ヨハネの黙示録5章1~7 2015.11.29
5:1また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
黙示録の色々な聖書箇所というのは、かなり、旧約聖書の引用。
黙示録のこの箇所だけ読むと、読み過ごしてしまうが、旧約聖書を読んでいく時、隠された部分とか、暗示されている部分というのが見えて来る。
エゼキエル書
2:9そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。
2:10それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。
「表にも裏にも文字が書いてある」という言葉が、黙示録にも、エゼキエル書にも書いてあって、この事が強調されている。
その様なわけで、我々が、黙示録の文字を読んでいく時に、注意すべき大事な事は、「表の文字」を読むのと、それだけでなく、「裏の文字」をも読むという事。
黙示録だけでなく、聖書自体がそういう書。
表の文字だけ読んで、良しとするのではなく、裏の文字、暗示されている事柄があるので、それを読んで初めて分かる。
裏の文字というのは、例えば、マタイの24章で、主は宮の崩壊に関して語っておられる。
表の文字通りには、エルサレムの宮の崩壊であるが、現代すなわち終末の時代においては、エルサレムに宮は無い。 それどころかイスラム教の宮が建っている。
なので、エルサレムにユダヤ教の神殿が建つ可能性は無い。(神殿を立てる場所は決まっており、別の場所には建てられない)
だから、裏を読まなくてはならない。
我々は、裏は、宮としての「教会」の崩壊であると理解している。
その土台は、物理的な石とかではなく、使徒、預言者の教えであり、また、隅のかしら石はイエス・キリスト。 イエス・キリストの教え。
それらが崩壊する。 これが「表」を読む事、および、「裏」を読む事。
その様にして読んで初めて見えるものなので、その様な意味では、レムナントの方法が正しい。
我々はこの御言葉に沿って、「裏」を読もうとしている。
「裏」を読む事に徹する。 そうすれば真理が見えて来る。
「宮の崩壊」もしかり。
「エルサレムに第三神殿が建つ」などと言っている人は、「裏」が見えていない。
物理的な、人間的な事しか分かっていない。 そうであってはいけない。
「裏」も読めるように求めて行きたい。
もう一つは、エゼキエル2章の10節に書いてあるように、「それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。」
この文字を、表を読んでも、裏を読んでも、「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。」 これは事実。エゼキエルが読んだ書、また、この民に対して語られた運命。それはろくなものではなかった。
同じような、「表にも裏にも字が書いて」ある巻き物が、再度終末を語る黙示録の中に出て来る、「「哀歌と、嘆きと、悲しみ」が再現するという事。
だから、黙示録を読んでいって、そして我々がそれを通して「神の民」、「教会」に関しての、「哀歌と、嘆きと、悲しみ」を、我々が読むならば、これは正しい読み方。
ネガティブであり、暗いけれども、そういう問題ではない。
今のキリスト教会は、背教であり、全然頓珍漢な事を言っているので、終末の黙示録とかを読んで、明るい事を見て行く。不思議な事と思う。
「艱難の前に教会は挙げられるのでハッピー」などと言っている。
それは勘違い。 「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」とあるので、我々がそれを見て、悲しく思ったり、嘆きを持ったり、場合によっては涙が出たりと、これは悲しい事。
イエス様もエルサレムの崩壊の日を前もって見て、涙を流された様に、我々に黙示録の啓示を開かれて、「哀歌と、嘆きと、悲しみ」が出てきたら、これは正しい。
根拠のない希望を言ってしまうというのは、はっきり言って何も見ていないという事。
これは恥ずべき事。 性格の明るい暗いとかの問題ではない。
脳天気なことを言っている人達は、「読めない」という事だけ。
この章を読んで、その様に哀歌と嘆きと悲しみとを思ってその書を読むことが出来るなら、正しく読めている。そのような事を是非、見て行きたい。
黙示録
5:2また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。
5:3しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
5:4巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
巻き物の封印を解く時に、「ふさわしい」という言葉が使われている。
なのでここで言われている事は、封印を解くのにふさわしいものがいるという事。
2節でも「ふさわしい者はだれか」と言っている。
4節でも「ふさわしい者がだれも見つからなかった」とある。
9節では、「その封印を解くのにふさわしい方です」と書いてある。
「ふさわしい」という事柄が、一つの封印に関して言われているという事を覚えておく。
ふさわしい方が誰かというと、12節では、「彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、」
ここで、聖書が明確に語っている事は、封印を解くのにふさわしいという事と、ほふられた小羊という事が語られている。
イエス・キリストを表現するのも「王の王」という言い方もある。
また、「人の子」という言い方もある。 また、預言者として来られたという事もある。
そして、「祭司」と呼ぶ言い方もある。
しかしここでは「ほふられた小羊」という事が書かれている。
明らかにここは、殉教をさす表現。
なので、ここで「ふさわしい」という巻き物をイエス・キリストがふういんを解くのだけれど、
クリスチャンの中でも、この封印を解くのにふさわしい人と、そうでない人が明らかにいる。
最後まで封印が解かれない人も多数いる。
出来れば、その時に我々が、この封印を解くのにふさわしい者になって行きたい。
その時に明らかに聖書が語っている事は、ほふられた小羊というように、殉教、迫害など、艱難という言葉が、どうしても関わって来るという事は覚えておく。
そもそも、黙示録を書いたヨハネ自体が、結構特殊な状況でこの黙示録を書いている。
迫害によって、パトモスという島に、神の言葉故に流された。
捕まったり、罪人扱いされて、流されたという感じ。
そういうヨハネが書いた書なので、どうしても、この黙示録には、暗示されている事がある。
それは、我々はこの御言葉に従って、場合によっては苦難に遭ったとしても、正しく神の言葉に立って行くという、ヨハネがまさにそう。御言葉のゆえに、パトモス島に流された。
御言葉を裏切ったり、「今の時代は同性愛がトレンドなので、キリストは同性愛を禁じたが、私はそうは思いません」と言ったりすれば、苦難に遭わない。
御言葉に立ってとどまったので、苦難に遭ったが、我々がそのようなつもりがあるならば、こういう、七つの封印であろうとも、開かれて来るだろうと思う。
しかし、そういうつもりが全く無いなら、全く開かれない。
封印が全く開かれていない人は、イエス様の時代にもいた。
それは、律法学者、パリサイ人。 彼らは封印が全く開かれていないから、ダニエル書で預言されているメシヤ(キリスト)を目の前にして、あろうことか、有罪に定め、死刑に定め、殺してしまった。
彼らは、御言葉の為に犠牲を払うつもりもなかった。
しかし、12弟子みたいに(彼らは自分を犠牲にするつもりがあった。シモン・ペテロは主に、「あなたは神の子キリストです」と大正解をついた。彼らには封印が開かれていた。自分を犠牲にするつもりのある人は、たとえ無学な人でも、見える。)
聖書に精通するほど費やして来た人でも、御言葉の為に、苦難を払うつもりの無い人には、開かれない。 これは、明確な区分。
なので、我々も、封印が開かれて行く時に、もっと勉強するとかは問題ではない。
その人の歩み方が大いに関わって来る。
「封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言うように聖書は語っている。
「ふさわしい者は誰か」と繰り返し、この章の中で言われている。
言わんとしている事は、この封印はすべての人に開かれているわけではない。
最後まで開かれない人は結構多い。
ふさわしい人にしか開かれない。 神の言葉である故に。
世の中の公式は全ての人に開かれるが、七つの封印は違う。
その人の信仰、歩みにかかわって来る。 生ける神の言葉であるから。
封印に関しては、
ダニエル書
12:9彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。
12:20多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。
悟るというのは、封印を開いて悟る。
しかし、「悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。」
「悪者ども」というイメージは、一般的には、犯罪者、ヤクザ、暴力団とか、不良だったりする。
これらの人々も、もちろん悪者だが、聖書でいう悪者は、福音書で見た限り、そういう事とは限らない。
福音書で、結局最後まで封印が開かれなかった人々は誰かというと、律法学者、パリサイ人。
非常に皮肉だが、彼らは散々聖書を読んで、「自分たちこそ専門家」だと高ぶっていたり、民衆からも尊敬されていたが、あろうことか、このダニエル書が預言した、メシヤの来臨が、70週の預言通り、ぴったりその時に、ナザレのイエスがメシヤとして来たが、しかもあらゆる預言が成就して、来た。「処女が身ごもって、男の子を生む」、「その友に裏切られた」、「ベツレヘムで生まれる」とか、みんな預言が成就して来たのだけれども、見事に悟らなかった。
しかし、正しいペテロとかヨハネとか、彼らは、聖書知識はともかく、行いにおいては、キリストに従って行った。彼らは悟った。「この方こそ、聖書で預言しているメシヤだ」と。
ある人は悟り、ある人は悟らなかった。
これは、ダニエル書の、封印に関して、黙示録においては、この事は、再度再現する。
だから同じ言葉が使われている。ダニエル書と同じ言葉が、黙示録にも使われている。
なので、今の時代、この事が大々的に再現する。
我々の歩みが、関係する。
ある人が、開かれないというのは、律法学者、パリサイ人の本音が試されるから。
主は、はっきりと、「白く塗られた墓だ」と言われた。
「あなたがたは人前では、きれいであっても、その内側は、あらゆる貪欲と罪に満ちている。」
そういうところを、神はご覧になる。
クリスチャンの外面的な評判ではなく、「本質」はどうかというところが、問われる。
人前での評判は、何の意味も無い。 神の前に正しいと見られるならば封印が開かれるが、律法学者、パリサイ人が、悪人と決めつけられたのと同じ意味合いで、悪人と思われたら、決して開かれることは無い。 しかも、七つの封印。
ダニエル書は、一つの封印だが、黙示録はその七倍。
絶対に開かれることは無い。
そして、理解しなければいけない事は、封印というのは、そういうもの。
黙示録というのは、一般の書と違う。
一般の書、福音書などには、間違えようのない事が書いてある。
しかし、いざ黙示録に入ると、混とんとして、何が何だか分からない。
これは、神が封印を持って封じているから。
始めの一歩から間違えて、迷路に入ってしまう人がたくさんいる。
なぜ神が、終末の時代に、この様な書を用意したのかというと、これは、明らかな理由がある。
世の終わりの時、終末の時、というのを、神は、全ての人に封印を開くおつもりではないから。
逆に、世の終わりの時というのは、民が裁かれる時。ある意味試験の時。
封印というのは、神様が、終末の時、民を選り分けるためにある。
これは覚悟しておく。
なので、封印が開かれないのも、試験の一部。
やはり、封印は、正しく歩んでいる人には開かれるようになっている。
なので、我々は覚悟しなければならない。
やはり、学期の終わりに試験があるように、我々はこれから試験に向かおうとしている。
終末は、明らかに試練とか、選り分けとか、そういう試験(学校でいうなら)がある。
そういう日が来ると言われているし、実際に来るので、封印もその一部。
神様は、非情な言い方だが、全ての人にこの封印を平等に開かれようと思ってはおられない。
選り分けを許しておられる。 結構厳しい選り分けが来る。
なので我々は、そんなものだと思って、学んでいかなければならない。
今のキリスト教会は、あらゆる惑わしに入っているが、こういう事に関しても、「どんなクリスチャンも、クリスチャンと名がつけば全然大丈夫だ」とか、根拠のない、わけの分からないインチキな教理を受け入れているが、我々にあってはそれではいけない。
明らかに聖書はそういう選り分けの時を、終末に関して預言しておられるので、「そうだ」と思って、是非備えて行きたい。
黙示録
5:5すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
ダビデの根は、イエス・キリスト。
イエス・キリストが勝利を得たと信じれば良い。
イエス・キリストを通して封印が開かれる。
しかし、聖書は、表にも裏にも、文字の書いてある巻き物なので、裏の意味合いも考えてみたい。
それは、人間的な意味合いで、部族とか、支族とか、人種とかを、「ユダ族から出た獅子」とか、「ダビデの根」。 そういった事から、もしかすると、クリスチャンの間でも、もしかすると封印が開かれて行くというように思う。
そして、「思っている」だけでなく、実際に、黙示録の7章とかを見て行く時に、14万4千人とか、イスラエルの12部族が印を押されて、その中のユダ族の人々が印を押されたと書いてあるので、そういう意味では、人間的な意味合いで、人種とか、種族の意味合いで、ユダ族という事柄は、意味があると思う。
ユダ族は、我々は今、実際「ユダヤ人」と言っている人達は、絶対に「偽ユダヤ人」と思っているし、また黙示録の中でも、「ユダヤ人だと嘘を言っている人々、しかも悪魔礼拝者」だと
そんな事まで書いてあるので、偽ユダヤ人はいると考えた方が全く聖書的に正しい。
しかも、人種的にアブラハムはセム族であり、黄色人種。
しかも、日本には、(我々は、ユダ族の真の子孫は日本にいると思っている) 一つの証拠として、ダビデ王朝は、万世一系。
聖書を読んで行けば分かるけれども、ダビデ以来、全く同じ男系の王が続いているが、バビロン捕囚で、ダビデ王朝が歴史から消えてしまったのが、今から2600年前。
日本の王朝、天皇家の歴史も、今から2600年ほど前に開かれている。
まさに万世一系が日本で続いているわけだが、やはり、「日本」に関係があるかと思う。
そういうように言うと、身びいきみたいに思われるかも知れないが、客観的にも、そういう可能性は大いにあるかと思う。
なので、この辺りは思い込みかも知れないが、この封印という事は、「日本」と関係しているのではないかと思っている。
日本でキリスト教の真の福音が開かれるとか、聖書の終末の封印が開かれると言っても、他の国のクリスチャンが見ると、冗談のように聞こえる。
「日本はクリスチャンなんかいない国」くらいに思われていて、本当にマイノリティーな存在である。
それであっても、これが本当に、「ユダ族の獅子」、「ダビデの根」とまで書いてあるが、聖書に書いてあるならば、神がそのように書いてあって、そのように意図しておられるなら、これは成就するのではないかと思われる。
我田引水だが、客観的に見ても、レムナントは明らかに封印が開かれている。
レムナントは日本でやっている。
結構、次々と開かれている。
動客観的に見ても、言いづらいが、やはり開かれている。
そして、いくつも啓示が開かれているが、例えば、9.11事件、2001年から、レムナントでは、
アメリカこそ獣の国であるという事を示された。
それは今から、14,5年前の事。
その頃は、レムナントがいきなりそれを言い出した時に、アメリカが獣の国だという兆候は殆ど無かった。
しかし、最近、ここ数年はどうだろうか。
同性愛に反対しただけで逮捕されたり、次々と出ている。
日本でもその様な事は無い。
異邦の、殆どキリスト教なんか受け入れていない国でも、そこまでは行かない。
キリスト教国である筈のアメリカでは非常に異常。
しかもどんどんと、正しいクリスチャンが迫害に遭うように、なりつつある。
例えばクリスマスの歌を、歌うという事だけで非難が来たり、学校に、キリスト教関連のものを持ち込んだだけで、教師がその生徒を非難したり、国としてそういう方向に来ている。
明らかに獣の国の正体が出ている。
しかし、これは、14,5年前からレムナントに啓示されている。
そういう意味合いでは、かなりの啓示が来ているが、聖書がアメリカが聖書が預言している獣の国だと明確に見ている人はほとんどいない。
なので、そういう意味合いで言うと、大事な啓示だと思うが、そういう意味合いでは、この、ダビデの獅子を通して、封印が開かれるという事が、日本においても成就しつつある可能性がある。
なので、我々は、そういった事をも、奉仕をして行こうと思う。
レムナントでは今、角笛のニュースレターを英語、中国語、韓国語に翻訳している。
信仰を持って行なっている。 それは、ここに書いてある、ユダ族の獅子が、ダビデの根が封印を開くことが出来るという事柄が書いてあるので、これが成就して、いずれこの封印というのは、日本で留まるべきものではない、という信仰を持っている。
外国にも広まって行くべきなので、そういった働きの一端を今から始めて行くべきだという信仰を持っている。この言葉に基づいている。
ダビデの獅子が、そこから封印を開いてく。
日本来で終わるものではない。まして、レムナントだけで終わるべきものではない。
これは、開かれたら語って行かなければならない。
これは信仰。 他の教会の人が聞くと、冗談にしか思えない。
人目は初めから気にしていない。
5:6さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
5:7小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
なので、小羊を通して、封印が開かれて来た。
ふさわしいのは小羊。 なので、明らかにこの小羊、ほふられた小羊というのは、意味があって書かれている。
イエス・キリストを表現する言葉は、他にも色々あるが、わざわざのように、「ほふられた小羊」と書いてあるので、終末の日に、キリストの御言葉に従って、苦難を受けても、この言葉に正しく立って行こうというつもりのある人には、封印を解くのにふさわしい方であり、そういう人々には封印が開かれて行くと思うので、この事は覚えておく。
その人の歩み方次第。
それ次第で、封印が開かれたり、閉じられたりする。
レムナントキリスト教会
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天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著