ヨハネの黙示録8章1~7 2016.1.17
8:1小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。
8:2それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
第七の封印、また、次の節には七人の御使いと書いてある。
何故、黙示録には頻繁に「七」が出て来るのか。
おそらく、七つ目のミレニアムに黙示録の時代が来るのではないだろうか。
我々は今まさに、七つ目のミレニアムにいる。
もう一つは、教会の数字が「七」
「七つの燭台」と書いてある。 黙示録には、「七つの教会」と書いてある。
なのでこれは、「七」は教会に対しての災いの数字。これは暗示されていると理解出来る。
封印によって封じられているが、ヒントはある。
それは、主の御霊の知恵と理解によって、見えて行く。
これらを理解するのは、聖霊の賜物の一つらしい。
人間の知恵では間違えるが、聖霊の知恵では正しく理解出来る。
御霊の知恵を求めて行きたい。
封印は七つ。
なぜ七つかというと、黙示録は、今でも、全ての人に解かれているわけではない。
高いお金を払って、黙示録の注解を呼んでも、正しくは理解できない。
ダニエル書に書いてあるように、「悪人は一人も悟らない」
正しく歩まない人には、いくらお金を払おうとも、原語で研究しようとも、または、黙示録が書かれた、パトモス島まで行ったからといって、開かれるとは限らない。
主が啓示を開いて下さるなら、内容は分かって来る。
2節では、「七人の御使いを見た」とある。
御使いも七人。そして彼らには七つのラッパが与えられた。
ここに書いてあるラッパは、旧約聖書でいう「角笛」
新約の黙示録で言う「ラッパ」を理解するなら、旧約聖書にて、「角笛」が、どの様に使われているかという事を理解しなければ、今一つ見えて来ない。
アモス書
3:6町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。
角笛は、驚くべきラッパ。警告の音を出す。
角笛が吹けば、人が驚いて何ぼ。
レムナントでは「角笛」というホームページをやっている。
「角笛」というニュースレターも出している。
レムナントは「角笛」と、切っても切れない関係にある。
個人的な好き嫌いではなく、どうも主が語っている感じがする。
「はっきり分かるような、明確な角笛を吹け」という、声がしきりに聞こえる。肉声ではない。
見ている人が、恐ろしい日が来る、深刻な事態に気づくため。
淡々とは書けない。
きちんとしかるべく形で、書くのが正しい。
これは、ニュースレターもしかり。
悟るべき人は悟って、事態を深刻に受け止める。
こういう召しにふさわしい奉仕をしなければならない。
「町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。」
災いは、主から来る。
3:7まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。
「角笛」の一つの特徴は、やはり未来に関して、これから主が起こす事を語って行く。
「角笛」、レムナントが、預言者的な召しを受けているなら、殆ど自然に示される。
「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」
自然に示されている。
アメリカに関しては、十数年前から示されている。
最初は相手にされなかったが、今のアメリカの現状は、我々が今まで行ってきたことが合って来た。
何も無い時から語って来た。「この国はクリスチャンの迫害国になる」
しかし、それは、今ではニュースになって来ている。
前もって語られている。 こういう事だけではなく、主のしもべとして歩んで行くと、いろんな事が示されて行く。
黙示録の時代は、七つのラッパ、警告の時代。
なので、黙示録の時代にふさわしい事は、ラッパを吹き鳴らす事であり、角笛を吹き鳴らす事。
レムナントは、それに適う奉仕を担っている。
黙示録
8:3また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
8:4香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
「金の香炉」が出て来るが、そこから立ち上るのは「聖徒たちの祈り」
3節でも4節でも、「祈り」
黙示録の時代の、大事な事の一つは、「聖徒の祈り」によって、時代が変えられていくという事。
それによって神が、悪い者に裁きを下す。 祈りがポイントになって来る。
その例として、一つは、ルカ18章の1節から、8節までに、やもめと、不正な裁判官がいる。
ルカ
18:1いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
18:4彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
18:6主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
なので、この不正な裁判官というのは、キリストの再臨の時。
二度目の来臨は、救いのため。
救われるというのは、主につくクリスチャンは艱難に遭うという事。
不正な裁判官の時のやもめ。 やもめには、地上には夫はいないという事。
しかし、天において真の夫がおられるという事。 まさにキリストの事。
それがやもめの立場であり、クリスチャンのあるべき姿。
逆に地上で、反キリストを夫に持ってしまう歩みは、御心が無い。
その時にやもめが、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』というのは、艱難時代の患難の事を言っている。
正しいやもめは患難に遭う。
その時の心構えとして、しつこく裁判官に求める。 裁判官というのは、神であり、キリスト。
その祈りは「あまりにうるさい」ので、仕方なく応じるというニュアンス。
しかし、裁判官は、やもめの言う通りに動いた。
艱難時代にも「祈り」に大きなポイントがある。
エステル書に書かれている事は、艱難時代の型。
終末の艱難時代に書いてある、聖書の記述は、黙示録だけではない。
黙示録の中には、あらゆる旧約聖書、新約聖書の箇所が引用されている。
詩編、ダニエル書、エゼキエル書。 そして、エステル書の箇所も、黙示録の中に記述がのっている。
黙示録11章の中で、「贈り物を贈り合った」とあるが、これはまさに、プリムの祭の中に出て来る表現。
なぜ、終末の事が書いてある黙示録の中に、あらゆる旧約聖書の箇所が出て来るが、それらを理解して初めて全体像が出て来る。
具体的には、エステル書は、艱難時代のある一面を語っていると思う。
この書に出て来るハマンという者が、国中の全ユダヤ人を虐殺しようとするが、同じ日がおそらく、ここの箇所の理解に間違いが無ければ、艱難時代は来る。
獣が、聖徒を滅ぼしつくそうとする箇所が、ダニエル書にもある。
まさにエステル書と符合する。
しかし、エステル書の結論は、くじが投げられ、全ユダヤ人を虐殺しようとしたが、逆にユダヤ人が、プリムの祭には、自分たちの敵を滅ぼすようになった。
それは、解釈が正しければ、後の日の、艱難時代の内容に関して預言したもの。
理解が正しければ、終末、獣が立つ。三年半が経つ。おそらくこの日に、正しいクリスチャンを滅ぼそうとする日を定めようとする。
それで、多くのクリスチャンが、妥協してしまう。
しかし、その日がまさに逆転の日になる。プリムの祭。
滅ぼされると決まった日に、大逆転して、敵が滅ぼされる。
エステル書
9:21それは、ユダヤ人が毎年アダルの月の十四日と十五日を、
9:22自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。
自分たちの敵を除いて休みを得、悲しみが、喜びに変わり、喪の日が祝日に変わる日。
大逆転が来た。滅ぼされようとしていた民が滅びず、大逆転が訪れた。
艱難時代の、キリストの再臨がそうではないだろうかと思う。
その日、滅ぼされようとする正しいクリスチャンが、命を救われ、逆に滅ぼそうとしていた者たちが、滅ぼされる。 テサロニケの手紙にも書いてある。
滅びが突然襲ってきて、それを逃れる者はいないという事。
これは、敵が滅びる日。
エステル書を引いた意味合いは、何故こういう逆転が起こったか、活躍したのはエステル。
王様の内庭に入って、王に直訴した。
それが聞かれ、大逆転が起こった。ハマンはやっつけられた。
敵ハマンは、王様に近い存在だった。
サタンもそう。結構神様に近い。
ところが、エステルにより、逆転してしまう。 エステルの名には、「祈りの人」という意味合いがある。 おそらく祈りの奉仕。
祈りが、大逆転をもたらす。
黙示録
8:5それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
「その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。」とあるが、どういう事かというと、これは喩えで語っているところだが、この香炉は聖徒の祈り。
具体的に言わんとしている事は、祈りの効果。
祈りに答えて、地上に災いが来たという事。
黙示録
6:9小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
6:10彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
「地」に災いがある。
8:5それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
ここで、裁きが行なわれつつある。 「地に投げつけた」
「すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。」
これは、聖徒たちの祈りに答えて、災いが地に落ちて来たという事。
我々は、黙示録の中で、繰り返し言われている事に関し、理解しなければならない。
それは、黙示録の中で度々、「地に住む者」とあるが、「地」という事に関しては災い。
「地に住む者」は日本語では弱い表現だが、英語のニュアンスでは、「地上に定住している」というニュアンスがある。
それは、クリスチャンの歩みと違う。
我々クリスチャンのあるべき姿とは、アブラハム、イサクの様に、地においては旅人、寄留者である。 「我々の国籍は天にある」
しかし、この世についてしまっては、「地に住む者」、そういった人たちに災いがあるという事。大いに災いが来る。
一つは、クリスチャンに対する迫害は、この世の人からも来るが、「この世についた」クリスチャンからも来る事が暗示されている。
イエス様もそう。
この世的な、人間的な考えで、信仰生活を送っている人々から、迫害される。
律法学者、パリサイ人も、全くこの世についていて、人間的な判断をしているから、聖霊にあって、物事を理解出来なかった。
そういった人たちが「キリストはインチキだ」と言って迫害してきた。
「地に住む者」
ピリピ書
3:18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
「地上」の事だけ、というクリスチャンがいる。
「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」
これは明らかにクリスチャンの事。
「彼らの思いは地上のことだけです。」
地に住むクリスチャン。
対称的な事として、「けれども、私たちの国籍は天にあります。」
「天」に住む者と「地」に住む者とは対称的。
「地に住む者」の問題は、
3:18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
「今も涙をもって言う」というのは、結構深刻な事。
これは、クリスチャンに対しての憂い。
涙をもって言うとは、クリスチャンが、滅びるか滅びないかという事。
そして、「彼らの最後は滅びです。」と、はっきり書いてある。
我々がもし、地に住む者の歩みをして行くならば、間違いなく滅びに入る。
パウロがここで断言している。
この様な歩みは避けなければならないという事に関して書いてある。
「多くの人々が、キリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」
キリストの十字架の敵とはどういう事か。
キリストの十字架の本質とは、主が言われたように、「私に従う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従って来なさい。」
我々の、罪、問題とか、そういったものを、十字架につけて歩んで行くというのが、クリスチャンのあるべき姿。
十字架の敵とは、具体的に言うと、何一つ自分を十字架につけようとしないという事。
生まれつきの肉の性質を何一つ変えようとしない。
十字架とはどういう道具か。
それは、自分を殺す物。しかし、「全く自分を殺すつもりも無く、欲望のままに生きていきたい」それでは無意味。
十字架の敵というのは、自分を全く殺さない者、自分の欲望、願いをどんどん発展させていく
者。そういう者は多い。
「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」
これは、クリスチャンと無縁でないどころか、こう言うクリスチャンが多い。
19節で、「彼らの最後は滅びです。」 そのまま行くと、彼らは最後に滅んでしまうという事。
「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。」
「欲望」これは注釈では「腹」と書いてある。
「欲望、腹」を自分の神としていくならば、その人の歩みとか、クリスチャンとしての歩みの一番の動機というのは、自分の欲求。 欲求に忠実という事。 それが自分の生きる目標になってしまうと、自分の体の欲求、(腹とは食べる欲求) あの欲求、この欲求、それが一番になると、「彼らの神は彼らの欲望であり」となってしまう。
「彼らの思いは地上のことだけです。」 結局この世の人と変わらないという事。
その様な歩みは、十字架と何の関係も無いという事。
欲望を全く制限しないという歩み。 その最後は滅び。
これが、「地に住む者」の歩みだという事。
我々は、クリスチャンになっても、欲望が無いわけではないが、十字架を用いる。
その為にキリストは十字架におかかりになった。
それを用いて行く。
段々とそういう事(欲望)から解放されて行く。
それが、「天的」な歩み。 こういった事は覚えておく。
十字架の敵として歩むクリスチャンは、十字架とは無関係。
自分の欲望に歯止めをかけない歩み方。
黙示録
8:5それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
地に災いが起きて来た。
8:6すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
8:7第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
血、雹、火は、霊的なものの喩え。
霊的なものの災いが、地に起きて来る。
全ての教会に災いが来るわけではない。
仮庵に入っている、天的な教会な教会には災いは来ない。
しかし、地につく者たちには災いが来る。
「青草が全部焼けてしまった。」
青草の「青」が、前の章にあった、四匹の馬の四番目。
「青ざめた馬」「青草」と同じ言葉。
青草は何かというと、牛とか羊の食べ物。
羊や牛は、クリスチャンの喩え。
要は、クリスチャンが食べるべき、御言葉などがみんな焼けてしまった。
悪霊の影響を受けるようになってしまったという事。
御言葉が、霊の影響を受けるという事は、聖書的にあり得る。
御言葉には、「悪霊の教え」についても書かれている。
今は、世の終わりなので、教会の中に、悪霊の教えが頻繁に入って来ている。
JNダービーの「艱難前携挙説」も、悪霊的な教え。
JNダービー自身も、霊媒とかと関係している。
また、聖書翻訳の偽りでは、ウェストコート(ギリシャ語原文の訳)など、あの人たちも、資料を調べると、19世紀くらいのイギリスの人だが、死者との交霊などをやったりしている。
そう言ったものが次々とキリスト教会の中に入って来て、そういう災いが地に住むクリスチャンに来る。 惑わしの教え、教理を食べさせられてしまう。
「青草が全て焼けてしまう」とは恐ろしい事。
食べる御言葉、教理が、悪霊的なものになってしまう。
この事は、既に起きつつある。
かなりの悪霊の教えが来ている。
「エルサレムに第三神殿が建つ」とか、「EU」がどうかとか、これらは悪霊の教え。
惑わしの教えが、どんどん教会に入って来ている。
そんな時代が来るという事は理解しておかなければならない。
特にアメリカを始めとした、キリスト教会では、出て来る教え、出て来る教えが、要吟味。
新しい教えを迂闊に受け入れるのは不用意。
留まるべき所に留まるべき。
リックウォレンはキリスト教会では有名な器で、影響力がある。
パーパスドリブンチャーチなど。 またねイスラム教とも、手を結んだりしている。
「地に住む」この世的なクリスチャンはどんどん引っ張り込まれている。
レムナントキリスト教会
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天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著