

 

にせ預言者は、クリスチャンと無関係ではない。

 

ペテロの手紙に書いてある。

 

「イスラエルの中にはにせ預言者が出た。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになった。」

 

旧約のにせ預言者は、新約(今の)のにせ教師、すなわち、間違えた教師が、間違えた教理を語る。  なので、我々が、たとえ毎週教会に通っていたとしても、にせ預言者、インチキな教えが、牧師、教師が語り、それに引っかかるなら、火の池に入ってしまう可能性も覚えておくべき。   イエス様も、「わざわいなるかな偽善なるかな律法学者、パリサイ人。あなたがたは、自分も天の御国に入らず、あなた方に従って来る人をも入らせようとしない」と。

 

聞いている人も、「間違えて」しまう。

 

そして、「あなたがたは、世界を経めぐり歩いて、1人の改宗者を得たら、その人を自分の倍勝るゲヘナ(地獄)の子にする。」    にせ教師はこういう者である。

 

決して他人事ではない。

 

これは、近未来の事だから、にせ預言者が出て来るという事は、クリスチャンと関係がある。

 

にせ仏は仏教と関係があるが、にせ預言者はキリスト教徒関係がある。

 

今で言うなら、間違った教理を言う、教師、牧師、教える人々。

 

「艱難前に携挙がある」とか、「クリスチャンと名がつけば滅びることは無い」など、耳にやさしい、しかし滅びに近い教え。

 

にせ予言者も、火の池にいるのだから、惑わされた人も入ってしまう可能性がある。

 

こういったところは理解しなければならない。

 

にせ預言者は単体で存在しているわけではない。

 

サタン、悪魔も単体で存在しているのではない。

 

何を言っているのかと言うと、悪魔もいるし、悪魔に惑わされた人もいるという事。

 

にせ預言者は、今で言う、教師であり、牧師。

 

惑わされるクリスチャンがいる。

 

しかも、たくさんいる。

 

「艱難前携挙」など、ほとんどのクリスチャンが信じてしまっている。

 

これは、にせ預言者の教えであり、すなわちにせ教師の教え。 いつわりの教え。

 

しかしこれは1つの例に過ぎない。

 

だから、他人事ではない。

 

「獣も、にせ預言者もいる所」という時に、これに類した人々も入る、というニュアンスを感じる。

 

「永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」 これはいやだ。

 

1日でも嫌だ。

 

 

 

20:11また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

 

 

 

「地も天もその御前から逃げ去って、」  KJVでは「過ぎ去って」と書いてある。

 

これは明らかに、新約聖書の言葉と関係している。

 

 

 

マタイ

 

5:17わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 

5:18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 

 

 

ここに書いてあるように、「天地が滅びうせ」(日本語は少し違った感じがする)

 

KJVでは、「過ぎ去る」というニュアンスがある。

 

だから、先ほどの黙示録の言葉と対応している。

 

ここマタイの福音書では、「天地が過ぎ去る」という事と関連して、「律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」と書いてある。

 

喩えもある。

 

「天地」・・・天地は、何を喩えるかと言うと、教会を喩えている。何故なら、アブラハムの子孫は、「天地」に住む。

 

子孫とは、他でもないイスラエル。新約のイスラエルである教会、クリスチャンとも関係するが、それに関して主はこう言われた。

 

「あなたの子孫は、天の星、地の砂の様になる」

 

だから、「天の星」が、イスラエル、クリスチャンの喩え。

 

また、「地の砂」が、クリスチャンの喩え。

 

天は、星を入れる事の喩えとして、教会の喩え。

 

星は天にある。

 

また、「地」は砂を置くところとして、これも教会の喩え。

 

言わんとしている事は、神の言葉が、一点一画でも過ぎ去るよりは、教会が過ぎ去る事が簡単。

 

この様にマタイでは預言されたけれど、成就している事を見る。

 

 

 

黙示録

 

20:11また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

 

 

 

これは、「過ぎ去る」という意味合い。

 

ここで、あってはならない事が成就している。

 

天地が過ぎ去ってしまっているという事。

 

これは、御言葉の一点一画という言葉と関係しているという事。

 

どの様な事が起きているかと言うと、要は、起きて来る事は、教会が、決して変えてはいけない一点一画を、どんどん過ぎ去らせたり、改ざんしたり、変えて行こうとする。

 

ところが、逆に、御言葉を変えようとしたのだが、吹き飛ばされて、過ぎ去ってしまったという事を語っている。

 

今アメリカで起きている事というのは、聖書翻訳などで起きている事は、まさにこの事。

 

アメリカでは、いろいろな聖書の訳が出ているけれど、インチキくさい訳がいっぱい出ている。

 

フェミニストが訳した、「父なる神!? 男だけが神だなんて許せない」ようなモノだったり、

 

「父および母なる神と書け」と言ってみたり、フェミニズム神学と言うが、このような事を

 

真面目に言っている。

 

同性愛を容認したり(ただ男が好きなのは良い。犯罪的な同性愛はダメなど)

 

こういった屁理屈を言って、聖書をどんどん改ざんしようとしている。

 

しかし、御言葉によるならば、聖書の御言葉の一点一画が変わるくらいなら、天地(教会)が過ぎ去る事の方が早いというので、(教会が過ぎ去って、跡形も無くなったと書いてある)教会が消滅してしまうという。

 

別の言葉で言うならば、教会が、教会ならざるものになってしまう。

 

さらに別の言葉で言うなら、「宮の崩壊」

 

宮の土台である、使徒、預言者の知恵、そして、隅のかしら石であるイエス・キリストの贖い、

 

そういった教理もみな崩壊してしまう。

 

教会が消滅してしまう。その事が書かれている。

 

ここに書いてある事の裏は、近未来に起きて来る事。

 

どんどんキリスト教会は、御言葉を改ざんしたり、自分の都合に合わせて、勝手に解釈するという事がまかり通って来るという事。

 

もうすでにそうなりつつある。

 

しかし、結果として起きて来るのは、御言葉の成就。

 

律法の一点一画が過ぎ去るよりは、天地が過ぎ去る方が早いという事。だから、改ざんしようとしている教会がそのようにして、消滅してしまったり、崩壊してしまったり、そういう日が来るという、その事を喩えて言っているのが、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」

 

だから、聖書は、ペテロの手紙に、「私的解釈をしてはいけない」・・これも変な訳だが、すなわち、そのテキストのみから解釈してはならないという事。

 

だから、ここ、黙示録120節も、他の御言葉と参照すると見えて来る。

 

マタイ5章の、律法の一点一画が過ぎ去るよりは、天地が過ぎ去る方が早いという事。

 

だから、合ってはならない事が、これからキリスト教会に起きて来る。

 

決して改ざんしてはいけない事を、次々と、クリスチャンが変えて、神の言葉を恐れる事も、神ご自身をも恐れなくなるような時代が来つつあるし、どんどんそれが、成就する。

 

結果、教会が、教会ならざるものに変質してしまう。

 

神の御前には、教会は無くなってしまったり、消え去ってしまうような日が来るという事。

 

なので、黙示録は一貫して教会の変質を語っている。

 

これを、読まない人は、盲目であり、盲人であると理解出来る。

 

「艱難前携挙説」を支持する人はまさにそう。

 

「教会は全く正しく、問題は無いから、神の前に上げられる・・」・・とてもそうは見られないが。  全然根本的に、見方などが違う。

 

始めの一歩から「艱難前」を言う人は、黙示録の見方が全く違う。

 

黒が白く見えたり、+が-に見えたり、右が左に見えたり、全く根本的に間違えているので、

 

話にならない。黙示録が解らないと考えた方が正しいと思う。

 

たとえ人から嫌われても、語って行く。

 

 

 

20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

 

 

ここには、死後の事が書いてある。

 

 

 

へブル書

 

9:27そして、人間には、一度死ぬ事と死後にさばきを受ける事が定まっているように、

 

 

 

と書いてある。だから、人間には2つの事が定まっている。

 

これは避けられない。

 

1つは死ぬ事、もう1つは、死後にさばきを受ける事。

 

この世の人達は、「人間死んだら無になる」と、「死後にさばきを受ける事が定まっている」と書いてある。

 

どんな人でも神の前に裁きの座に立つが、それがまさに、黙示録の今の箇所。

 

 

 

20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

 

 

ここに書いてあるのは、まさに死後のさばき。

 

「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。」

 

これが、どんな人も、アダムもイブも、ダビデもモーセも、パウロもペテロも受ける、「死後のさばき」 裁判。

 

「数々の書物が開かれた。」 「別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。」死後の裁きも、区分は「行ない」

 

いのちの書に名が記されているなら、天の御国に入れるという事。

 

名が記されてない人は、「全て火の池に入る」と書いてある。

 

だから、死後の裁きは、単純至極。  例外は無い。  2つに1つしかない。

 

いのちの書に名が記されている事は、必須。

 

いのちの書に名が記されている事は、具体的には罪が赦されてるという事。

 

クリスチャンであれば、キリストの血によって贖いを受けいのちの書に名が記される。

 

キリスト以前の人は、旧約聖書に、子牛、山羊、雄牛の血をもって、「その人の罪が赦される」

 

とかいてあるから、罪を赦されて、いのちの書に名が記される。

 

旧約の贖いは有効。

 

しかし、それに勝って、威力を発揮するのが、キリストの血。

 

我々は、この血を正しく持っている限りは、問題は無い。

 

ただ、このような明確な区分があるので、理解しなければならない。

 

我々は、いのちの書に名が記され、黒々となっているのが良い。

 

はっきりと、明確に書かれているのが良い。

 

12節の後半には、「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」

 

クリスチャンである我々も、この事には気を付けるべき。

 

「行ないと信仰」は微妙な問題。

 

行ないで失敗するクリスチャンが出て来ると思う。

 

名がある筈なのに無い。 というのは、

 

 

 

3:1また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

 

 

 

「行ない」に関して言われている。

 

「死」は滅びに近い。  つまりは、火の池が近いという事。

 

 

 

3:2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

 

 

 

行ないを、サルデス(プロテスタントらしい)は、指摘されている。

 

我々も、プロテスタントに属しているので、行ないに関しては気を付けるべき。

 

しかも、サルデスというのは、微妙に危ない感じがする。

 

 

 

3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

 

 

例外的に、消されない。

 

と、いうことは、他の人はバンバン消されている可能性がある。

 

主も言われている。

 

良きサマリヤ人のところで、律法学者、パリサイ人が、「どの様な行いをすれば永遠のいのちに入れますか」と。

 

イエス様が「聖書にどの様に書かれているか」

 

彼らは、「あなたの主である神を愛しなさい」とか、「あなたの隣人をあなた自身の様に愛しなさい」

 

そして、「それを行ないなさい。そうすれば永遠のいのちを得ます」と言われた。

 

「隣人とは何ですか」と聞いたら、強盗に襲われ、半殺しにされた人について良きサマリヤ人の話をした。   レビ人や祭司は、被害者を見て見ぬふりをして通り過ぎた。

 

良きサマリヤ人だけが、被害者を助けた。

 

「あなたの隣人をあなた自身の様に愛しなさい」という事を実行し、行なったのは誰かと言った時に、主は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われた。

 

我々が、祭司や、律法学者のような歩みをする時、「見て見ぬふりをする」という行ないになってしまう。

 

プロテスタントは、「行ないが弱い」という事を明らかに神によって指摘されている。

 

「行ないによってさばかれる」とか、いのちの書から名が消される可能性も書かれているので、

 

だから、我々は、大事を取って、行ないをマメにして行きたいと思う。

 

「義は信仰による、意地でも行ないはしない」という人もいる。

 

某神学校で、「福音の総合理解をすべきであって、良きサマリヤ人の様に、行いをしてはいけない」という事がある。 これは危ない。

 

屁理屈を言ってはダメ。

 

「福音の総合理解」には断固反対する。

 

 

 

20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

 

 

あくまで、「自分の行ないに応じて裁かれた」と書いてある。

 

「自分の信仰」ではない。

 

何かと黙示録には、「行ない」が出て来る。

 

「信仰」は出て来ない。

 

だから、我々は、その様に書いてあるので、腰を軽くして、御心を行っていくクリスチャン、

 

教会となって行きたい。

 

腰を重くしてはダメ。

 

我々は、クリスチャンとしての歩みとしても、示されたり、言われたり、語られたら行なうという習慣を身に着けて行くのが良いと思う。

 

これは、さばきの座に立った時、大いに意味のあるものになって行くと思う。

 

逆に、何も行わず、やった気になって行くような歩みでは、この日、危ない。

 

「自分の行ないに応じて裁かれた」と書いてあるから。

 

行いを習慣づけて行こうと思う。

 

1つは、どんな人も死後、さばきの座に立つという事。

 

さばきの結果というのは、非常に単純至極。

 

火の池に入るか、永遠のいのちに入るか。

 

いのちの書に名が記されていない者はみな、火の池に投げ込まれる。

 

2つに1つ。

 

「行い」に関してははっきり言われている。

 

またサルデスは、明らかに指摘されている。

 

「あなたは生きているとされているが、実は死んでいる」

 

サルデスの言葉は非常に微妙だと思う。

 

「わたしはあなたの行ないを知っている」と。

 

「あなたは生きているとされているが、実は死んでいる」

 

「わたしはあなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」

 

この様なサルデスは、さばきの座に立った時、どちら側へ行くだろうか。

 

いのちの書で、天の御国に入るか、火の池か。

 

サルデスは教会。

 

この教会は危ないと思う。

 

クリスチャンでも危ない人は、絶対にいる。

 

しかし、危なくても悔い改めて、方向転換すれば良い。  頑なになってはいけない。

 

屁理屈を言っても仕方がない。

 

今は、恵みの日、救いの日だが、この座に立った時は、もう間に合わない。

 

今、我々は、歩みを正していくべきところは、正して行かなければならない。

 

裁きの座に立った時には遅すぎる。

 

福音書に、「あなたを訴える者と道を行く時は、道にいる間に、その人と仲直りしなさい」

 

これは我々の人生の事を言っている。

 

道にいる間に和解すべき。

 

サルデスは、明らかに「行ない」が弱かったり、口先だけであり、危ない教会。

 

これは、反面教師。

 

良い意味ではなく、ああなってはいけないという教師。

 

サルデスの歩みをしないように。これは、悪い、間違い、失敗する例だという事である事を理解し、正しく、主の言われた方向を歩んで行くのが正しいと思う。