ローマ人への手紙10章 2011.1.9,1.16

 

10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。 

彼ら:(KJV:イスラエル)→クリスチャン

イスラエル(クリスチャン)は救われていない

 

10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。

10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

旧約のイスラエル人は神の方法を用いなかった→滅びに入った

クリスチャンなのに救われなかったら滅んでしまう

イスラエル:北のイスラエル(新約でいうカソリック)

神の義ではなく自分自身の義を立てるなら救いに至らない→一生懸命やっていても救われない

正しい知識を聖書から求める→このことを祈り求める

見えないかも知れないということを前提に真の知識を祈り求める

神の義を聖霊によって教えられることが大切

 

10:4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

キリストを信じる者にポイントがある

信仰の訓練をしなければならない

金にたとえられる

金は精錬されて作られるもの

神の前に価値あるものになっていく

日々の歩みの中で訓練する→義とされる

様々な困難や試練を通して訓練される

 

10:5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。

10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。

信仰はキリストがしてくださったことを信じること

ある人は信じる、ある人は信じない

 

10:7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

私たちのかわりにキリストがなさってくださったことを信じるのが信仰

 

10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

信仰の言葉は近くに与えられている→これを信じるなら実際に天国や地獄に行かなくてもそのことを実感できる

不信仰になってはダメ

思い煩ってはダメ

主の言われることを信じる人に恵みがある

信仰から信仰へとすすめられる

 

10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

私たちの救いは多少なりとも行いと関係している

 

10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

口で「イエスは主である」と告白することがポイント

サタンはこのことに圧迫をかけてくる

人前でイエス様を否定したら主から退けられてしまう

言葉()で言うときに圧迫がくることがある

機会があるたびに口で告白できるように祈り求めていく

これからはそのことが言いづらくなる

今の時代に「しかりしかり、否は否」としておかないと救いが危ない

語る機会があったら語っていく

決して引かされることがないように

誰かに聞かれたときに口をつぐんではダメ

 

10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

どんなときでもキリストを信じる

どういう問題に関してもキリストに信頼していく、信頼し続けていく

そうするならば失望することはない(KJV:恥を見ることは無い)

主の働きをするなら恥を見ることはない

そうしていくなら艱難も大丈夫

 

10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

遣わされなければ誰も伝えることができない

主に遣わされ、御言葉を宣べ伝える

 

10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。

10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

信仰は聞くこと→信仰は神の言葉を聞いてはじめて持てる

神のことばによる

Ex:アブラハム

神が語ったから彼は信じることができた

神の言葉を聞くなら信仰に変わっていく

 

10:18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

10:19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」

10:20 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」

10:21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

神様はあらゆる方法で語っている

一生懸命神は御言葉を語っているけれども反抗した

だから神の民は見捨てられ異邦人に救いが及んだ

今の時代にも当てはまること

新約の時代も不従順で反抗している

キリスト教界が非常識 Ex:艱難前携挙

わけの分からないインチキ教理が語られている

それを理解しなければ今の時代や黙示録を悟れない

根本的な問題:クリスチャンが反抗的で不従順→滅び

これを理解しないと黙示録の怒りの裁きが分からない