ヨブ記9章 2012.8.12
9:1 ヨブは答えて言った。
9:2 まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。
9:3 たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。
9:4 神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。
サタンの働きがゆるされるのが、終末や艱難時代
正しい人ほど、そして、正しいがゆえに、困難に会うのが艱難時代の特徴
正しい人が憎まれるのが艱難時代
9:5 神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。
9:6 神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。
このことには、たとえの意味合いがある
世の終わりは、山(教会)が移される
山が動くというのは、聖書のひとつの特徴
参照 マタイ17:20
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
終末の特徴:山が動く、しかし、だれも、このことに気づかない
教会は、元にいた位置から動いてしまう
終末の日、教会が動くというのが、ひとつの特徴
終末の日、気をつけなければいけないのは、教会自体が別のものに変わっていく
1,2世紀前に比べて動いている
艱難前携挙説は、昔は無かった教え
このような、嘘・偽りについて神がゆるされているから、まったく気づかない
自分たちは正しいと思っている
山が移る理由:クリスチャンの偽善や罪に対して神が怒りを発せられているから
9:7 神が太陽に命じると、それは上らない。星もまた封じ込められる。
9:8 神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏まれる。
9:9 神は牡牛座、オリオン座、すばる座、それに、南の天の室を造られた。
9:10 神は大いなることを行なって測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。
9:11 たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。
太陽:器のたとえ
正しい聖徒も変質してしまう
9:12 ああ、神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか。だれが神に向かって、「何をされるのか。」と言いえよう。
世の終わり、多くのクリスチャンが気づかないうちに、もっとも大事なものを取られてしまう
素晴らしい約束は与えられている、しかし、聖霊を追い出すときに、契約が成立しなくなる、贖いが無効になる
神がそのように定められたら変えることはできない
主に恐れをもって歩み、働きをしていく
9:13 神は怒りを翻さない。ラハブを助ける者たちは、みもとに身をかがめる。
9:14 いったい、この私が神に答えられようか。私が神とことばを交せようか。
9:15 たとい、私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ。
9:16 たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。
9:17 神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、
9:18 私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。
9:19 もし、力について言えば、見よ、神は力強い。もし、さばきについて言えば、だれが私を呼び出すことができるか。
9:20 たとい私が正しくても、私自身の口が私を罪ある者とし、たとい私が潔白でも、神は私を曲がった者とされる。
これらの箇所で、少なくともヨブは神を誉めていない
艱難時代に正しいクリスチャンがヨブのような思いになる
イエス様も十字架の上で、「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」と、言われた
ここで言われているのは、試しを通しても、なおかつ、主に信頼してくる人を神は求めているのでは?
困難の中にあっても、神を信頼する人を求めておられるのでは?
試しを経ても、そして、たとえ、神からの弁解はなくても、なおかつ、とどまる、
人々から誤解されたら、それっきりと考える
艱難時代に、正しいクリスチャンに対して神が災いをもたらしたということが来る
しかし、実際はサタンがしたことなので、勘違いしないようにする
ヨブの恨み、辛みについて→このことは、私たちが思いやすい、ヨブはその代表と考える
正しいにもかかわらず、しかし、「お前が悪い」と言われて、そのことに乗ってしまうクリスチャンが多いのでは?ということを言われている
実際はサタンがしているのに、それが理解できずに、神への不信感を抱いてしまう
このことを正しく理解しておかないと間違いに入ってしまう
9:21 私は潔白だ。しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。
9:22 みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。
9:23 にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。
9:24 地は悪者の手にゆだねられ、神はそのさばきつかさらの顔をおおう。もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。
24節では、世の終わりのひとつの特徴について言われている
教会のことを言っている
偉い人は、悪者になってしまう
顔を覆う:正しいことを見なくなる
たとえば、教会が同性愛を容認するようなリーダーが出て、正しいクリスチャンを迫害する
終末、教会が変わることを正しく理解する
ゆえに、逮捕されたり、訴えられたりする人が悪いわけではない
そして、今、そうなりつつある
9:25 私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、しあわせを見ない。
9:26 それは葦の舟のように通り過ぎ、獲物に襲いかかるわしのように通り過ぎる。
9:27 たとい「不平を忘れ、憂うつな顔を捨てて、明るくなりたい。」と私が言いましても、
9:28 私の受けたすべての苦痛を思うと、私はおびえます。私は知っています。あなたは、私を罪のない者とはしてくださいません。
9:29 私はきっと、罪ある者とされましょう。ではなぜ、私はいたずらに労するのでしょうか。
ヨブがしきりに、自分は正しいのに、罪ある者とされていると言っている
世の終わり、正しいクリスチャンが罪ある者とされる
正しいクリスチャンが法律に違反すると言われる
イエス様も罪ある者とされ、死罪にされた
世の中が曲がっているので、こういったことについても、驚くに値しない
9:30 たとい私が雪の水で身を洗っても、灰汁で私の手をきよめても、
9:31 あなたは私を墓の穴に突き落とし、私の着物は私を忌みきらいます。
9:32 神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。
9:33 私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。
9:34 神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私をおびえさせないように。
9:35 そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。いま私はそうではないからだ。
34節「杖(教師のたとえ)を私から取り去れるように」の言葉に語りかけがある
世の終わり、正しいクリスチャンにとって、教師が恐ろしいものになり、災いとして用いられていく
正しいはずの教師がおかしくなり、批難されたり、有罪にされたりする
それを通して、びっくりしないこと!!
世の中の人(クリスチャン)に言われると、人の気持ちは案外変わりやすい
しかし、御言葉は過ぎ去らないので、一喜一憂してはダメ
イエス様も、そうだったので驚くに値しない
教師が正しいクリスチャンをおびえさせることについて、びっくりしない
神は、はじめから終わりまで、すべて分かっている
そして、艱難時代のポイントも、見せてくださっている
このことは幸いなこと
レムナントキリスト教会
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