ヨハネの黙示録3章1~6          2015.11.1

 

3:1また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

 

サルデスに関しての学びをしていきたい。

レムナントも、プロテスタントの教会。

七つの教会の中には、教会時代の全ての教会が、どこかに属している。

プロテスタントは、多くの人がサルデスではないかと言っている。

まさに、プロテスタントにいる、我々の教会に関して語られている事ではないか。

黙示録の七つの教会。

特にそうだが、聖書全般に言える事だが、言葉に意味合いがある。

時々出て来るカタカナ言葉というのは、大事である。

例えば、テアテラは、災いのにおいという意味。

残念ながら、日本語訳は、聖書の原語であるギリシャ語とはかなり遠い原語であり、しかも日本は、キリスト教の歴史が浅いので、キリスト教書店に行っても肝心な本が無い。

サルデスは、「赤いもの」

言葉の意味に関しても、インチキが横行している。

黙示録の中にも似たような箇所がある。

赤メノウ。 ギリシャ語では、サルデイン。

やはり似ている。

言葉の意味がわかると、その箇所の分全体が狭められ、よく分かるものになって来る。

聖書は、その箇所のみから解釈してはいけない。

あちらこちらから見よという意味。

例えば、「サルデス」と聞いたら、他の所から「赤い物」について考えるべき。

エソウは「赤い物」と呼ばれ、エドムである。エドムは赤い物。

エソウに関しては、ろくなことが言われていない。

聖書的にはエソウは失敗者。

一番の失敗は「赤い物」、長子の特権を引き換えにして、それを食べた。

それで、「赤い物」エドムと呼ばれた。

意味している事は、今の時代、2000年を経て、教会時代はかなり終わりに入っている。

黙示録は、さらにその先を見ている。

世の終わりの時、キリストの再臨時、サルデス=プロテスタントはどうなるかという視点で、サルデスという名前がついている。

今の時代の事。

プロテスタント(サルデス)は、最後に倒れる、最後に長子の特権を失うという事を言っている。

そういう意味ではサルデスは不吉な名前。

聖書は、赤裸々な事を語っている書であるが、唯一未来を正しく語っている書なので、やはり、

言っている事に耳を傾けるべき事。

キリスト教書店に行けば、気楽な事を書いてある本が多いが、それは、それらの著者が真実を見ていないので、そんなものを読んで、自己安心していても仕方がない。

プロテスタントにいる我々が、プロテスタントがどの様に歩んで行くという時に、やはり、この短いサルデスの中から、正しい教えを学んでいく。

プロテスタントは、我々が平均的なプロテスタントであるならば、必ず最後には、長子の特権を売り払うようになってしまう。

長子の特権を売り払うという事は、御国を継ぐ権利を売るという事。

それは、黙示録13章に書いてある、「その右の手か、額かに、獣のしるしをつける」かという言葉と適合する。

「獣のしるしをつける」というのは、神が十戒を与えられた時に、「これをあなたの額につけ、右の手につけなさい」と書いてあるように、神との契約と対応している。

これがまさに長子の特権。それを売り払う行為が、13章の、「その右の手か、額かに、獣のしるしをつける」、まさにエソウが本領を発揮している。

御言葉が連動している。

その未来が、今の時代に「獣のしるしをつける」・・・この中に大いにプロテスタントも入っている。

「小羊のような二本の角を持つ獣」というのは、キリスト教会が獣化するという事。

一本はカトリック。もう一本はプロテスタント。

見事に、長子の特権を売り払うようになる。

我々は真実に基づいて、備えをして行かなければならない。

日本においても、3.11の日、前日まで、静かな海岸だったが、あの日、大津波がやって来て、約2万人が亡くなった。

その事を前もって、誰かが予知して言ってもおそらく誰も信じない。

我々は、本当に起こる日に対しての対応をして行かなければならないが、同じ意味合いで、これから来るプロテスタントの災いに関しては、聖書の中ではっきり、予見、預言をしている。

多くのクリスチャンは、のほほんとしており、何一つ心配せず、能天気なのは、聖書を読めないからであり、封印が開かれていないから。

聖書を持っていないわけではない。

しかし、封印が開かれていないし、読んでいないという事がある。

我々はそうであってはいけない。

見るものを見て、基本的な警告を受けなければならない。

エソウが長子の特権を売り払って、後で泣いて求めても、それは覆らなかった。

そういう視点で見て行かなければならない。しかも長子の特権は、明らかに御国で受け継ぐ権利が関わって来るので、かなり深刻な問題。

これがサルデスの基本の基本。  名前を聞いただけで90%位分かって来る。

『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」

御霊は七つの教会にて働かれる。

七つの星は御使い。だから教会の中に御使いが働かれるという事は覚えておく。

ヤコブがまさに、教会に関して夢を見た。「恐るべきかなこの所、ここはまさに神の家だ、神はここにおられるのを知らなかった」と言った。

ヤコブが知らなかったように、多くのクリスチャンも、教会がまさに、御使いが上り下りをしているという箇所をあまり理解していない。

しかし、ヤコブの夢は正しい。祈りに答えて、御使いが上り下りしている。

そういう信仰を持って歩む。

「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」

サルデスは初めから倒れているが、問題がある。

サルデスがプロテスタントであるなら、プロテスタントの問題というのは、「行ない」

「生きているとされているが、実は死んでいる。」という問題。

罪にあって、それによって、罪とか死の問題。

要するに命に至っていない、という問題。

我々がプロテスタントにある場合には、このあたりは大きな問題。

名目は生きているとされている。

だからプロテスタントは、カトリックの誤りを正して、信仰の素晴らしい歩みに入って行く。

それで、キリスト教書店もそういう名目ですすんでいるが、神の目の前の現実、イエス・キリストの前の現実は、「生きている」とは名目に過ぎない。実際は「死んでいる」という問題。

つまり、罪や死に入ったままだという事。

我々がプロテスタントであるならば、大抵こういう状態だという事。

これは、ゆゆしき問題。

「生きている」とは永遠のいのちに通じる。  しかし、「死んでいる」者は、永遠の滅びに通じる。今の信仰生活において、生きているか死んでいるかはね天地の差が出て来るので、いのちの道に歩むことが出来るように、また、正しい道に歩むことが出来るように求めていく事。

死とか問題に対して、

 

ヨハネによる福音書

8:34イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

8:35奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。

8:36ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

 

とあるように、我々は、クリスチャン生活をして行く中で、罪の奴隷状態になって行く時に、キリストが天に用意された家を継ぐことは無い。

「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。」というように、いずれ家を追い出されてしまう。入るべき家に入れない。

「しかし、息子はいつまでもいます。」というように、真の神の子どもとして、自由な子供として歩んで行くならば、我々は、御国を相続し、天において住むべき家が与えられるという事が書かれている。

なので、「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」というように、我々は、クリスチャン生活の中で、どうしてもサタンの誘惑とか、罪の中に引っ張って行き、奴隷状態にするような色々な罪がある。

何が罪かは、心の中で、聖霊が語って下さる。

罪を行なってしまったら、悔い改めれば良い。

しかし、それをどこまでも行なって行くというのは、「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷」

だという事。 どんな罪か、個々の事は別として、ずっと教会に行き続けているけれども、ずっと罪を行なっているというのは、罪の奴隷状態。そこから脱しない限り、我々は入るべき御国に入れない。  「奴隷はいつまでも家にいるのではない」というのは喩えで書かれているが、

ようは、天の御国の家を継がないという事なので、この事は、心に留めておく。

サタンは、人を奴隷状態にしようとひっかけて来るが、そういう事から解放され、自由になるという事を神に求めて行く。それがまさに、サルデスで言う「生きている」。

名目も実際も「生きている」という事。これを是非、求めて行きたい。

あくまで奴隷状態にあると「死んだ者」であるので、永遠のいのちを継がない事になってしまう。

 

黙示録

3:2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

 

「目を覚ましなさい」というのは一つ。

「そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」

なので、サルデスというのは、あまり状態が良くないというのを覚えておく。

サルデスの大部分の人は「生きているとされているが、死にかけている。」

プロテスタントでも、そういう現状を現しているような感じがする。

聖書は、死にかけている人々を「力づけよ」と言っている。

「わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」

ここで、主は「行ない」に関連して言っている。

「全うされたとは見ていない。」との言葉のニュアンスは、完全を目指しているのかと思えるが、「全うされたとは見ていない。」とは、例えば学校の宿題で10ページを課されたのに8ページしかやっていない。そういう事ではないだろうか。

それは良くない。

そしてこれは、行ないに関連しての事。

サルデスの事に関しては、信仰の事が全く書いていない。

「行ない」の問題。

我々は聖書に戻らなければならない。

ルターに戻る必要は無い。

我々は、本当に死にかけている状態から、生き返るつもりならば、行ないを全うしなければならない。  学校の宿題を例えて言うなら、やっていない空白の部分を埋めなければならない。

全うし、やるべき事をやって行くと、本当に強められていく。

祈りや聖書の読み込みなど、言われた通りにやって行くなら変えられていく。

歩みが強められる。

自分の召しが分かるようになる。

行ないをきちんと全うして行けばの話。

「やる事が、あれもこれも手抜き」だと指摘されている。

やはり、「行ない」。

信仰が足りないなど全く書いていない。

明らかに、プロテスタントは惑わされた方向に来ている。

信仰、信仰と言いながら、聖書をろくに読まない。

聖書は、時間をさいて読まなければならない。

そして、なすべき奉仕をする。

そんなに難しい事ではない。

そうしたら、強まって行った。

言われた事をちゃんとやっているか、満たしているか。しかも「行ない」

ちゃんとやるべき事をやって行くという事。

 

3:3だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」

これは、プロテスタントの基本。

キリストを信じ、御言葉を守り、祈る。

それらを聞くだけではなく、守って、行なって行く。

だから、プロテスタント、サルデスに関しての叱責は、みな「行ない」

「信仰」という言葉は全く出てこない。   口先だけでやって行かないから、土台が据えられない。 また、「悔い改めなさい」とあるからそんな歩みではダメ。

「悔い改め」は方向転換という意味。

「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」

主の再臨が、「盗人のように来る」と言われている。

しかも、キリストの再臨が、サルデスの人々には分からないという、そういう状態になるということ。言わんとしている事とか、語りかけている事と言うのは、一つは、再臨に関しての教理とか、御言葉が盗まれてしまう。

「盗む」という言葉。 再臨に関して「盗人」と書いてある。

盗むという事は、私的解釈をせずに、他の箇所から見て行くならば、聖書にはよく、「みことばを盗む」という言葉が書かれている。

なので、言わんとしている事、暗示している事は、「再臨に関してのみ言葉が盗まれる」という事。 艱難前携挙等を信じた人は、結局分からない。

聖書に無い教理だから、キリストの再臨に関して勘違いしてしまう。

なので、「目を覚ましていなさい」というのは、他の箇所では、マタイの2443節で、「どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を覚ましていたでしょう」という所で使われている個所。 要するに、御言葉を盗む人達に関して、それをもってインチキな教理を持って来る人たちに対して、目を覚ましていよという事。

なので、レムナントがこの間学んだ学びは正しい。

インチキな教理が入ってきた時、目を覚ましていて「ああ! こいつは泥棒だ!」という感じ。

名前を言えば、JNダービー、スコフィールドなど。

これらは盗人。 「これを受け入れてはいけない!」というのが、目を覚ましている事であり、それをもってインチキな教理は受け入れないというのが正しい態度。

でも、残念ながらそういう事に目を凝らさずに、そのまま受け入れて行くという人は、どんどんおかしな教理に入って行く。  特にスコフィールドのチェーンバイブルは危ない。

 

3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 

サルデスには、例外的に、衣を汚さなかった人が幾人かいる。

「幾人」という言葉。

マタイ1718節で、いのちに至る門は狭いとか、その道も狭い、「見出す者はまれ」だと、その「まれ」だというのが、ここでいう「幾人」というのと同じ言葉。

本当に「まれ」である。

なので、サルデスの中で、(今の事だけを考えてはダメ。今はまだプロテスタントの中でも、地震は来ていない。まだ反キリストが君臨していない)揺れ動かしが来た時、「幾人」かが残る事になるかも知れない。

今、歩みを正していくのが正しい。

サルデスにいて、尚且つ、衣を汚さない人は、非常に「まれ」

我々は、プロテスタントにあって尚且つ、その日に命を救おうと思うなら、「まれ」な歩みをしなければならないという事。

「白い衣」、これは明らかに、「義」の衣。

白い衣は、明らかに義の衣なので、それをもって歩まなければならない。

白い衣は、福音書の中にある、変貌山。その衣が、この世のどんな布さらしによるものよりも白くなった。これは義の衣。 だから、いのちに入って行くならば、義を追い求めて行かなければならない。この事をサルデスは強調している。

衣を汚す人がいっぱいいる。だから、我々は、すでに正しく歩んでいるかもしれないが、神の義を追い求めて行きたい。それは我々自身のいのちを救う。

 

3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

勝利を得る者は、白い衣を得る。罪からも、どういった不義からも勝利を得て、白い衣を着る。

それが、いのちの書に直結する。

「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」

プロテスタントの問題点というのは、その衣を皆汚してしまうという事。

結局、不義に入って行ってしまう。

我々は、そのような教会にいる事を自覚し、義を追い求めて行く歩みをしていきたい。

そうすると、いのちの書から名前を消されることは無い。

聖書の概念というのは、いのちの書に名前がいったん載ったら、決してそれは消されないとは、全く書いていない。

正しくない人は、いのちの書から名を消される。

出エジプト記の32章の32節で、「もし、民が赦されないなら、私の名をあなたの書物から消してください」とモーセが言っている。

主は、「わたしに罪を犯す者は誰であってもわたしの書から名前を消す。」と答えられた。

いのちの書から名前を消すというのは、あってほしくは無いけれども、ある。

具体的には、そういう事が大量に起きる時が来る。黙示録13章の、「獣の印」をクリスチャンが受ける事。「獣の印」はクリスチャンに対してのもの。

右の手、額、これは按手の組み合わせ。

「獣の印」を受けると、神との契約が破棄されてしまう。

それは、自動的に、いのちの書から名が消されるという事。

神様は理不尽な事を突然するわけではないが、我々が、キリストを裏切り、「キリストは救い主ではない」などと言いだしたり、しかも反キリストの印(獣の印)までうけてしまったり、ダニエル書によれば、一週の間、固い契約を持つと書いてある。  反キリストとの契約。

固い契約とは、神様との契約を想定した上でのもの。

アブラハムが、神との永遠の契約を結んだ・・・そういう意味合いで、反キリストと契約を結んだ人というのは、自動的に永遠のいのちの契約から削除され、名を消されてしまう。

サルデスに書かれている事は、現時点ではまだすべては成就していない。

これから起きて来る、艱難時代に全面的に起きて来る事を、さらに先を見ている。

近未来に必ず成就して来る、恐るべきことを、淡々とサルデスの教会に関して書かれている。

なので、これらを警告として受ける。暗示されている。

いのちの書から名を消される人が大量に出て来る。

サルデスは不吉な教会。  長子の特権を売り払う。

我々が属しているプロテスタントの事のようなので、頭に置いておくべき。

「いのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」

この言葉も暗示的。その時いのちの書から名前を消される人というのは、キリストを明らかに否む。 人前で、そして反キリストの前で、「もうキリストなんか信じません」「あの人はインチキだと証明された事を理解しています」「これから反キリストに忠誠を誓います」

それが暗示されている。

これから我々は、残念な事に、艱難に入って行くだろうと思う。

御言葉に書かれているように、「私の名のゆえに、あなた方はすべての人から憎まれる」という事が、本当に成就する時が来る。

しかし、その時であっても、人前でキリストをどの様にするかという事を、今から我々は、心を定めて行った方が良い。何故なら、これが永遠のいのち、永遠の滅びの分かれ目になるから。

イエス様は「人前で言い表さない者を、父の御前に言い表さない」と言っている。

そういう日が来る。 だから、いのちの書から名前を消された人は、明らかに人前でキリストを否定する。

我々は、今の内から態度を曖昧としないで、はっきりさせた方が良い。

我々が思う事は、やはり、これらは色々な意味で艱難時代も含めた御言葉に感じるので、今までのレムナントの歩み通り、増々土台をかたいものにして行く。

艱難時代の備えとは、一番の備えは、やはり成功した人を見る事。

我々も、艱難時代に入って行く時に、模範的な人を目指す。

模範的な人は、イエス・キリスト。そして十二弟子。

十二弟子はなぜ艱難の中でも、ユダヤ教の会堂を追い出されるとか、ペテロみたいに「お前もイエスと一緒にいただろう」と言われたりして、逃げはしたものの、イスカリオテのユダの様に裏切ったわけでもない。彼らは(イスカリオテのユダは除く)、キリストに従って、あれもこれもして行ったからだと思う。

男の数だけで5000人の給食の時も行なって行ったし、また、最後の晩餐の時も、主に従って、

最後のゲッセマネの時も、祈りを持って、主を援護した。  途中寝てしまったが。

我々も同じだと思う。

やはり、艱難時代が来るといって逃げ出し、安全な所へ行くとか、3年半の間に隠れる穴は無いかとか、それはちょっと違う。

やはり、逆になすべき奉仕をして行くのが結局は、我々を守る。

なので、増々やって行こうと思う。

いままでもそうだった。 それによって、間違いのないような、道が見えて来た。

これからもやって行く。レムナントはそれが正しく思う。

なので、まっすぐ歩んでいる者にとっては、歩みは難しいものではない。

十二弟子はわりと普通に過ごしていた。

そして、入るべき所に入って行った。

主は自ら、最後の晩餐の時にちゃんと確約した。

「あなたがたのために場所を備えに行く」

しかし、誰にでもではなく、十一人の弟子たち、そういった人達のため。

模範に従って行けば恐るるに足りない。

 

3:6耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』