ヨハネの黙示録9章11~21            2016.2.7

 

 

 

9:11彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。

 

 

 

「彼ら」とは、いなごの様な軍隊。

 

「底知れぬ所の御使い」というのは、クリスチャンの喩え。 見た目クリスチャンの器が、実際には、底知れぬ所の穴を開いたり、滅びの御使いだったりする。

 

この様な時代が来るという事は、正しく理解しなければならない。

 

9章に書いてある事は、他でもない、キリスト教の聖会、リバイバル聖会など、そういった事に関して喩えで書かれている。

 

そう理解しなければ、殆ど理解できない。

 

今のキリスト教会は、大いに間違えている所がたくさんあるのだが、そもそも解釈の方法が間違っている。

 

しかし、主が言われている事を守る人は、真理が見える。

 

明らかに聖書はね喩えで満ちた書であり、それらを全ての弟子が解き明かすように求められている。

 

レムナントはそれを行ない、大事な事が示されている。

 

黙示録が語っている、近未来の事に関して、祝福が殆ど無い。

 

ヘブル語の「アバドン(破壊者)」は、旧約聖書のどこで使われているか見て見ると、

 

 

 

ヨブ記

 

26:6よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれない。

 

 

 

「アバドン」とは、「滅びの淵」同じ言葉。

 

「よみ」はKJVでは「hell(地獄)」と書いてある。

 

そういう事が、この災いの御使いに関して言われている。

 

しかも、喩えを理解するなら、キリスト教会の中に起きて来る事。

 

「星」はクリスチャンの喩え。キリスト教界の中で起きて来る集会、聖会の喩え。

 

我々の想像を超えている事がここに書いてある。

 

言わんとしている事は、ペンテコステ系の聖会で、「金粉を起こした」「しるしを起こした」など、そういう集会の事。

 

その様な所に、献金を払って行く。

 

しかし、ここで書いてある、「破壊、破壊者」というのは、他でもない地獄(hell)と一緒に使われる言葉。

 

キリスト教の集会に加わって、器の霊を受け、リバイバルの霊を受けていく内に、結果として地獄、滅び、火の池など、そういう所へ入って行き、「永遠のいのちを失う事になる」という事がここで書かれている。

 

アバドンとヘブライ語で書き、アボリュオンとギリシャ語で書かれているので、「破壊、破滅」だと繰り返し書かれている。

 

天の祝福とか、天国に行くという事は書いていない。

 

その様に読み取れる。勘違いしてはいけないという事。

 

神は恐るべき方。

 

聖会の真中に入って滅びに入る・・・まるで冗談のような話である。

 

悪夢。しかし、そういう事が書いてある。

 

地獄の滅びの御使いが、口を開けて、多くのクリスチャンを飲み込んでいく。

 

そういうニュアンスを読み取れれば正解。

 

地獄の淵に引きずり込むような御使いが、聖会の真中で解き放たれているという事は、まさにここに書いてある事。

 

ビデオにて、ベニーヒンが、聖会の中で、「解き放て、解き放て」と言っている。

 

ビデオと、ここに書いてある事はまさにぴたり一致している。

 

黙示録で語られている通りに、集会の中で悪霊が解き放たれている。

 

神の言葉はその日を預言している。

 

御言葉を恐れなければならない。

 

もう一つは、「封印が開かれない」とは恐るべきこと。

 

20節には、こう書いてある。

 

「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、」

 

これは、器崇拝の事を言っている。

 

金銀。金は信仰。

 

石、葡萄の木というのはねクリスチャンを拝むという事。

 

それらの器に関して、見る事も聞く事も、歩く事も出来ない偶像だと書いてある。

 

どんなにすごい癒し、預言、金粉が舞っていたりしても、それがどこから来た霊かを全く理解していない。

 

悪霊を受けて、それを振りまいている。

 

「彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。」というように、彼らはペンテコステ系の集会で、しるしなどを行なっている人達だと思うのだが、実は、底知れぬ所の御使いを王にいただいているという事で、この事はね人智を超えていると理解出来る。

 

「聖霊の第三の波」とか、ペンテコステ系の「後の雨運動」など、こういった運動には、裏には、人間以上の霊が働いて、あらゆる戦略と、あらゆる惑わしの霊、策略、教理、あらゆるものが、悪霊の賢い(人間の知恵など及びもつかない)力が、こういったリバイバル集会にある。

 

なので人間は、ころりと騙される。

 

素の一環には教理的なものがある。  艱難前携挙説もそうであるし、「終末の時代はユダヤ人の時代になるから、教会は天に上げられ、地には無い」などというのは、悪霊の教理。

 

なので、侮ってはいけない。

 

自然発生したのではなく、悪霊の知恵によるものであり、「王にいただいている。」というように、悪霊が本気を出して、しかも軍隊の様に、一貫した方法で惑わして来ているので、中々見破るのは難しい。

 

 

 

黙示録

 

9:12第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。

 

9:13第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。

 

9:14その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」

 

9:15すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。

 

 

 

黙示録のあらゆる言葉の中に、喩え、謎が隠されている。

 

なのでほんの一つの言葉にも、意味がある。

 

ここに、「大川ユーフラテス」と書いてある。

 

これにも意味がある。

 

ユーフラテスの意味合いは、旧約を読めば分かる。 あらゆる黙示録の事柄は、旧約聖書に戻って初めて意味が分かる部分がたくさんある。

 

ユーフラテスは、旧約の時代の神の民の境界線。  イスラエルの境界線。

 

イスラエルから見たユーフラテスの向こう側は、異邦人の地。

 

ユーフラテスまでは、神の民のイスラエルの民の地域。

 

なのでこれも喩え。

 

ユーフラテスは、クリスチャンと、未信者の間をわけ隔てている、「聖霊」の川。

 

そこに攻撃が加えられる。

 

「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」という事は、四人の御使いは、東西南北を表す。

 

地上のあらゆる教会に対して、この災いが来る。

 

黙示録の1612節で、ユーフラテス川が枯れるという事が書かれている。

 

なのではっきり言うと、聖霊の働きが枯渇するという事。

 

それが、教会の災いとしてやって来るという事。

 

これは聖書のあちらこちらで預言されている事なので、理解する。

 

エリヤの箇所も、それを預言している。

 

「三年半の間、雨が降らないで、ケレテ川が枯れてしまった」とある。

 

しかし、一人のやもめの所だけは、瓶の中は尽きなかった。

 

我々が、やもめの立場に立って行くならば、艱難時代、たとえ聖霊が枯渇した時代であっても、

 

荒野に留まる人には、聖霊は消える事が無いという約束もあるが、教会全体としては、聖霊が枯渇して行くという事が、一つの事柄であるという事を理解する。

 

別の表現では、ラオデキヤの教会に関連して、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたく」と主は言われた。

 

ラオデキヤは七つ目の教会であり、終末の教会であるから、肉体を持ったナザレのイエスが教会の中にいるわけではない。

 

そうでなく、聖霊となられたイエス様が、教会の外に追い出されている。

 

だから、教会の中では聖霊が枯渇して、おられなくても驚くことは無い。

 

これを通して、ラオデキヤの教会が言っている事は、聖霊がご自分の意思で、身を隠しておられるわけではない。  教会に入りたくとも、追い出されたというニュアンス。

 

明らかに閉め出されている。

 

背教というのは、離縁するというニュアンスがある。

 

教会()の方で離縁してしまう。

 

 

 

第二テサロニケ

 

2:6あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

 

2:7不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 

 

 

引き止めている者は聖霊。

 

聖霊が、悪霊や反キリストをとどめているが、残念ながら、その聖霊が取り除かれる。

 

ようするに、家の外に追い出されるという事。

 

その、追い出された状態が、ラオデキヤの戸を外で叩いているイエス様の姿。

 

だから、そういう意味では、聖書はみな同じ事を語っている。

 

その様な意味合いで、そう言う時代が来るという事は覚えておく。

 

問題は、何か。

 

終末の時代の問題は、「離縁」が一つのキーワード。

 

結婚関係を持っていたけれども、相方を追い出して、別の人とくっつく。

 

なので、今、ペンテコステで起きている、しるしと不思議のリバイバルというのは、いつの間にか、我々がキリストの霊と結び合わされていたのに、いつの間にか、別の霊と婚姻関係を持って、予てからの奥さんを追い出してしまった、そういう事。

 

一生懸命尽くしてくれた奥さん(この場合、聖霊)を、世の終わりになる時に、「こっちの方がいい」と言って追い出すのが、予てからの聖霊が追い出されて行くというのが、聖書が語っているニュアンス。    まさに下衆の極み。

 

今、そういうきわみに来ている。

 

キリスト教界は、聖霊が悪霊と入れかわって来ている時代であって、予てからの妻が別の者に変わっているのだが、ある人達はそれに気付かない。とんでもない状況。

 

その結果は、しるしと不思議で確かに信者は増えるかも知れない。

 

また、有名な牧師になるかも知れない。

 

キリスト教メディアにも載るかも知れない。

 

しかし、それはラオデキヤの状態。

 

「不足は無い」という。

 

しかし神の前では、「みじめで、裸である事を知らない」というように、贖いが失われてしまうので、永遠のいのちも危なくなってしまう。

 

聖霊があって初めて、永遠のいのちを受けているが、欲に引かれて、別のものを掴んでいくという状態に入って行く。

 

クリスチャンは、無欲なようでも欲はある。

 

そして神は、一人一人の心を見極めるお方。

 

微妙な所をサタンは突いて来る。

 

「全て捧げて神に従っている」と言うが、何のことは無い、どこかに欲はある。

 

例えば牧師など。 「あっちの教会より信者、献金が多い」

 

そういう牧師は多い。

 

そこで、変なものを掴み、聖霊も悪霊も分からなくなってしまう。

 

今はそういう時に来ている。

 

永遠のいのちを失うか否か。 しかし、その事に気づいているペンテコステ系の人は殆どいないものと思われる。

 

「このすごいしるしと不思議のトレンドに乗り遅れてはいけない」と言った感じ。

 

それが、先ほどの、「見る事も、聞く事も出来ない偶像」ということ。

 

書いてある事。

 

自分がどのような霊に導かれているか理解できないということ。

 

なので、霊的な事柄が大いに関係して来る。

 

 

 

黙示録

 

9:16騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。

 

 

 

二億とはおそらく本当の数ではないかと思われる。

 

「二億」は喩えでは理解できない。

 

今、世界中のクリスチャンは、カトリック、プロテスタント合わせて20億人ほどと言われている。

 

プロテスタントでも、二億人が、こういった霊に惑わされ、変な過激派になって行くのではないか。

 

 

 

9:17私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。

 

9:18これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。

 

 

 

火と煙と硫黄、これは霊的なものではないか。

 

地獄の火とまさに似ている。

 

こう言った霊に惑わされている。

 

しかし、惑わされている人達にとっては、「すごい神の恵み、臨在、力が私を通して現された」とか、「金粉が舞って、神の臨在が私を通して現された」など。

 

しかし、神から見れば、火と煙と硫黄など、地獄の様なもの。

 

惑わしというのは、すごい深いものがある。

 

霊的な事柄に関連しての一つの事は、「これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。」

 

口から災いが出る。

 

人類、人というのは、ある意味クリスチャンを喩えていると理解する。

 

なぜなら、「アダムは神から息を吹き込まれ、そして生きた人となった」とかいてあるから。

 

神の息は、聖霊。

 

「生きた人」とはクリスチャンの事。

 

クリスチャンの三分の一は、霊的に殺されてしまう。

 

口に災いがある。   この事は覚えておく。

 

これは、聖会とか、集会に言った時、悪霊が働いている時、災いは、悪霊の器の口を通して来る。

 

 

 

ヤコブ書

 

3:8しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

 

3:9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

 

3:10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

 

3:11泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。

 

 

 

ここでは、同じ口から、賛美と呪いが出て来る。

 

だから、これはメッセンジャーの口。

 

しかし、同じ口からあるときは甘い水、聖霊が出る。

 

その反面、やはり同じ口から悪霊が出る。苦い水。

 

黙示録の別の箇所でも「水が苦くなった」と書いてあるから、問題は、おかしな器が働いている集会に行った時に、そのメッセンジャーの口を通して、色んな霊が働く。

 

 

 

黙示録

 

9:18これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。

 

 

 

火と煙と硫黄は、霊的な事に関する喩え。

 

聖霊に関しては、「水と御霊と血」であるが、「火と煙と硫黄」は悪霊に関しての事。

 

聖霊に対抗している。

 

口は、問題ないように見えるが、問題は「霊」

 

場合によっては、悪霊の器でも、教理的には問題の無い事を話すこともある。

 

しかし、その口から出る霊が、人を殺す。

 

なので、その様な集会に言った時に、メッセージを聞いただけで霊でやられてしまう。

 

そういう例がある。

 

 

 

使徒行伝

 

10:44ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。

 

 

 

その時、ペテロは按手しているわけではなかった。

 

ただ話していた。口でしゃべっていた。

 

そうしたら、聖霊が、ペテロが喋っている中で、お下りになった。

 

悪霊も同じパターン。

 

ペテロにあらず、偽ペテロがなおも話し続けている時にそれは起こる。

 

言葉、口というのは、侮れない。

 

口から出ている言葉を聞いているだけで悪霊が下り、人類(クリスチャン)の三分の一が殺されてしまう。     そう言う災いが来る。

 

言葉を通して下る霊というものがある。

 

 

 

黙示録

 

9:19馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。

 

9:20これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、

 

9:21その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。

 

 

 

馬に「尾」とか「頭」があるのだが、これにも謎、喩えが使われている。

 

イザヤ書915節で、「頭」とは、長老や身分の高い者、「尾」とは、偽りを教える預言者とある。  これは、キリスト教の集会。

 

ベニーヒンも、ビルハモンも預言者であるが、そういう人たちを通して災いは下る。

 

「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」

 

これらの人々は、一見クリスチャンとは関係ないと思われるが、クリスチャンと関係ある事が書いてあり、喩えが書いてあり、謎で表現されている。

 

謎を見て行くならば、「手のわざを悔い改めない」、ようするに信仰によらないで、行ないに頼る。

 

「悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像」とは怪しい集会の器。  ベニーヒンなど。

 

今の時代の集会では、神は、そういった教会の、今のクリスチャンの間違いとして、偶像崇拝していると見ておられる。

 

器崇拝に注意。

 

ベニーヒンの集会に出れば、彼の下しているのは悪霊なので、「悪霊どもを拝み続け」となる。

 

コリントの手紙には、悪霊に捧げたものを食べるなら悪霊と関わりを持つと書かれているが、

 

それは、聖会の事を言っている。

 

悪霊の器からのぶどう酒を受けるなら、それは悪霊礼拝になる。

 

ベニーヒンを拝んでいたり、尊敬したりする事は、その裏にいる悪霊を拝むことになる。

 

「見ることも聞くことも歩くこともできない偶像」だと、神は言っておられる。

 

ペンテコステ系の人達は、自分たちがどんな霊によって奇蹟を起こしているのかを理解していない。

 

「殺人や魔術」とある。

 

教会へ来るクリスチャンは殺人を犯さないが、兄弟を赦さない人は、兄弟を憎む者は人殺しと書いてある。

 

「魔術」 ペンテコステ系の教会では今、魔術的なものが多い。

 

輪の中で祈る、また、「ヤベツの祈り」も魔術的な習慣。

 

同じ言葉を何年も繰り返して祈るのが、ヤベツの祈り。

 

今のクリスチャンは、それと知らずに魔術的なものを取り入れている。

 

「不品行」は、聖霊を捨て去って、悪霊を拝む事。  霊的な不品行。

 

「盗み」とは、御言葉を盗む事。  「艱難前携挙」など、御言葉を盗む。

 

イエス様が「かつてなく、今後とも無いような苦難が来る」と言っておられるのに、「艱難には遭わない」などと言う事。やはり、「盗み」

 

それに関して、災いが来る。

 

この9章に書いてある事は、いなごの事や、馬の事が書いてあったりと、動物や昆虫の事を書いてあるのではない。

 

これは、キリスト教の集会で起きている事をそのまま喩えで語っているにすぎない。

 

既にこれらの事は始まっている。    他人事ではない。

 

我々は、悪霊を拝むという事に関しての神の怒りという事を、見て行きたい。

 

 

 

ダニエル書

 

5:1ベルシャツァル王は、千人の貴人たちのために大宴会を催し、その千人の前でぶどう酒を飲んでいた。

 

5:2ベルシャツァルは、ぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た金、銀の器を持って来るように命じた。王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちがその器で飲むためであった。

 

5:3そこで、エルサレムの神の宮の本堂から取って来た金の器が運ばれて来たので、王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちはその器で飲んだ。

 

5:4彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。

 

5:5すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、

 

 

 

ここに書いてあるのはバビロンの王。

 

淫婦バビロンは、黙示録に書いてあるが、書いてある事は同じ。

 

「金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。」とある。

 

なので、これに通じる。

 

この事が問題になって、バビロンは、この日を最後に滅んでしまった。

 

だから、この罪は大きい。

 

そういう意味で今、黙示録で書いてあるように、器に、悪霊のぶどう酒を注いで、それを飲む。それに対しての神の怒りは凄まじいものがある。

 

なので、このリバイバルをきちんと理解しなければならない。

 

これは、神の怒りを引き起こすようなリバイバル、姦淫のぶどう酒であって、このリバイバル集会に対してどういう態度を取るか取らないかで、怒りに巻き込まれる恐れがある。

 

神の怒りを買ってしまう恐れがあるので、曖昧な態度ではいけない。

 

悪霊は、悪霊として、拒絶して行く。

 

多くのクリスチャンは、この様なリバイバルを受け入れ、神の怒りを買ってしまい、そして、聖霊を追い出してしまう。

 

ここに書いてある警告は見て行きたい。