ヨハネの黙示録9章1~10 2016.1.31
9:1第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
ラッパは、警告のラッパ。
黙示録の七つのラッパで言われている事は、「警告」「警告」「警告」という事。
なぜ警告かというと、例えば火事の時にはサイレンが鳴るように。
角笛は、我々に命の危険があると言っているので、黙示録はまさに、その危険な時代に関して
言われているので、真摯に警告を見て行きたい。
話半分に聞いていたり、真面目に警告を取り合わないと、後に永遠の後悔をもたらす。
「星が天から地上に落ちるのを見た。」とある。
その星は、まさに、「底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。」
底知れぬ穴というのは、おそらく地獄の穴。災いが起きて来る。
災いを起こして来るのは、「星」
星はまさに、アブラハムの子孫をさしている。
我々もアブラハムの子孫であり、新約のイスラエル。つまりクリスチャン。
ここには、イナゴや星など、色々あるが、文字通りに読まない事。
喩えについて言われた事を理解しなければならない。
主は明確に「この喩えが理解出来ないのか」と言われた。
あらゆる所に喩えが書かれている。
まして黙示録は、封印、謎、喩えが、多用されているので、文字通り読んだら、何だか分からない。
星は器。
9章では、基本的には、器とか、聖会とか、働き人とか、そういった人達に関しての事柄であると理解して行くべき。
「器」を通して、底知れぬ鍵が与えられたという事。
星が落ちて来るのは、世の中ではない。
アブラハムの子孫である、クリスチャンが活躍するのは、キリスト教の聖会だったりする。
なのでこれは、教会に関しての災い。
黙示録の全体は、教会や、クリスチャンに対しての災いに関して書いてある。
何故かというと、黙示録は、聖書の一番終わりにある。 なのでこれは、クリスチャンに対しての警告。 未信者ではない。未信者は何も聖書について分からない。
「底知れぬ穴が、開かれる」
9:2その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。
ヨエル書
2:30わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。
2:31主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
ここのみ言葉は、使徒行伝にも引用されている。
結論を言うなら、「天と地に、不思議なしるしを現わす。」
天は、アブラハムの子孫である星が住む所として、教会の喩え。
地は、アブラハムの子孫である、地の砂のようであるとして、砂の住む所として、教会の喩え。
なので、教会に不思議なしるしを表すという意味。
これは、良いしるしではない。
血と火と煙の柱と書いてあるが、しかもその後、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」とある。それは明らかに災い。
血と火と煙の柱というのは、「災い」
出エジプトの日に、きれいなナイルの水が、「血」に変わって、飲めなくなった。
つまり、聖霊が、悪霊に変わって行くという事。
血と火は霊的な事。悪霊の働きが増して来るという事。
「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」
主の大いなる恐るべき日とは何かというと、これは、「主の日」
世の終わりの時には、主の日と書いてある、恐るべき災いと、裁きの日が来るというのは、聖書が一環として語っている。
その時にあらゆる神の民の、背信、不信が、裁かれてしまう。
主の日の型というのが何かというと、イエス・キリストの時にも、主の日の型が現われた。
具体的に言うと、西暦七十年の時に、エルサレムは、ローマによって滅ぼされた。
これがまさに、主の日の一つの成就。
それはなぜかというと、神のひとり子を、十字架につけて殺したが故に、神のすさまじい怒りを受けて滅びた。
イエス様も、その日ついて預言をした。「一つの石も他の石の上に残ることは無い」、そして、
「私の為に泣くな。あなたがたに、生まなかった胎は幸いだ、という日が来る」
エルサレムが滅びた日が、主の日だった。
だから、これは大きな形で、教会時代の最後に再現する。
イエス・キリストが、十字架につけられたその時も、前もって、主の警告を聞いていたクリスチャンは、西暦七十年のエルサレムの崩壊の日に、免れる事が出来た。
「その時、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」との警告通り、山へ逃げたゆえ。
我々もそうである。
エルサレムに住んでいた多くの人々は滅んだが、それは局地的な事であって、型にすぎない。これから来る世の終わりに(これから本番が来る)、我々に対するは、あの時と同じ。
山へ逃げなければいけない。それは、この言葉に通じる。
かつて御使いが、ロトに対し、「山へ逃げよ」と言ったが、我々も同じように、「同性愛を受け入れた教会から逃げよ。」という事。
「屋上にいる者は、中のものを取り出そうと、中に入ってはならない」とは、背教の教会を離れるという事は、主の日の大きなポイント。
「主の大いなる恐るべき日」とは、まさに主の日の事を言っている。
その前に一つの前兆として、「太陽は闇となり」「月は血に変わる」
太陽は器。 月も器。
キリスト教界の有名な、大きな器が、悪霊の器に変わるという事。
これは既に実現している。 ベニーヒンなどの有名な器。
すごい神の器だと思っていた者が、実は悪霊を下していた。
ロドニーハワードは「獣の印をつけろ」などと言っている。
我々は今どこにいるのか。
まさに、この御言葉が成就している時にいる。
主の日は近い。
「わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。」とあるように、キリスト教界で起きて来る、色々なそういう器の業を、「しるしと不思議」という。
ピーターワグナーが言い出した、「しるしと、不思議」
色々な癒しが起きるとか、金粉が舞うとか。 しかし、ここで書いてあるようにそれらは悪霊と関係している。
我々はそういう時代にいる。
ヨエル書
2:28その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
2:29その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
この言葉も世の終わりには成就する。
リバイバルは来る。大豊作が来る。
しかしその後に、大飢饉も来る。 つまり両方来る。
ごっちゃにしてはいけない。
大豊作の預言は、大豊作として取り、大飢饉の預言もしかり。
今は、主にあって賜物を求めて行くのは正しい。
間違って、悪霊の預言を求めて行ってはいけない。
黙示録の今回の箇所は、「太陽も月も暗くなる」とか、「いなご」が出て来るヨエル書からの引用が多い。
ヨエル書を見て行くと、今回の箇所に出て来るのは、
ヨエル書
1:4かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。
まさに黙示録9章の説明をしている個所。
ヨエル書
2:1シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。
黙示録9章に書いてある、災い、いなごは、主の日の災い。
具体的には、主の日というのは、背教の民に対しての、神の裁きの日だけれども、背教の極まった所に関して、主の日の災いが来るという事。
今のキリスト教界で起きている、しるしと不思議のリバイバルを軽く見てはいけない。
これは、終末の日に、そのまま直結するような災い、裁き。
2:2やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。
「やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。」とあるように、光が消える日。
福音の光、真理の光が消えて行く。
まさに今は、そういう時代が来つつある。
キリストの再臨は、どう考えても艱難時代の終わりに決まっているが、そう言う真理が消えてしまって、「艱難前に上げられる」などのインチキがまかり通っている。
「山々に広がる暁の光のように数多く強い民。」
終末の時代のキリスト教会は、徹底的な敗北を被るというのは、聖書が語っている事。
いくらクリスチャンだからといって、ひいき目で見て、現実に起きている事を、見ないようであってはいけない。
なぜキリスト教会が、背教して行くか・・・ある種の民がいる。
「山々に広がる暁の光のように数多く強い民。」
こういう民が、ヨエル書の中では、神の民を滅ぼしていくというニュアンスで語られている。
同じ意味合いで、キリスト教会の中にも、潜り込んで、教師や牧師になったり、入り込んで、色々なおかしな教理を持ち込んだり、おかしな霊を持ち込む人がいる。
ビリーグラハムなんかもそう。 「カトリックは全く問題なし」と言っている。
ベニーヒンはイスラエル生まれ。ようは(にせ)ユダヤ人。
フランクリングラハム(ビリーグラハムの息子)も、イスラエル国籍。
何故か、こういう人たちが、キリスト教界の重要なポジションにいる。
終末の日の、キリスト教界の背教というのは、ある種の人々が、教会のど真ん中に入り込んで、
そして、背教を進めて行く。 ピーターワグナーも明らかにその手の人物と見受けられる。
「聖霊の第三の波」と銘打って、悪霊を次々にキリスト教界に持ち込んだ。
この様な事は、既に、このヨエル書の時代から預言されていた事。
この日、今の日を。
「数多く強い民」と書いてある。
「暁の光」は暗示的。 暁に光が出れば、「すごい光だ」と思う。
そこが曲者、ビリーグラハムなんかもそう。 スターみたいな人には裏がある。
「このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。」
とあるように、こういう教会の背教とか、意図的にどんどん背教に入って行くというのは、今までは滅多になかったが、それがまさにどんどん成功してしまうという事。
2:3彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。
これはまさに教会の現状。
火が焼き尽くし、炎がなめ尽くすとは、喩え。
あらゆる教会の、霊的な働きが、悪霊のものに変わって行く。
「彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが」
教会はかつて、このような祝福に満ちていた。
ところが、色々なわけの分からない教理とか、悪霊のリバイバルとか、「彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。」
まさに今、教会はそうなりつつある。 悪霊のリバイバルがあちらこちらで燃え盛っている。
教会はおかしな現状になりつつある。
2:4その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。
2:5さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。
先程の黙示録9章にある馬は、まさにこの事。
怪しい働き人というのは、クリスチャンを敵だと思っている。
ビリーグラハム、ベニーヒン。 彼らは、クリスチャンを助けるような顔をしているが、実際は滅ぼしに来ている。 これが現実。
2:6その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。
教会は、次々とやられて行く。
2:7それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。
2:8互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。
「めいめい自分の大路を進んで行く」というのも暗示的。
全てのインチキな器がベニーヒンのような働きをしているわけではない。
ある人は神学書とか、またある人は、ウエストコートのように、ギリシャ語の原文をひっくり返して、インチキな写本を持ってきて、「これが本物だ」とのたもう。
それで世界中の聖書は、インチキ、間違いだらけの、シナイ写本とか、あんな物をもとに、わけの分からない聖書訳になってしまった。 そういう役をする者もいる。
あらゆる所にインチキがある。
2:9それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓からはいり込む。
「盗人」という言葉。 これは、御言葉を盗む事に通じる。あらゆる教理から、御言葉が盗まれて行く。
JNダービーも、あらゆる御言葉を盗んで、「教会は艱難に遭わない」などと言いだした。
御言葉を盗んで、偽りを吹聴する。 まさに盗人。
2:10その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
地も天も、教会の喩え。
教会は、揺れ動かされてしまう。
今の教会も、どんどん揺れ動かされ、同性愛を受け入れるようになってしまった。
出版界にも、こういった人々が入り込んでいる。
良い出版社だったところも、怪しい本を出すように変わって来ている。
「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。」
真理の光を失って行く。福音の光も失って行く。 どんどんクリスチャンが真理を失ったり、
福音の光も失って行く。
まさにヨエル書の言葉は、今から二千年以上前の言葉だが、成就している。
なので、今の時代に成就している。
これが、黙示録9章で言っている、「いなご」の意味合い。
いなごとは、麦とか、ぶどうを食い散らす害虫。
黙示録
9:3その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
ヨエル書がまさにいなごの事が書いてあるが、具体的に言えば、ようは、ヨエル書で預言された言葉が、黙示録の時に成就するということ。
ヨエル書
1:4かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。
1:5酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。
1:6一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。
1:7それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。
ヨエル書を見て分かるように、一つの国民と見てとれる。
キリスト教を憎んでいるある種の国民がいる。
彼らは、あろうことか、クリスチャンを逆恨みして、キリスト教会を滅ぼすことを目的としていて、手間暇かけて、キリスト教会の中心に潜り込んでくる。
そういった者たちがキリスト教界のトップに立つ。
小説のようだが本当の話。
フランクリングラハムも、国籍は(にせ)ユダヤ人。
ベニーヒンも同様。
(にせ)ユダヤ人が、何故だかいっぱい潜り込んでいる。
彼らはキリスト教徒ではない。らしい格好はしているが、違う。
キリストを信じているわけでもなし、彼らは敵。
キリスト教会を滅ぼすことを目的としている。
それがまさにこれに書いてある、預言。
「一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。」
葡萄の木というのはまさに、クリスチャン。
その木を荒れすたれさせてしまったら、聖霊の実がならない。
いなごは、麦を喰う。
御言葉が、食い荒らされてしまう。
この偽ユダヤ人が最も活躍しているのが、アメリカ。
偽ユダヤ人が世界一多いのはアメリカ。
アメリカは、世界のキリスト教会のリーダー的存在。
日本の注解書も、ただ英語を翻訳しただけのもの。 アメリカ由来。
注解書を書いている人達も、その手の類の者かと思われる。
それによって、次々とおかしな教理が入って来る。
「福音の総合理解」など。 「御言葉を行なうな。信じればいい」と教えている。
いなごに喰われている。
あらゆる御言葉が食い荒らされて、御言葉が御言葉ならぬものになってしまう。
一番ひどいのはカトリックかも知れない。
キリストの復活を信じていない。
カトリックも喰い荒らされている。
福音を信じる事が出来ないので、長年通っていても救われない。
信者はすっかり喰い荒らされたものを食べさせられている。
「酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。」
ぶどう酒は霊的なもの。 聖霊も消え去って行く。
偽ユダヤ人を通して、キリスト教会は、根本的な大事な二つの事に関して壊滅的な被害を受けている。
教会の最も大事な二つのポイントは、聖餐のパンとぶどう酒。
パンは御言葉であり、葡萄酒は聖霊。
どちらも攻撃されている。いなごはどちらも攻撃している。
御言葉が、色々わけの分からない教理になって、聖書はあっても、実質聖書を信じない者になってしまったり、聖霊が、悪霊に変えられていく。
その様な事が、ヨエル書に預言されている。
それが、黙示録9章において実現してしまっている。
そういったところを見て行きたい。
黙示録
9:3その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
さそりというのは、霊的な災いの事をさす。
9:4そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。
額に神の印を押されていない人間とは、聖霊を受けていないクリスチャン。
復活を信じていない人は、神の印を受けていないし、聖霊を受けていない。
そういう人は、ここで悪霊に惑わされる。
ちゃんと救われていない。 聖霊を受けていない人。
9:5しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。
「人間を殺すことは許されず」とある。
ただ、苦痛だけで、徹底的な事ではない。
「その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。」
9:6その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。
9:7そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。
金は信仰の喩え。信仰の勇者に見える。 このような滅ぼす人々というのは、教会であがめられている、また、リーダーとなる人達。
今で言えば、リックウォレンという人が、まさに色々、災いの霊を下したり、惑わしたりする。
彼は味方ではなく敵。
「頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。」
人間はクリスチャンの喩えではないか。
人は、神の形に造られた。 神の息が与えられ、生きた者になった、と書いてある通りに、聖霊を受けて、生きたものとなる、クリスチャンの喩えではないか。
敬虔で、信仰の勇者にみえる、そういった人が、実は教会に災いをもたらしているという事がまさに、黙示録の9章が言っている事。
そういう事に関して、喩えで語っている。
「金の冠」という言葉も、信仰の世界に出て来る。
ステファンという意味。 信仰の勇者という意味。
9:8また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。
女の髪の毛は、権威の象徴。つまり権威に従っている。
上下関係がある。
「歯は、ししの歯のようであった。」
ヨエル書でも出てきたが、獅子の歯で、あらゆるものをかみ砕くという事。
葡萄の枝も、麦も噛み砕かれたり、そうやって正しい教理とか教えが、砕かれて行ってしまうという事。
9:9また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。
「胸当て」をつけている時は、正義を胸につけているという事。「我々こそ正しい。ここに真理がある」と言っている。事実は違うが、その様な事を言っている。
「その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。」
ようは、教会を滅ぼす軍隊だという事。
主の日が近い。
9:10そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。
「尾」とは、
イザヤ書
9:15そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。
聖書は、神の知恵によって書かれた本なので、その箇所のみから解釈してはいけない。
私的解釈をしないとは、色々な箇所を参照するという事。
関連個所を読んでいくのが、解釈の正しい方法。
「尾」とは、預言者。
「針」は、第一コリント15章56節。
「死のとげ」=「針」=「罪」と書いてある。
とげは、針の事。だから、罪の事。
ここで言わんとしている事は、預言者を通して、聖会とかで、色々、クリスチャンたちに素晴らしい事を教えているという預言者を通して、罪や、神に逆らう事とか、インチキが、伝えられてくるという事。
フランクリングラハムなどがそう。
「イラクは悪魔の国だから、それをやっつけるアメリカの軍隊は、神の働きをしている」などと言っている。 殺人を正当化している。
クリスチャンを殺人に誘っている。
アメリカの教会で同性愛がこれほどもてはやされているのは、偽預言者、偽りの教師が大活躍しているから。
これらの事は、みな成就している。
なので、理解しなければならない。
黙示録に書いてある事は、今の時代においても、結構成就しているのではないか。
教理を喰い荒らされているとか、インチキな理解が来るとか、成就している。
しかし、人々が、この黙示録9章のいなごとか、馬とか出て来ても、意味がわからないし、緊迫感を持たない。また、危機感を持たない。
その理由は、読むには読むが、悟らないから。
盲目になってしまって、書物を渡されても、封じられた書物になっているから。
しかし幸い、レムナントにおいてはこの封印は開かれている。
この事が正しい。封印を開かれて語る事が。
今の時代、多くの人々には今でも封印は封じられている。
しかし、開かれるべき人には開かれる。
黙示録の多くの事柄が成就して来ている時代なので、主の日の大いなる災いの一環。
このまま行けば、ますます教会は背教に入って行き、悪霊のリバイバルの中で翻弄され、そして、かつてエルサレムにて、多くの神の民が滅ぼされたように、滅びが近いという恐るべき時代。 なので、我々はそれを教えられたりというのは、我々の働きに関連して、示された事であるので、はっきりと警告を語って行くというのが大いに大事な事。
警告を謙虚にとらえ、正しく御心を行いたい。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
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