ヨブ記29章 2012.12.30
29章全体で言われているのは、「かつてはすばらしい時があった、めぐみがあった」ということです。働き&賞賛&栄光があったことについて書かれています。ところが、30章は全然違うことが言われているそうです。本日は前半部分「恵み」についてみていきます。
29:1 ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。
29:2 ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。
29:3 あのとき、神のともしびが私の頭を照らし、その光によって私はやみを歩いた。
29:4 私がまだ壮年であったころ、神は天幕の私に語りかけてくださった。
29:5 全能者がまだ私とともにおられたとき、私の子どもたちは、私の回りにいた。
かつては恵みがあり、評判があっても艱難時代には軽蔑されたり逆転されたりしてしまう
神にもサタンにも認められた人が艱難に入る
はじめは恵みだった、しかし後に苦難に変わっていく
イエスさまもそうだった
正しいがゆえにどちらも経験する、恵み&困難の両方どちらも来る
天の御国に入るためには「試みを経る」というのが聖書のひとつの原則、なぜなら天の御国は狭いから
永遠の命に入るなら「小さい門、細くて狭い道」に入らなければいけない
主の言われる方法に合わせる、主もそのようにしたので見習う
イスカリオテのユダを除いて12弟子がまさに狭い道を歩んだ、キリストと同じような道を歩んだ
良い時も、そうでない時(困難な時)も、キリストと共に歩んだ
悪い時→それは、「試し」でもある
艱難時代=試し、聖書の一つの方法
本当に入りたいのなら、主の方法に合わせなければいけない
試しを通るという意味合いで御国への門や道は「小さい門、狭い道」と言える
今までの常識で見てはダメ、艱難時代は「恵み」ばかりではないということも理解しておく
29:6 あのとき、私の足跡は乳で洗われ、岩は私に油の流れを注ぎ出してくれたのに。
乳:御言葉の恵み
油:聖霊の恵み
29:7 私は町の門に出て行き、私のすわる所を広場に設けた。
29:8 若者たちは私を見て身をひき、年老いた者も起き上がって立った。
29:9 つかさたちは黙ってしまい、手を口に当てていた。
29:10 首長たちの声もひそまり、その舌は上あごについた。
29:11 私について聞いた耳は、私を賞賛し、私を見た目は、それをあかしした。
イエスさまの生涯もそうだった
参照 マタイ21:9
21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
群衆から賞賛を受けた、しかしそれだけではなかった
29:12 それは私が、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。
みなしご:この世に父がいない、天の父のみを父とする人のこと、そしてそういう人を助けることができた、イエスさまも同様だった
しかし、それだけでなく艱難を通り、死刑判決を受けた
両方受けて一人前、苦難を経て神の国に入る、逆に片方(良いこと)だけだと危ない
参照 ルカ6:26
6:26 みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。
29:13 死にかかっている者の祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。
やもめ:真の夫はキリスト、そういう人は恵みを受ける
29:14 私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった。
29:15 私は盲人の目となり、足なえの足となった。
このことはキリストにおいても成就した
しかしひどい目に会っている、この世においてクリスチャンはハッピーエンドではない
どんなに気をつけて歩んでいても、悪く言われたりする
良い時だけでなく、非難もくる、それでも着いてくるのか?
29:16 私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。
29:17 私はまた、不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。
主がしたこと
惑わされた教理をつかんでいた人を助けた
でも、それで終わりではない
29:18 そこで私は考えた。私は私の巣とともに息絶えるが、不死鳥のように、私は日をふやそう。
29:19 私の根は水に向かって根を張り、夜露が私の枝に宿ろう。
水、夜露:聖霊のたとえ、聖霊によって強められた
29:20 私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々に矢を放つ。
弓、矢:御言葉のたとえ
29:21 人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。
29:22 私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。
Ex:イエスさまの山上の垂訓
29:23 彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。
キリストを通して恵みが与えられた
29:24 私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。私の顔の光はかげらなかった。
29:25 私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また、王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆く者を慰める者のようであった。
王として主は来られた
しかし、この世においての結論は十字架に付けられた
私たちにもキリストと、似たりよったりの生涯を送る
しかし、それで終わるのではなく必ずよみがえりがある
しかも地球は長くはない、天体が焼け尽きる時が来る
栄光のからだを目指す、求める
イエスから目を離さない
参照 へブル12:2
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
イエスさまは、この世のすべてのものを失って、天の御国に帰った、ゆえに名声や能力をはじめとする「持ち物」がある人は危ない
レムナントキリスト教会
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